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第1話:泥に咲く徒花(後編)

第五章


数日後、美沙の自宅に宛先不明の小包が届く。

あの手紙と同じ、異様な雰囲気…一瞥しただけで、ノワールからの物と確信した。

躊躇いつつ開封すると…そこには会社の詳細な見取り図、膨大な量の写真データに指示、そして実行するための道具が揃えられていた。


美沙の会社は警備会社と契約し、常勤の夜警もいる。

それなのに、数日でこんな資料を…?

美沙はその異常な手際の良さに、感心よりも前に戦慄が走った。


そして、手書きのメモが一通。

『これを実行した瞬間から、あなたは被害者という立場から、相手を地獄に叩き落とす『加害者』にもなり得ます。その重みを受け入れられる場合のみ、実行なさってください』


「これが、自分が負う「業」か…」

ノワールのメモを見つつ、美沙は静かに呟いた。

指先が震え、メモの端が微かに揺れる。

彼女の瞳には、決意と恐怖が交錯していた。



第六章


会社で、美沙への虐めは苛烈を極めた。

防犯カメラの無い場所……。

給湯室では、故意に熱湯をかけられ、美沙は悲鳴を上げる。

熱湯が腕に触れた瞬間、皮膚が焼けるような痛みが走り、彼女は歯を食いしばって耐えた。


更衣室での暴行は日常茶飯事で、殴る蹴るに留まらず、私服に汚物をかけられ嘲られた事もあった。


女子トイレでの虐めは更に酷く、汚水に顔を浸され、その水を飲まされた。

美沙が堪らずに嘔吐すると、その頭を踏みにじりながら詩織は満面の笑みを浮かべる。


「よくお似合いよ、美沙さん。ゴミみたいな貴女は、一生汚水にまみれて生きていってね」

「……なんで、こんな事…するんですか……」

美沙が呻くように問う。

声は震え、喉が痛んだ。


「意味?……ふふ、そんなものあるわけないじゃない。強いて言えば、貴女の顔が一番『泥』が似合うからよ」

取り巻きたちと共に、嘲笑が響く。詩織の瞳には、美沙を一人の人間としてではなく、ただの便利な『ゴミ箱』として見ているような底冷えする空虚さがあった。


現状を知っている女子社員たちも、その矛先が自分たちに向けられるのを恐れ、見て見ぬふりをしていた。


美沙は、ただ耐えるしかなかった。

しかし、その耐え続ける日々の中で、彼女の心に、静かに「業」の重みが積み重なっていった。


第七章


異変があったのは、それから一ヶ月程が経過したある日の事。


その日は、朝から社内がざわめきに包まれていた。

「おはようございます…。皆さんどうされたんですか?」

出社した詩織に、部署の皆の視線が一斉に注がれ、ざわつきが静まり返る。

その視線は、普段向けられていた羨望の眼差しではなかった。

いつもは憧れの目を向けて来る男性社員たちも、まるで汚いものを見るような目で詩織をみてくる。


(何…?この空気は…?)

唖然とする詩織に、取り巻きの一人が青ざめながら近づいてくる。

「詩織さん…これ…」

取り巻きが震える手で差し出してきたスマホの画面を見て、詩織は凍り付いた。


画面には、美沙を這いつくばらせ、汚水を飲ませているのを嘲笑う詩織が映っていた。

取り巻きたちの嘲笑、詩織の笑い声がスマホから聞こえてくる。


「な…何よこれ……ち、違う!これは違うのよっ!」

震えながら弁明するも、周りの冷ややかな視線は変わらない。


詩織の前に、課長がやってくる。

「今朝から、社内の全部署のPC・スマホに、複数の動画が送りつけられているよ…鈴木さんに対して、随分な事をしていたようだね」


「違います、これは何かの間違い…」


「他の女子社員からも、幾つも証言が上がっているよ。君たちが怖くて言い出せなかったらしい…涼宮くんと他三名は、本日付で懲戒免職だ。既に警察にも通報してある」


「詩織…」

後ろから声がかかる。

振り向くと、婚約者の佐藤修哉がいた。


「残念だよ、君がこんな女だったなんて……。いや、俺の目が節穴だったのかもな」

彼は、汚物でも見るような目で詩織を一瞥すると、薬指の銀色を無造作に引き抜き、床へ放り捨て去っていった。

カラン、と乾いた音を立てて転がる指輪。それは、詩織が必死に築き上げた『完璧な幸福』が崩れ去る音だった。


「待って…やだやだ、行かないで修哉ああぁぁ!!」


廊下に響く詩織の、醜く、しかしどこか虚しい叫びを背中に受けながら、美沙は一度も振り返らなかった。

会社の外に出てみると、雨上がりの空から日が差し始めていた。

数ヶ月ぶりに深呼吸をしてみた。

肺を満たす空気は、驚くほど新鮮で、そして清らかだった。



第八章


後日、美沙は再びノワールの元を訪ねていた。

「この度は、本当にありがとうございました…!」

美沙は深々と頭を下げる。


「上手く行ったようで、何よりでした…。小型カメラ類の設置・撤去・廃棄も、全て済ませましたね?」

ノワールが、抑揚の無い声で問う。


「はい、頂いた指示通りに。でも、問題が解決したのは嬉しいんですが……詩織たちが泣き叫ぶのを見たら、もっと『ざまあみろ!』って思うのかと思ってました。でも少し、後味の悪いものなんですね」


「…それは、貴女自身がされていた『痛み』を真に知っているからこそ、感じるものですよ。それも含め、これから貴女が背負っていく「業」なのです……もう貴女が一生、ここに来ない事をお祈りしておりますよ」

ノワールの口元が、僅かに笑んだ気がした。


「……はい!」

美沙が涙を浮かべつつ、力強く答える。

再度頭を下げ、彼女はその場を後にした。

その足取りは、かつて罵られ、卑屈に怯えていた影はどこにもない。

確かな力強さと、僅かな輝きを帯びていた。



終章


鉄の扉が軋みを上げて閉まると、漆黒の館は再び静寂に包まれていった。


「……地獄からの脱却。これほどまでに惨たらしく、そして晴やかな終演はございません」

ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。


「……彼女は、ただ使い潰される『汚物』であることを拒み、自らの手で尊厳を勝ち取りました。その手に残った泥の感触こそが、彼女が生きている証となるのでしょう」


漆黒の記録帳を開き、羽根ペンを走らせる。

そこには『鈴木美沙:対価……波風なき安寧と、他者を焼く黒き残り火』と記された。


「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるでしょう…」

ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。

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