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第5話:甘き屈辱(前編)

黒の審判 第5話

甘き屈辱


序章


「……『美貌』とは、神が与えた祝福であると同時に、人を狂わせる呪いでもあります。

内面を見よと説く聖者の言葉は、美しき者の前ではあまりに無力。……ひとたび『色欲』の香りに触れれば、人は理性を捨て、ただ目の前の輝きに手を伸ばす愚かな獣へと成り下がるのです」

キイ……キイ……キイ……。

妖しく光る羅針盤の針が揺らめき、微かな音を立てる。


「眼前の美しさに理性を捨てた愚かな男。そして、それに振り回される哀れな女。……さて。今回のお客様は、色欲によって自身の平穏が脅かされていることに、ようやくお気付きになられたようです」

羅針盤の針が、凍りついたような音を立てて止まった。



第一章


「本当にごめん、優香。彼女は君みたいに強くないんだ…。僕がいないとダメなんだよ」

真鍋優香は、待ち合わせた喫茶店で、婚約者の坂崎勇斗から使い古された台詞を吐かれた。


「勇斗、彼女…美幸さんとは、いつから付き合ってたの?」

唖然としながらも、優香は質問を返した。


「その…半年くらい前…から…」

勇斗がバツの悪そうに口ごもる。


「優香先輩、私が全部悪いんです…。先輩と勇斗さんが婚約してるの知ってて、私から声かけてしまって。…私、最低な事しちゃって…」

大粒の涙をポロポロと流しながら、美幸が弁明する。


「…実は彼女、今妊娠してるんだ。俺も、男として責任を取らなきゃいけない。婚約を破棄させてくれ、この通りだ!」

勇斗が深く頭を下げる。

周りの客たちの、興味本位の視線が痛い。


勇斗とは付き合って3年になる。

会社の同僚で、社内でも公認のカップルだった。

婚約までこぎつけ、ようやく結婚…というところで、後輩の美幸に寝取られたのだ。


優香は身綺麗で、社内での業績も良好なキャリアウーマンだったが、炊事家事は、正直苦手なタイプだった。

美幸は正反対で、美人ではないが社内での立ち振舞いもあざとく、男の保護欲を掻き立てる、いわゆる男ウケするタイプの女だ。

勇斗も、そこに付け込まれたのだろう。


涙を流して謝罪しつつ、一瞬浮かべた美幸の笑みを、優香は見逃さなかった。

「……そんな事情なら、仕方ないよね。2人とも、お幸せに」

優香は絞り出すように声を出し、喫茶店を後にした。

自信とプライドを粉々に砕かれ、半ば放心状態で帰路に就いた。

自宅のポストの中には、漆黒の手紙が届いていた。



第二章


優香は錆びついた扉を開け、漆黒の館へと足を踏み入れた。

「真鍋優香様……ですね。お待ちしておりました。私、ノワールと申します。どうぞお掛けください」


重厚なベルベットの椅子に身を預けた優香は、消え入りそうな声で呟いた。

「……後輩に、婚約者を寝取られました…。あいつが一瞬見せた、勝ち誇ったような笑みが忘れられません…」


「なるほど。その後輩にとって、貴女の婚約者を寝取るのは、優越感に浸れる愉悦に過ぎなかったのですね」

ノワールはヴェールの奥で、微かに目を細めた。


「いいですか、優香さん。人間の愛情というものは、時に非常に脆いもの。眼前により良い美を目にした時、人はそれを掴もうとする愚者になる。……貴女は愛情という概念を、あまりに過信してしまった。その過信を、今この瞬間に捨てる覚悟はありますか?」

優香は、力なく頷いた。



第三章


「……では、私から三つの道を指し示しましょう」

羅針盤の針が出鱈目に跳ね回り、金属の摩擦音が響いた。


「一つ目は、誇りの奪還。貴女自身の魅力を見せつけ、元婚約者の後悔を引き出し、相手を自身の選択に絶望させる。相手は自身の選択に絶望しますが、貴女は人間の愚かさを見るでしょう」


「二つ目は、忘却。手を離れた相手の事は全て忘れ、静かな時を過ごす。貴女は一定の安息を得られますが、元婚約者を見る度に傷が疼くでしょう」


「そして三つ目。…報復。二人の関係を内側から徹底的に破壊し、関係の破綻に留まらず、社会的に抹殺する。貴女が相手の懐に戻り、屈辱に満ちた「業」を追う覚悟があるのなら、この道を選びなさい」


「み…三つ目を選びます…!」

途端に羅針盤の針が激しく揺れ、不協和音を奏でる。


「…優香さん、貴女の心には、まだ強い悩みがあるようですね」


「……やっぱり、三番目は怖いです。でも、忘れて終わらせるなんて悔しくて……。でも魅力なんて、今の私にはとても無理です…」

ノワールは、優香の顎をそっと持ち上げる。


「貴女は魅力的ですよ。自覚がないだけで、磨けば光る原石です。良ければ私が、その魅力を最大限に引き出して差し上げましょう。……ただし、知らなくてもいい『人の愚かさ』を知ることになりますが」


ノワールは棚から、豪奢な装飾が施された、一瓶のシェリー酒を取り出した。

栓を開封した途端に、芳醇な香りが館を満たす。


「これは『色欲のシェリー』。喉を通れば、貴女の魅力は最大限に引き出され、他人を異常なまでに惹きつけるでしょう。……さあ、どうされますか?泣き寝入りをするか、一矢報いるか…どちらを選ぶかは、貴女次第です」


優香は意を決して口にした。

その瞬間、身を焦がすような、強烈な恍惚感に襲われた。

彼女の瞳には朝露のような湿り気が宿り、肌は発光するような滑らかさを帯びた。

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