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第4話:狂った王(後編)

第五章


あの日から二週間。岡崎の店は異様な空気に包まれていた。

葛西はもはや客ではなく、狂った「王」として君臨していた。

「遅い。ビールの泡が1ミリ高い。……膝をつけよ、岡崎。誠意を見せろと言ったはずだ」

葛西の嘲笑が店内に響く。


岡崎は無言で床に膝をつき、額をタイルに擦り付けた。

屈辱で指先が震える。

だが、耳の奥でノワールの冷徹な声が響いていた。


(……もっと、もっと彼を増長させなさい。王座が高ければ高いほど、墜ちた時の衝撃は深くなる……)


「おい、あんた!」

土下座を強要する葛西に、遂に三島たちの怒りが頂点に達した。


「岡崎さんが、あんたに何したってんだよ!」

「何様のつもりだ、恥を知れ!」

「もう我慢出来ねぇ…!テメエみたいなクズはぶちのめしてやる!」


葛西は、三島たちを指差して鼻で笑い吐き捨てる。

「ぶちのめす?やってみろよ、逆に傷害罪で訴えてやる。お前らのような低賃金でこき使われる底辺には、一流の誠意というものが理解できないんだよ!」

店内が怒りと不快感で煮えくり返り、一触即発な空気が漂う。


その時、店のドアが開いた。

入ってきたのは、葛西が最も恐れる男――勤務先の社長、重森だった。


「……葛西君。君はここで、一体何をしているんだね?」

氷ついたような声に、嘲笑に満ちた葛西の顔が凍り付いた。


(馬鹿な!?会社から二駅も離れた店なのに何故社長が…?)

「……いや、これは、この店が不誠実な対応をしまして…私は客として、正当な権利を……」


「黙りなさい。我が社に届いたんだよ。君の『不祥事』をまとめた詳細な告発状がね」

重森がテーブルに叩きつけたのは、漆黒の厚い封筒。

中には、岡崎の店だけでなく、過去に葛西が餌食にした複数の店舗での隠し撮り写真、そしてSNSに拡散され始めた「特定個人による嫌がらせ被害」をまとめた資料だった。


葛西の顔から血の気が失せ、土気色に変わる。

「ち、違うんです! これは、誰かの罠で……!」


「罠? 毎日定時にここへ通い、店主を土下座させていたのだろう?……事実確認の為に足を運んだが、本当だったようだな。この目で確認して、全てが繋がったよ」


重森社長の追及は終わらなかった。

「……葛西君。君の行為によって、我が社の提携先や近隣店舗との信頼関係は著しく毀損された。すでに法務部が動いている。会社の名誉毀損、および不適切なパワハラ行為による損害賠償請求の準備を整えた」


葛西は、椅子から転げ落ちるように床に這いつくばった。

「待ってください!損害賠償って… 退職金で何とかなりませんか…!?」


「退職金だと? 懲戒解雇の人間に支払うものなど一銭もない。…家も、貯蓄も、君が誇っていたその『地位』も、すべて失うことになるだろう。覚悟しておくんだな」


葛西は声をあげて泣き喚いたが、もはやその姿に「王」の面影は微塵もなかった。ただの、惨めな抜け殻が転がっていた。



第六章


数週間後。

葛西典明は、会社からの多額の賠償請求に加え、過去に嫌がらせを受けた複数の店舗からの集団訴訟に直面していた。

SNSでの悪名は一生消えず、彼は文字通り社会から「抹殺」された。

借金を背負い、かつて見下していた「底辺」以下へと、彼自身が転落していったのだ。


岡崎は、平穏を取り戻した店で、彼は一人、開店前の準備をしていた。

土下座をした記憶や、自分への嫌悪感は、今も胸の奥に澱のように残っている。

しかし、その心は晴れやかだった。


「パパ、おはよう!」

店に併設された自宅から、まだ幼い娘が駆けてくる。

岡崎はその小さな体を抱き上げた。


もし、あの時葛西に屈して店を潰していたら。

もし、理不尽に耐えきれず自暴自棄になっていたら。

この温もりも、家族の笑顔も、守り抜くことはできなかった。


「……ああ。おはよう」

岡崎は鏡に映る自分を見た。

そこには「奴隷」ではなく、大切なものを守り抜くために地獄を潜り抜けた、一人の「男」の顔があった。

その掌に残る嫌悪感は、愛する者たちの尊厳を勝ち取った、戦士の傷跡のようなものだ。


(……僕は、守れたんだ。この場所を、僕の家族を)

壊れた誠意の欠片は元には戻らない。

だが、その鋭い破片を握りしめて立ち上がったことで、彼は一生揺らぐことのない「強さ」という名の救いを手に入れたのだった。



終章


鉄の扉が閉まると、館は再び、時を止めたような静寂に支配された。


「……隷属からの解放。これほどまでに痛々しく、そして清々しき終演はございません」

ノワールは、手元の羅針盤の針が、微かな震えの後にぴたりと止まるのを見届けた。


「彼は自ら奴隷であることを選び、誠心を自らの手で硝子の如く粉砕いたしました。ですが、その欠片こそが、主人の背を貫く、最も鋭利な短剣へと姿を変えたのです……。復讐の引き鉄を引いたのは、他ならぬ『周囲の善意』という名の義憤。

彼らを待つものは、隷属から解放された真の勝利か。それとも、新たな業への隷属か……」


漆黒の記録帳を開き、羽根ペンを走らせる。そこには『岡崎慎一:対価……無垢なる誠意と、隷属からの解放』と記された。


「さて。次のお客様は、どのような『業』を抱えて来られるのでしょう……」

ノワールはロウソクを一つ、静かに吹き消した。

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