第1話:泥に咲く徒花(前編)
序章
「……『香水』とは、残酷なまでに『序列』を際立たせる道具です。
華やかな天然香料の奥に、ほんの一滴……スカトールやインドールといった、排泄物の成分を隠し混ぜる。するとどうでしょう。香りは劇的に深みを増し、人を惑わす魔力を宿すようになります」
闇の中、ただ一滴の雫が水面に落ちたような囁き。
キイ…キイ…キイ…。
妖しく光る羅針盤の針が揺らめき、微かな音を立てる。
黒いヴェールの隙間から、冷ややかな唇が弧を描く。
「美しき者に、より深い芳香を。そのために、泥を啜り汚物として扱われる役割を押し付けられた者。
……さて。今回のお客様は、自分がその『汚物』として使い潰されることに、ようやくお気づきになられたようです」
羅針盤の針が、甲高い音を立てて止まった。
第一章
ガンッ!
汚水の入った掃除用のバケツが床に叩きつけられ、鈍い音が響く。
女子トイレは、侮蔑と嘲笑に満たされていた。
「ねえ美沙さん、そんなに震えてどうしたの?」
涼宮詩織の、鈴を転がすような声が反響する。
床に這いつくばった美沙の視界に入るのは、詩織の磨き上げられた高級ブランドのヒール。
彼女は、掃除用のバケツから引き上げたばかりの、真っ黒に汚れたモップを、慈しむように鈴木美沙の頬へ寄せた。
「ほぉら、1日溜まった汚れでこんなに真っ黒。…洗髪、してあげるわね」
詩織がサディスティックな笑みで美沙を見下ろす。
「……やめ、て……」
美沙の細い拒絶は、詩織の取り巻きたちの嘲笑にかき消される。
「ぷっ、声ちっちゃ!」
「ほんっと惨めよねぇ」
笑い声がトイレの壁に反響し、美沙の耳を刺す。
次の瞬間、汚水まみれのモップが美沙の頭を撫で回した。
鼻腔を突き刺したのは、汚水のすえた臭いと、詩織が纏う最高級の香水の香りだった。
相反する二つの匂いが混ざり合い、胃の底からせり上がるような不快感が美沙を襲う。
詩織は社内で一番の美貌を誇り、仕事も完璧な女性だった。
同期のエリート、佐藤修哉との婚約さえ勝ち取った成功者。
そんな詩織のストレスのはけ口として、美沙は地獄の日々を送っていた。
(ああ、私はもう人間じゃない…。この人たちを引き立てるための『雑巾』なんだ――)
詩織たちの嘲笑が遠くなる中、美沙は震える手で蛇口を捻り、冷水で髪の毛を洗い流した。
水が髪を伝い、首筋を冷たく滑り落ちる。
彼女は出口のない絶望の淵に、ただ佇んでいた。




