第8話 王城から持ち出さなかったもの
辺境の夜は、王都よりもずっと暗い。
街灯は少なく、月明かりと家々の灯りだけが道を照らしている。風が吹くたび、どこかで木が軋む音がした。
イリスは宿の小さな机に向かい、蝋燭の火を見つめていた。
王城を出るとき、彼女は多くを持たなかった。
いや――正確には、**持ち出さなかった。**
宝石も、格式ある衣も、権限も、帳簿も。王国の中心でしか意味を持たないものは、すべて置いてきた。
それは未練ではない。
必要がなかったのだ。
彼女が本当に扱っていたのは、紙でも数字でもない。
**状況と、人と、流れ**だった。
帳簿はただの結果にすぎない。数字は、判断の痕跡でしかない。王城に残したのは、それら“形”だけだ。
「……皆、勘違いしている」
ぽつりと呟く。
自分が奪われたと思っている者も、奪ったと思っている者も、同じ誤解をしている。
彼女がしてきた仕事は、誰かの役職に属するものではなかった。
肩書きがなければできないことでもない。
だから、持ち出す必要がなかった。
***
個人用の帳面を開き、イリスは今日歩いた集落の様子を書き留める。
井戸の位置。水量。畑の作付け。人の動き。
数字は少ない。だが、情報は生きている。
この土地は貧しいが、死んではいない。調整すべき“余地”が、あちこちに残っている。
――ここなら。
彼女は、初めて小さく息を吐いた。
王城では、すべてが完成しすぎていた。歪みを隠すために、さらに歪みを重ねる場所だった。
だが、ここは違う。
壊れているなら、直せばいい。
足りないなら、補えばいい。
ただ、それだけだ。
***
一方、王城の財務庫。
宰相グレゴールは、封印された書架の前に立っていた。
複雑な符号。重ねられた手順。解除自体は可能だ。時間をかければ、一つずつ開けられる。
だが――
「……開けても、意味がない」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
中にあるのは、確かに記録だ。だが、それは完成した設計図ではない。判断の途中経過、選択肢、却下された案。
“なぜそうしたのか”が、どこにも書かれていない。
イリスは、残さなかったのだ。
思考そのものを。
それは奪えるものではない。
「彼女は、何も隠していない……」
グレゴールは苦く笑う。
「最初から、誰にも渡していなかっただけだ」
その時、部下が駆け込んでくる。
「宰相閣下! 南の交易路でも、供給が止まりました!」
「……そうか」
驚きはなかった。
彼女が手を離せば、こうなると分かっていたからだ。
だが同時に、胸の奥に重い後悔が沈んでいく。
守るべきだったのは、帳簿ではない。
彼女自身だった。
***
辺境の宿。
イリスは帳面を閉じ、蝋燭を吹き消した。
闇の中、静かに目を閉じる。
王城から持ち出さなかったものは、多い。
だが同時に――
**王城では決して持てなかったもの**を、彼女は今、確かに手にしていた。
選ぶ自由。
立ち止まる余白。
そして、やり直す時間。
翌朝、彼女は集落の長に会いに行く予定だった。
それは、王国を動かす一歩ではない。
ただ、一つの土地を知るための、小さな始まりだ。
だが――
その小さな始まりが、やがてどれほどの空白を埋めることになるのか。
この夜、まだ誰も知らなかった。




