第6話 それでも私は、何も言わなかった
婚約破棄が告げられたあの夜のことを、イリスは辺境へ向かう馬車の中で思い返していた。
揺れは小さく、一定だった。御者は寡黙で、話しかけてくることもない。荷物は少ない。窓の外には、王都から離れていく景色が流れていく。
――あの場で、なぜ私は何も言わなかったのか。
答えは、ひとつではない。
舞踏会の広間。無数の視線。祝福のために集められた人々。あの空間で、彼女が口にできた言葉は限られていた。
事実を述べることはできた。
帳簿を示すこともできた。
宰相の名を出し、王国の仕組みを説明することもできた。
だが、それらはすべて――**相手が聞く耳を持っている場合に限る。**
あの時、王太子レオンハルトの目にあったのは、決断を下した者の確信だった。すでに結論は出ており、必要なのは形式だけ。彼女の言葉が入り込む余地はなかった。
それを、イリスは理解していた。
だから、言わなかった。
言えば、争いになる。
言えば、誰かが傷つく。
言えば、城の中で静かに保たれていた均衡が、音を立てて崩れる。
――それは、彼女が最も避けたかったことだ。
イリスは調整者だった。
衝突を起こす者ではない。
衝突が起きる前に、静かに歪みを正す者だ。
だが、あの夜、初めて思った。
**調整する価値がない場所も、あるのだと。**
***
馬車が小さく揺れ、道が荒れてきたのが分かる。
辺境は、豊かとは言えない土地だ。王都の恩恵は薄く、補助金も最低限。だが、その分、余計な干渉も少ない。
イリスにとっては、十分だった。
彼女は膝の上に置いた小さな帳面を開く。王城から持ち出したものではない。あくまで、個人的な記録だ。
そこには、数字だけでなく、短い注釈が書き添えられていた。
――この村は、冬に弱い。
――この商会は、約束を守る。
――この税率は、三年後に限界が来る。
国を動かすための帳簿ではない。
人が生きるための帳面だ。
「……ここから、ですね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
王城での沈黙は、逃げではない。
敗北でもない。
あれは、**区切り**だった。
***
一方、その頃。
王城では、沈黙の意味が、ようやく理解され始めていた。
「……彼女は、怒っていなかった」
宰相グレゴールは、独り言のように呟いた。
会議室に積まれた報告書の山。そのどれにも、明確な解決策はない。ただ、問題が連なっているだけだ。
「怒っていれば、何かを壊したはずだ。だが、彼女は壊していない」
部下の文官が、恐る恐る尋ねる。
「では……なぜ、こうなっているのですか」
宰相は、紙束に視線を落としたまま答えた。
「彼女は、何もしていないのだよ」
「……何も?」
「そうだ。何もしなければ、国はこうなる。彼女は、それを“続けていただけ”だ」
文官は言葉を失った。
怒りでも、復讐でもない。
ただ、手を離しただけ。
それが、これほどの影響を及ぼす。
「殿下は……」
「まだ、分かっていない」
宰相は首を横に振る。
「だが、分かる時が来る。その時にはもう、遅いだろう」
***
馬車が止まり、御者が告げる。
「着きました」
イリスは外へ降り立った。
風は冷たく、土の匂いが濃い。王都の香水の気配は、もうない。目の前に広がるのは、質素な街道と、小さな集落だった。
だが、彼女はここで生きていける。
むしろ――ここだからこそ。
イリスは一歩、前に進んだ。
背後で、王都の鐘が鳴る。
それは、彼女を呼び戻す音ではなかった。
国が、ようやく自分の沈黙に気づき始めた合図だった。
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