第5話 誰も味方にならなかった夜
王城を出る準備は、驚くほど静かに進んだ。
追放が正式に決まったその夜、イリス・アルヴェーンの部屋を訪れる者は一人もいなかった。侍女たちも、命じられた最低限の作業だけを終えると、目を合わせることなく下がっていく。
同情も、慰めもない。
それが、この城の答えだった。
イリスは机に向かい、必要なものだけを書き出していた。衣類は最低限。装身具は不要。金銭も、与えられた分だけで足りる。
――問題は、それ以外だ。
彼女は小さく息を吐き、机の引き出しから細い鍵を取り出した。王城の奥、財務庫に通じる副扉。その鍵は、婚約者という立場ゆえに預けられていたものだ。
本来なら、返却すべきもの。
だが、イリスは今夜、それを使うつもりでいた。
***
財務庫は、夜でも明かりが落とされることはない。王国の血流とも言える場所だ。静寂の中、イリスの足音だけが響いた。
彼女は迷わず奥へ進む。
帳簿、調整記録、地方商会との取り決め、例外措置の一覧。どれもが、単体では意味を持たない。だが、繋げれば――国の呼吸が見える。
「……ここまで、ですね」
独り言のように呟き、彼女は一冊ずつ、丁寧に確認していく。
本来、これらは宰相や王太子が把握すべきものだ。しかし、誰も全体を見ようとはしなかった。だから彼女が見ていた。ただ、それだけのこと。
イリスは封印具を取り出した。
正式な王城印ではない。財務部内でのみ通用する、彼女独自の手順。閲覧を完全に拒むものではないが、**全体像を把握できる者がいなければ、意味をなさない**仕組みだ。
「奪うわけではありません」
封を施しながら、静かに言う。
「ただ、手を離すだけ」
最後の帳簿を閉じ、封印が完了したのを確認する。これで、彼女が繋いでいた線はすべて切れた。
明日から、この国は“誰も調整しない状態”で動く。
それが、どういう意味を持つのか。
彼女は、もう考えないことにした。
***
部屋に戻る途中、廊下で足音がした。
「……イリス様」
呼び止めたのは、若い文官だった。財務部に配属されて間もない男で、彼女の補佐をしたことがある。
彼は周囲を気にしながら、小さく頭を下げた。
「あの……本当なのですか。婚約破棄は……」
「ええ。本当です」
即答だった。
男は唇を噛みしめる。
「何か、できることは……」
その言葉に、イリスは一瞬だけ目を伏せた。
彼は善意で言っている。それは分かる。だが――
「ありがとう。でも、大丈夫です」
それ以上は、言わなかった。
彼女が何をしていたかを説明すれば、この男は信じるかもしれない。だが、それは彼を危険に晒すことになる。
今、この城で“イリスの味方”になることは、賢明ではない。
男は何か言いたげだったが、結局、深く頭を下げて去っていった。
それが、この夜、唯一の声だった。
***
部屋に戻り、最低限の荷をまとめる。
窓の外では、舞踏会の名残か、まだ灯りが揺れている。楽しげな笑い声が、遠くに聞こえた。
イリスはそれを背に、最後に部屋を見回した。
ここで過ごした三年。王太子妃としてではなく、調整者としての日々。
評価されることはなかったが、後悔もない。
「……おやすみなさい」
小さく呟き、扉を閉める。
***
その夜、王城では誰も気づかなかった。
財務庫の封印が、変わったことに。
誰も、確認しなかった。
なぜなら――これまで、問題が起きたことがなかったからだ。
翌朝。
王都の倉庫で、帳簿と現物の差異が発覚する。
だが、その理由を説明できる者は、もうどこにもいなかった。




