第26話 揺らぐ継承
王城の空気は、駐屯を決めたあの日よりも重くなっていた。
兵はまだ辺境にいる。だが撤退の準備は水面下で進んでいる。
表向きは「再配置」。
実際は――限界だった。
「三か月は持たないと言ったはずです」
財務官の声は、もはや遠慮がなかった。
「このままでは冬を越せません」
軍務卿は反論しない。数字がそれを許さない。
レオンハルトは、玉座の前に立ったまま動かない。
王は病床にあり、政務の多くは王太子が担っている。
だが今、彼の決断が王国を削っているという事実は、隠しきれなかった。
「撤退は、弱さだ」
それでも口にする。
「継続は破綻です」
宰相グレゴールの声は冷静だった。
「殿下。剣はすでに示しました。次は数字を守る番です」
沈黙。
やがて、レオンハルトは低く言った。
「……撤退する」
会議室の空気がわずかに緩む。
だが、それで終わらない。
「ただし」
彼は顔を上げる。
「王都の威信は守る。敗北ではない」
***
同じ頃。
王城の奥、別室。
王の弟――第二王子アルヴェルトが、静かに報告を受けていた。
「駐屯は撤退するようです」
「ほう」
彼は穏やかに笑う。
「兄上は、ようやく現実を見たか」
「ですが、支持は落ちています」
「当然だ」
アルヴェルトは椅子にもたれた。
「剣で示し、数字で負けた」
その事実は重い。
「民の間では……」
側近が言葉を選ぶ。
「“辺境の女”の名が広がり始めています」
その名を、アルヴェルトは繰り返す。
「イリス」
目を細める。
「兄上は、あれを切り捨てたのだったな」
***
辺境。
兵の撤退は、あくまで静かに行われた。
旗は下ろされ、荷はまとめられ、焚き火は消える。
表向きは配置転換。
だが誰もが理解している。
王都は、引いた。
レティシアが呟く。
「終わったな」
「いいえ」
イリスは首を横に振る。
「始まります」
「何がだ」
「王都の内部です」
兵が引けば、責任の所在が問われる。
政争は、ここからだ。
***
セレスタ公国。
エリオットは、王国の最新報告を読み終えた。
「撤退しましたか」
「はい」
「では、次の段階へ進みましょう」
「正式使節を?」
「ええ」
彼は静かに微笑む。
「王都ではなく、辺境へ」
それは宣戦布告ではない。
だが、明確な意思表示だった。
中心をどこに見るか。
公国は選ぶ。
***
王都。
撤退の報は、民衆にも伝わった。
「辺境は反乱ではなかった」
「なら、なぜ兵を?」
疑問は静かに広がる。
そして同時に、もう一つの声が生まれる。
「辺境は、安定しているらしい」
「商人が戻っている」
噂は、止められない。
王太子の名と並び、イリスの名が囁かれる。
レオンハルトは、それを聞いていた。
怒りではない。
焦燥でもない。
――恐れ。
中心が、移るかもしれない。
王とは、血で決まるはずだった。
だが今、流れがそれを否定し始めている。
そして王城の奥では、もう一人の王族が静かに動き始めていた。
王位継承は、もはや確定ではない。
剣は引かれた。
だが王国は、より深い揺らぎの中へ入っていく。




