第19話 試される調整者
ヴァイスハルト商会の本隊が到着したのは、数日後のことだった。
前回よりも静かに、だが確実に。
荷馬車の数は増えていない。代わりに、護衛の質が違う。装備は目立たないが、動きが洗練されている。
そして、その中央に一人の男がいた。
四十代半ば。灰色がかった黒髪。穏やかな微笑みを浮かべているが、その目だけが静かに周囲を観察している。
「……あれが本命か」
レティシアが低く呟く。
男は集落の入口で馬を降り、ゆっくりと歩み寄った。
「初めまして。カイン・ヴァイスハルトと申します」
柔らかい声音だった。
だが、その名が持つ重みは、商人たちの反応が示している。
ヴァイスハルト商会の当主。
王都でも、決して軽んじられない存在だ。
「イリスです」
彼女は、余計な肩書きを添えなかった。
カインは、ほんのわずかに目を細める。
「肩書きを名乗らないのですね」
「必要ありませんので」
「なるほど」
それだけで、彼は一つ頷いた。
***
話し合いは、集落の小屋で行われた。
長と数人の実務担当者、レティシアが同席する。フィオナは隅で帳面を持ち、静かに聞いている。
カインは、用意してきた書類を広げた。
「本日は、新たな提案があります」
その内容は、前回よりも踏み込んでいた。
辺境を中継拠点とする広域流通。
周辺三都市との専属契約。
交易路の整備費用の一部負担。
条件は魅力的だ。だが、その中に一つ、違和感があった。
「……専属?」
イリスが、淡々と問う。
「ええ。我が商会との優先契約を結んでいただく。一定期間、他商会との大規模取引を控えていただく形です」
静かだが、重い。
それは事実上の囲い込みだった。
レティシアが、険しい顔になる。
「縛る気か」
「違います」
カインは穏やかに笑う。
「安定を提供する代わりに、安定を求めているだけです」
論理は正しい。
だが、その契約を結べば、この集落の選択肢は狭まる。
イリスは、すぐに答えなかった。
書類を一枚ずつ確認する。条件。期間。罰則。
そして、顔を上げる。
「この条件では、受けられません」
長が息を呑む。
レティシアも驚いた顔をした。
カインは、表情を変えない。
「理由を伺っても?」
「専属契約は、流れを止めます」
イリスは言う。
「今、この場所は“選ばれている”から回っています。選択肢があるから、流れが集まる」
「ですが、専属になれば規模は拡大します」
「拡大は、目的ではありません」
その言葉に、カインの目がわずかに鋭くなる。
「では、目的は?」
「続くことです」
迷いはない。
「専属になれば、御社が何らかの事情で引いた時、この場所は崩れます。依存は、流れを歪めます」
小屋の中が静まり返る。
フィオナが、小さく頷いた。
「こぼれる」
小声だったが、全員に聞こえた。
カインは、初めて微笑みを深めた。
「……なるほど」
彼はゆっくりと書類を閉じる。
「専属は撤回しましょう」
あまりにあっさりと。
レティシアが思わず声を上げる。
「いいのか?」
「ええ」
カインは穏やかに答える。
「本日は、試しでした」
長が顔を強張らせる。
「試し?」
「急拡大に飛びつくかどうか。囲い込みを受け入れるかどうか」
その視線が、真っ直ぐイリスを捉える。
「あなたは、規模ではなく構造を見ている」
イリスは、否定も肯定もしない。
「それが、ここを回している理由ですね」
カインは立ち上がる。
「今後は、対等な関係でいきましょう」
その一言は、商会当主としての最大の評価だった。
***
商隊が去った後、レティシアが言う。
「……危なかったな」
「ええ」
「なぜ即答しなかった」
「即答すると、考えないと思われます」
イリスは淡々と答える。
「考える時間を取ることも、判断の一部です」
レティシアは苦笑する。
「お前は、本当に剣を使わないな」
「使う必要がない限りは」
イリスは空を見上げる。
王都はまだ大きい。
だが今、この辺境は――
試され、そして“本物”と認められた。
それは剣よりも重い評価だった。
遠く離れた王城では、まだ誰も知らない。
経済の主戦場が、静かに移りつつあることを。




