第15話 名前のない役割
変化が定着し始めると、人は次に「名前」を求める。
それは自然な流れだった。
水路の調整から十日ほどが過ぎ、集落では目に見えて無駄が減っていた。畑の作業は早く終わり、倉庫にはわずかながら余剰が生まれ、井戸の周りで口論が起きることも少なくなった。
誰かが指示したわけではない。
誰かが命令したわけでもない。
それでも、確かに“回っている”。
その中心にいるのが誰か――
皆、気づき始めていた。
***
夕方、集落の長がイリスを呼び止めた。
「少し、話がある」
いつもの厳しい表情ではなく、どこか探るような目をしている。
小屋の中には、長のほか、数人の年配者が集まっていた。畑を取り仕切る者、倉庫を管理する者、水路の修繕を担当してきた者。
この集落の“実務”を担う人間たちだ。
「最近のことだがな」
長が切り出す。
「皆、お前の言うことを聞いて動いている」
「聞いてはいません」
イリスは即座に否定した。
「判断しているのは、皆さん自身です」
年配の男が苦笑する。
「そう言われると思ったよ。だがな……それでも、中心は必要だ」
中心。
その言葉に、イリスは一瞬だけ視線を伏せた。
「代表でも、責任者でもいい。名前がないと、外と話ができん」
別の男が言う。
「商人が来た時もそうだ。誰に話を通せばいいのか分からない」
それは、正しい指摘だった。
集落が“回り始めた”以上、外との接点が生まれる。接点には、必ず役割が必要になる。
イリスは、しばらく黙って考えた。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「私は、その役割にはなりません」
空気が、一瞬止まる。
「……なぜだ」
長の声には、苛立ちよりも困惑があった。
「今は、私がいることで回っています。でも、それは長く続きません」
「何を言っている」
イリスは、静かに答えた。
「人が集まると、“その人がいなくなった時”を考えなくなります」
王都で、何が起きたのか。
その記憶が、胸の奥をかすめる。
「私は、ここを“私がいないと回らない場所”にはしたくない」
年配者たちは、言葉を失った。
それは、権力を拒む者の言葉だった。
***
そのやり取りを、少し離れた場所で聞いていたレティシアが、腕を組んで唸る。
「……お前、本当に変わってるな」
「そうでしょうか」
「普通は、喜んで名を得る。責任も、権限も、力だ」
「力は、集めると歪みます」
イリスは淡々と言った。
「分散している方が、強い場合もある」
レティシアは鼻で笑う。
「戦場じゃ、あり得ない話だ」
「戦場では、そうですね」
イリスは頷く。
「でも、ここは戦場ではありません」
その言葉に、レティシアは何も返せなかった。
***
夜。
集落では、いつもより少しだけ灯りが多かった。
作業が早く終わった分、人々は家の外で言葉を交わし、子供たちは遅くまで走り回っている。
イリスは、その様子を遠くから見ていた。
自分が中心に立たないことで、皆が自然に役割を分担し始めているのが分かる。
水路を見る者。倉庫を気にする者。畑を調整する者。
――これでいい。
その時、フィオナが隣にやってきた。
「ねえ」
「どうしましたか」
「イリスは、何なの?」
素朴な問いだった。
イリスは少し考え、答える。
「……通り道、でしょうか」
「通り道?」
「人や物や考えが、ぶつからずに流れるための場所です」
フィオナは首を傾げ、それから小さく頷いた。
「じゃあ、いなくなったら?」
「別の道が、できます」
それでいい。
それが、正しい。
イリスは夜空を見上げた。
ここには、まだ名前がない。
だが、確かに役割は生まれている。
それは、誰かが奪えるものではない。
そして――
その“名前のない役割”が、やがて外の世界を引き寄せることになる。
この時点では、まだ誰も知らなかったが。
王都とは別の場所で、
**新しい中心が、静かに形を取り始めている**ということを。
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