第14話 数字が動く
変化は、静かに始まった。
誰かが大声で知らせたわけでも、鐘が鳴ったわけでもない。ただ、夕方の畑で、いつもより早く鍬を置く人が増えただけだ。
「……今日は、もう終わりでいいか」
農夫の男が空を見上げ、そう呟いた。
日が沈むまで、まだ少し時間はある。だが、やるべき作業は終わっていた。水が途切れず、畑の隅々まで回ったことで、余計な往復が要らなくなったのだ。
イリスは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
帳面は開かない。
今、見るべきは数字ではなく、人の動きだった。
***
翌日。
倉庫の前で、集落の長が首を傾げていた。
「……おかしいな」
「何かありましたか」
イリスが声をかけると、長は帳面を指差す。
「昨日の分だ。運び入れた量は、いつもと同じ。だが……残っている」
余っているのだ。
無駄が減った分、消費が抑えられている。
「数字が、合わない」
長は困惑していた。これまで、数字は常に足りなかった。合わないとすれば、減る方向だったはずだ。
「合っています」
イリスは静かに言った。
「今までが、合っていなかっただけです」
長はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。
「……そういうものか」
その反応に、イリスは少しだけ安堵する。
理解されなくてもいい。だが、拒絶されなければ十分だ。
***
昼過ぎ、川辺で子供たちが集まっていた。
その中に、例の小さな少女がいる。地面に木の枝で線を引き、石を並べて何かを考えていた。
「それは、何?」
イリスが尋ねると、少女は顔を上げる。
「あのね、水がね……」
言葉を探しながら、少女は続けた。
「ここを通ると、早くなる。でも、ここだと、ちょっと溜まる」
指で描かれる線は、昨日までの水路と、今の水路をなぞっている。
イリスは、思わず目を細めた。
「……よく見ていますね」
「ずっと見てた」
少女は誇らしげでもなく、ただ事実として言った。
「前はね、ここで止まってた」
止まっていた。
それを、この子は感覚で覚えている。
「名前は?」
「フィオナ」
短い答え。
「フィオナ。数を数えるのは、好き?」
少女は少し考えてから頷いた。
「好き。いっぱい数えると、分かるから」
「何が?」
「……無駄」
その言葉に、イリスは小さく息を呑んだ。
まだ、言語化できていない。だが、感覚として掴んでいる。
――この子は、分かる。
***
夕方。
レティシアは倉庫の前で腕を組み、作業を見ていた。
「……兵站だな」
ぽつりと呟く。
イリスが振り返る。
「兵站?」
「物が、自然に揃っていく。余計な命令もない。前線に立つ者が、困らない」
彼女は苦々しく笑う。
「王都で、これができていれば……」
「できていました」
イリスは、淡々と言った。
「あなたが、気づかないうちに」
レティシアは言葉を失う。
確かにそうだ。彼女は剣を振るうことに集中し、後ろを見なかった。見なくても、回っていたから。
「……今は?」
「今は、いません」
イリスはそれ以上、何も言わなかった。
***
夜。
イリスは宿で帳面を開いた。
初めて、数字を書く。
作業時間:減少
水利用率:改善
倉庫残量:微増
どれも小さな変化だ。
だが、積み重なれば――確実に効く。
「動きましたね」
誰にともなく、そう呟く。
これは、奇跡ではない。
剣も、魔法も、特別な力もない。
ただ、止まっていたものが、流れ始めただけだ。
イリスは帳面を閉じた。
この集落は、まだ豊かではない。
だが、もう“減り続ける場所”ではない。
その事実を、数字が静かに示していた。
そして、数字は嘘をつかない。
動き始めた流れは、止めようとしなければ――
自然と、次の場所へ広がっていく。




