第13話 一行だけの提案
集落の集会は、昼下がりに開かれた。
といっても、立派な建物があるわけではない。広場の中央に置かれた長椅子と、木箱を並べただけの簡素な場だ。集まったのは、長と数人の年配者、それに作業を終えた住民たち。
レティシアは少し離れた場所で腕を組み、周囲を警戒していた。剣は抜いていないが、目だけは常に動いている。
「で……話ってのは何だ」
集落の長が、率直に切り出した。
イリスは頷き、帳面を開く……ことはしなかった。
代わりに、指で地面に一本の線を引く。
「水路を、ここで曲げます」
それだけだった。
集まった者たちが、互いに顔を見合わせる。
「……それだけか?」
「はい」
イリスは、淡々と続ける。
「三日で終わります。人手は、今いる範囲で足ります。新しい資材も要りません」
ざわり、と小さなどよめき。
レティシアは思わず前に出た。
「待て。それで何が変わる。そんなもの、戦でも何でもない」
イリスは彼女を見て、首を振った。
「戦ではありません。調整です」
「そんな一行で、集落が救えるとでも?」
「救うつもりはありません」
また即答だった。
「“楽になる”だけです」
長が、腕を組んだまま言う。
「曲げたところで、水が増えるわけじゃない」
「増えません」
「じゃあ意味がないだろう」
イリスは、少しだけ間を置いた。
「増えるのは、“使える時間”です」
静かに言葉を選ぶ。
「今は、畑に水を回すために、皆さんが何度も往復しています。その途中で、流れが止まる。だから、無駄が出る」
地面に描いた線の先を、指で軽くなぞる。
「ここを曲げれば、滞りが減ります。水量は同じでも、手間が減る。手間が減れば、余裕が生まれる」
集落の男が、眉をひそめる。
「……余裕ができて、それで?」
「次を考えられます」
イリスは、そこまでしか言わなかった。
未来を盛らない。
成功を約束しない。
ただ、今より少しだけ良くなる話をする。
***
沈黙が落ちる。
やがて、誰かが呟いた。
「三日なら……試してもいいんじゃないか」
「失うものは、ないしな」
期待は、まだない。だが拒絶もない。
長は、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。三日だ」
イリスは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その様子を、レティシアは複雑な表情で見ていた。
剣も、命令も、威圧もない。
それなのに、人が動く。
「……不思議なやり方だな」
小さく呟く。
イリスは聞こえなかったふりをした。
***
作業は、翌朝から始まった。
石をどかし、土を掘り、流れを少しだけ変える。大がかりな工事ではない。誰にでもできる作業だ。
イリスは指示を出しすぎない。
必要な時だけ、位置を示す。
「そこは、少しだけ高く」
「その石は、外さないで」
理由は、説明しない。
だが、不思議と誰も疑問を口にしなかった。
レティシアは、最初こそ苛立っていたが、次第に気づき始める。
人の動きが、無駄なく配置されていることに。
誰かが余れば、別の誰かが自然に埋める。イリスはそれを、ただ見ているだけだ。
「……これ、戦の配置に似ている」
思わず口に出る。
イリスは、少しだけ微笑んだ。
「戦わないための配置です」
レティシアは、返す言葉を失った。
***
三日目の夕方。
水は、確かに変わっていた。
量が増えたわけではない。だが、途切れず、滞らず、同じ速度で流れている。
「……あれ?」
畑にいた農夫が、首を傾げる。
「今日は、往復が少ないな」
「水が、逃げてない」
小さな声が、次々に上がる。
イリスは、何も言わなかった。
数字も、成果も、まだ出ていない。
それでいい。
レティシアは、水路を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
派手な勝利はない。
だが――これは、確かに“勝っている”。
剣を振るわずに、流れを変える。
それが、どれほど強いことなのかを、彼女はようやく理解し始めていた。
イリスは夕暮れの空を見上げる。
これは、ほんの一行だ。
だが、その一行が、次の行を呼ぶ。
集落はまだ気づいていない。
今、自分たちが――
**最初の一歩を踏み出した**ということに。




