第11話 水が足りない理由
水が足りない。
それが、この集落で最も頻繁に口にされる言葉だった。
だが、イリスが数日歩いて見た限り、その表現は正確ではない。井戸は枯れていない。雨も、極端に少ないわけではない。川も、細いながら確かに流れている。
――水は、ある。
問題は、それが「必要な形で」「必要な場所に」届いていないことだった。
***
朝、イリスは集落の南側にある古い水路を訪れていた。
石組みは崩れ、ところどころに土砂が溜まっている。だが、完全に壊れているわけではない。少し手を入れれば、再び使えるだろう状態だ。
そこへ、年配の男がやってきた。
「その水路か。昔、使ってたやつだ」
「使わなくなった理由は?」
「途中で詰まってな。直そうとしたが、人手が足りなかった」
男は肩をすくめる。
「それに、直しても大した量は流れなかった。だから、諦めた」
イリスは、水路の傾きを確かめながら頷いた。
確かに、設計は甘い。勾配が一定でなく、途中で流れが滞る。これでは、少しの土砂で詰まってしまう。
「井戸の水は、どう使っていますか?」
「飲み水が優先だ。畑は……雨頼みだな」
それが、この土地の常識だった。
常識だからこそ、誰も疑わない。
***
昼前、イリスは倉庫の位置を確認していた。
集落の外れ。水源からも畑からも、微妙に遠い。
「なぜ、ここに?」
「昔、盗賊が出てな。集落の中に置くと危ないってことで」
理由は理解できる。
だが、それは過去の話だ。今は状況が違う。
運搬距離が長いということは、労力が増えるということ。労力が増えれば、無理が出る。無理が出れば、どこかで綻びる。
それらが積み重なって、“水が足りない”という感覚を生む。
イリスは帳面を開き、ようやく数行だけ書き込んだ。
――水量:不足していない
――問題:配分、動線、維持
数字は、まだ書かない。
***
午後、集落の子供たちが川辺で遊んでいるのを見つけた。
浅瀬で石を積み、流れをせき止めては壊す。何度も繰り返している。
イリスは、ふと足を止めた。
「それ、どうしてそこに積んでいるの?」
声をかけると、年長の少年が答える。
「ここだと、水が溜まるから」
「じゃあ、少し下だと?」
「流れちゃう」
少年は当たり前のように言った。
イリスは、目を細める。
――分かっている。
この子たちは、感覚で理解している。どこに置けば水が溜まり、どこで流れるかを。
大人たちが忘れてしまったことを。
***
夕方、集落の長の家で簡単な話し合いが開かれた。
「水が足りないって話だがな」
長は腕を組んで言う。
「正直、どうしようもない。昔からこうだ」
「そうですね」
イリスは否定しなかった。
「ですが、“足りない理由”は、はっきりしています」
数人が顔を上げる。
「水が少ないからではありません。使い方が、今の集落に合っていないだけです」
ざわり、と小さなどよめき。
「直すのに、金はかかる」
「大規模な工事は必要ありません」
イリスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「水路を全部作り直す必要はない。一部を変えるだけでいい」
「一部?」
「ええ。三か所です」
具体的な場所を示すと、長は眉をひそめた。
「それで、本当に変わるのか」
「変わります」
断言だった。
だが、イリスは続ける。
「ただし、すぐではありません。最初は、違いが分からないでしょう」
期待を煽らない。
それが、彼女のやり方だった。
***
話し合いの後、誰もが半信半疑のまま散っていった。
イリスは一人、宿へ戻る。
帳面を開き、ようやく数字を書き込む。
必要な労力。移動距離。水量の変化。維持にかかる時間。
「……問題は、水じゃない」
小さく呟く。
「“止まっていること”ですね」
王都と同じだ。
流れが止まると、人はそれを“不足”だと感じる。実際には、どこかに滞っているだけなのに。
イリスは帳面を閉じた。
次に必要なのは、説得ではない。
**一度、動かしてみせること**だ。
そのための方法は、もう見えていた。




