第10話 誰も困っていない場所
辺境の朝は、静かだった。
王都の朝のように鐘が鳴り響くこともなく、商人の呼び声が飛び交うこともない。ただ、風が土を撫で、家々の煙突から細い煙が立ち上るだけだ。
イリスは宿を出て、集落の中を歩いていた。
舗装されていない道。古びた家屋。決して豊かとは言えない景色。だが――荒れてはいない。
人々はそれぞれに動き、畑を耕し、荷を運び、井戸の周りで言葉を交わしている。活気があるとは言えないが、停滞しているわけでもなかった。
「……不思議ですね」
思わず、そんな言葉が漏れる。
王都では、今頃きっと市場が荒れ、会議室が混乱している。物が足りず、判断が遅れ、責任の押し付け合いが起きている頃だ。
だが、ここでは誰も慌てていない。
困ってはいる。だが、**破綻していない**。
それが、イリスには奇妙に映った。
***
井戸のそばで、水を汲んでいた女性たちが、イリスに気づいて会釈をする。
「おはようございます」
「おはよう」
短いやり取り。それ以上、詮索はされない。
この集落では、余所者に過度な期待をしない。裏切られた経験が、何度もあるのだろう。
イリスは井戸の縁に手を置き、水面を覗き込んだ。
水位は低い。だが、完全に枯れているわけではない。
問題は、量ではなく――**使い方**だ。
彼女は周囲を見回す。
畑は点在しており、作付けはまちまち。水路は古く、途中で土砂に埋もれている部分もある。倉庫は集落の外れにあり、運搬効率が悪い。
どれも致命的ではない。
だが、積み重なれば、確実に重荷になる。
「ここは……困っていない場所ですね」
誰にともなく、そう呟く。
困っていない、というのは問題がないという意味ではない。
**困り切っていない**、という意味だ。
それは、ある意味で一番厄介な状態でもある。
***
昼前、イリスは集落の長に会った。
年老いた男で、背は低く、視線は鋭い。彼はイリスを上から下まで一度見てから、静かに言った。
「追放された王都の人間だと聞いた」
「はい」
「助けに来たのか?」
「いいえ」
即答だった。
長は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑う。
「正直だな」
「嘘をつく理由がありませんので」
長は頷き、腰を下ろすよう促した。
「この土地は、貧しい。だが、もう期待しないことにも慣れている。王都から来た者は、皆、何かを約束して帰っていった」
「約束は、守られなかった」
「そうだ」
イリスは、静かに言った。
「だから、私は約束しません」
長は、じっと彼女を見つめる。
「では、何をするつもりだ」
「見るだけです」
「……見る?」
「はい。しばらく」
それ以上の説明はなかった。
長は、深く息を吐き、立ち上がる。
「好きにしろ。何も起きなければ、それでいい」
それは拒絶ではなかった。
この土地なりの、受け入れ方だった。
***
午後、イリスは集落の外れまで歩いた。
乾いた土地。だが、地面の割れ方を見る限り、完全な不毛ではない。水さえ回れば、十分に息を吹き返す。
風向き。地形。人の流れ。
彼女は帳面を開かず、ただ頭の中で整理していく。
数字を出すのは、まだ早い。
ここで必要なのは、計画ではない。
**理解**だ。
王都では、常に時間に追われていた。問題が起きる前に、先回りし続ける必要があった。
だが、ここでは違う。
誰も、急かしてこない。
イリスは、初めて自分の歩調で考えていることに気づいた。
***
夕方。
宿へ戻る途中、子供たちが石を投げて遊んでいるのが見えた。距離を測り、当て、外し、また投げる。
一人の小さな少女が、じっと地面に描かれた線を見ている。
「そこからだと、少し左にずれますよ」
思わず、声をかけていた。
少女はきょとんとしながら、言われた通りに投げる。
石は、狙った場所に当たった。
「……すごい」
少女は目を輝かせる。
イリスは、はっとして微笑んだ。
「偶然です」
本当は、偶然ではない。距離と角度を見ただけだ。
だが、今はそれでいい。
宿に戻り、イリスは小さく息を吐いた。
王都では、常に「役に立つかどうか」を問われてきた。
ここでは、まだ何も問われていない。
それが、ひどく心地よかった。
だが同時に――
この場所は、**少しのきっかけで大きく変わる**とも、彼女は理解していた。
今は、誰も困っていない。
だからこそ、誰も気づいていない。
どこを触れれば、流れが動き出すのかを。




