第2章
あの忌まわしいコードを解析し始めてから数日が経っていた。
啓介は心身ともに疲弊していた。文字列の構造は把握できたものの、その意味には全く辿り着けない。それは既存の言語やデータ構造の論理の外側にあるように感じられ、彼は寝不足で目の下に濃い隈を作っていた。研究室の窓から差し込む朝の光すら、彼の部屋に戻れば不気味な青白い光に見えるほどだった。
このデジタルな暗闇から一時的に逃れるため、啓介は久々に大学キャンパスに足を運んだ。人々の賑わいに紛れることで、啓介はあのコードから解放されたいと願った。
昼食時、啓介は友人である高橋 翔太と学食で向かい合っていた。翔太はアプリ開発を専門とする、明るく楽天的な性格の男で、最近の啓介にとって彼の存在は一種の救いとなっていた。
翔太は、啓介が持ってきたトレイのほとんど手つかずのカレーを一瞥し、顔を覗き込んだ。
「おい、啓介。お前、まともに飯食ってるか? 顔が土気色だぞ」
翔太は心配そうに言った。
「いつもの徹夜続きって感じには見えないぞ? 何か変なことに首突っ込んでるのか?」
啓介は大きくため息をついた後、数日前から取り組んでいる「呪いのサイト」と、そのソースコードに存在する異常な羅列について、翔太に簡潔に説明した。
「で、結局その謎のコードってのは、何だったんだよ?」
「それが、全く意味が分からないんだ。どういう暗号パターンや、考えうる変換アルゴリズムのどれを試しても解けないんだ」
啓介は苛立たしげに言った。
「……まるで、人類の知らない古代の文字か、完全に意味を失った記録みたいだ。そんな不気味な印象なんだ」
啓介は力なく肩を落とし、疲弊した様子を見せた。それを見た翔太は、
「おいおい、古代の文字って。本気かよ。また変なネタにハマったな、啓介」
と言って、笑いながらスマホを取り出した。
「俺にも見せてみろって。ちょっとアドレス教えろよ」
啓介からアドレスを聞き、翔太はそのサイトを検索した。
「なんだ、これ。ほとんど何も表示されないじゃないか」
翔太は肩をすくめた。
「これで、お前が古代の文字だの何だのと騒いでるのか?」
「違う、翔太。コードだ。ソースコードの中を見てくれ。異常に長い羅列がある」
翔太は不審に思いながらも、スマホのブラウザで開発者メニューを開き、ソースコードの一部を表示させた。
「うわっ、本当に長い文字列だ。なんだこれ、データか?」
翔太は画面をスクロールさせ、その羅列の異常な長さと、中にある文字をざっと確認した。
「なんだ、これ。『読んだ者は呪われる』だってさ。笑える」
翔太は鼻で笑った。
「啓介、こんなの誰かが文字コードの羅列で遊んだだけだろ。お前が真面目に解読しようとしてるのが笑えるわ」
翔太はそう言い放つと、そのコードの一部をスマホ画面で写真を撮った。そしてすぐに彼のSNSアカウントに「【速報】呪いのサイトのソースを見たったwww」と書き込んだ。
啓介は椅子から半身を乗り出し、食事が喉を通らないほどの焦燥感に駆られた。
「おい、冗談でもやめとけ! マジで、あれには何かあるんだ。製作者は消息不明なんだぞ」
啓介の切実な制止も聞かず、翔太は笑いながら、
「まさか本当に呪われるわけないだろ。お前もネットの噂にビビりすぎだ」
そう言って翔太は、啓介を宥めるように肩を軽く叩くと、何事もなかったかのように自分の残りの食事へと向き直った。 彼はスマホをポケットに戻し、残りの食事を平らげた。翔太は、日常の中に忍び込む不安を、デジタルなジョークとして笑い飛ばしたかったのだろう。
しかし、その翌々日、翔太は大学から突然姿を消した。
突然の失踪に不審を抱いた啓介は、何度電話をかけても全く出ないため、緊急時のために互いに預け合っていた合鍵を使って翔太の部屋を訪ねた。
部屋は施錠されていた。中には飲みかけのマグカップと、電源が入ったままのPCが残されていたが、翔太本人の姿はどこにもない。彼のSNSアカウントは消滅し、携帯電話は自宅に置かれたままだった。啓介は即座に翔太の家族に連絡を取り、状況を伝えた。家族によって親友の失踪が警察に届け出られたが、事件性も特定できず、手掛かりのないまま警察の捜索も空しく、時間だけが過ぎていった。
もともと一部の学生の間で知られていたその呪いのサイトは、翔太が失踪直前にSNSでソースコードを公開していたこともあり、ざわめく学生たちの間で瞬く間に「呪いのサイトのせいだ」と噂された。啓介は、自分が翔太にサイトの存在を教えたこと、そしてあのSNSの投稿が、まるで失踪のトリガーになったかのように頭から離れなかった。呪いが、現実のものとして彼の身近な人間を侵食し始めたのだ。
翔太が失踪してから、啓介の周囲で奇妙な電気的な事故が頻発し始めた。
研究室のサーバーが原因不明のフリーズを起こしたり、啓介自身の部屋の電化製品がショートしたりしたのだ。度重なる奇妙な出来事を前に、啓介は、すべてが翔太が関わったソースコードに起因していると直感していた。
その直感は、確信に近い疑念となり、彼の日常に影を落とし始めた。 彼の部屋の無線LANの接続は不安定になり、携帯電話の電池の消耗は異常に速かった。まるで、あのコードが周囲の電気的なエネルギーを吸い上げ、増幅しているかのように感じられた。
ある深夜、啓介は心臓の鼓動が異様に速くなるのを感じて飛び起きた。冷気が部屋全体を満たしていた。暗闇の中、彼のノートPCが勝手に起動し、青白い光を放っていた。ファンは全力で回転し、まるで悲鳴を上げているようだ。
画面に映し出されていたのは、件の「呪いのソースコード」だった。電源を落とし、完全にシャットダウンしたはずなのに、自動的に起動している。そして、微かなキーボードの打鍵音が響き、ソースコードが勝手に書き換えられていく。新しいコードは、彼が初めて見た時よりも、さらに複雑で、論理的な意味を持たない禍々しい構造をしていた。
「やめろ……!」
啓介は掠れた声で呟いた。
彼は恐る恐る手を伸ばし、マウスに触れようとした瞬間、打鍵音は止まり画面の文字も変化しなくなった。慌ててマウスを動かしてみたが、カーソルは画面中央で止まったまま動かない。調べると、マウスもキーボードも完全にロックされ、ケーブルをつなぎなおすなど何をしても復帰しない。啓介は冷たい汗をかきながら息を飲んだ。
その異常な無反応こそが、このコードの呪いを示す証拠のように思えた。彼は画面を食い入るように見つめた。文字列の中に、断片的に彼の名前である「ケイ」や「サクラ」といったキーワードが、まるで変数に代入されるような形で埋め込まれ始めているのを見つけた。
それは静的なコードではあり得なかった。啓介は、このコードがアクセス者の情報を勝手に取り込み、自己を変化させているのだと悟った。既に失踪した翔太の情報は内部に取り込まれ終えおり、今や次の標的、つまり啓介自身を、その内部に取り込もうとしているのだ。
このソースコードは、まるで閲覧者の名前やアクセス履歴を自動的に取り込み、自己改変し、呪いを拡散していく「デジタルな生命体」のように振る舞っていた。
啓介が無理やりPCをシャットダウンしようと電源ボタンを押しても、PCは頑として反応しない。そのとき、画面の端に、小さなエラーメッセージが一瞬表示され、すぐに消えた。それは断片的な単語の羅列だったが、「自己増殖」「伝播」「次はあなた」といった、おぞましい言葉を含んでいた。恐怖が啓介の喉を塞いだ。彼は、自分自身が次の犠牲者になるのではなく、呪いの担い手、製作者としてこのコードに組み込まれることを本能的に感じた。
啓介は、もはや警察や友人を頼ることはできないと悟っていた。このデジタルな恐怖に対抗する唯一の方法は、ソースコードの正体を突き止め、その呪いの根源を理解することだと考えた。彼は大学の図書館に行き、人目を避けるようにして、古書の並ぶ薄暗い一角に籠もった。埃っぽい紙の匂いと、ページの擦れる音だけが彼の相棒だった。
彼は、古書の記述とコードの文字列パターンを対照させるという、気が遠くなるような作業を続けた。通常の暗号解読や言語解析の知識は役に立たなかったが、その文字列が持つリズムや構造、特定の文字の出現頻度から、啓介はコードが特定のパターンで繰り返し記述されていることに気づいた。そのパターンは、単純なプログラムのバグというよりも、むしろ古代の暗号文や、複雑な幾何学的図形をデータ化した配列に酷似していた。
啓介は食事も睡眠も忘れ、その古書とコードの照合作業に没頭した。そしてついに、照明が落ちた深夜、彼は衝撃的な事実を知る。
呪いのソースコードに記されていた文字列が、古代のある呪術に使われる文字配列に酷似していることを発見したのだ。
古代のその呪術は、それを唱えた者も聞いた者もそれら全てを、その呪術の中に取り込み、消滅させてしまうという恐ろしいものだった。このコードは、現代のプログラミング言語の構造を借りた、デジタル時代の消滅の呪術だったのだ。その呪文は、情報の伝達スピードが速ければ速いほど、その効力を増す性質を持っていた。インターネットこそが、この呪いの最も理想的な媒体だった。
啓介は解析したコードと呪文の構造を比較し、製作者がなぜこんなものをサイトに埋め込んだのか、その動機を探った。
啓介はコードのパターン解析を進めるうちに、一つの悲劇的な仮説に行き着いた。
製作者が一度書き込んで動き始めた呪文は、その力を発動させた後では、もはやコードから消し去ることができず、ソースコードのコメントアウトにすることで、動作を停止させようとしたのではないか。
一見停止に成功したように見えた呪文は、実は動作していて、制作者を消してしまったのではないか? そして、その場所で次の獲物を静かに待っていたのでは?
啓介は、呪いの起源である製作者の足取りを追うことに決めた。製作用の記述に残されたかすかな座標情報と、過去の掲示板の書き込みから、製作者が消息を絶つ直前に住んでいたアパートの場所を突き止めた。
彼はこの呪いを終わらせるために、その場所へ向かう決意をした。彼の背後で、図書館の古い時計が不気味な音を立てて時を刻んでいた。




