第1章
深夜2時を過ぎていた。大学の研究室は、蛍光灯の白い光と、佐倉 啓介が愛用する古いノートPCのファンが唸る低い音だけが、静寂を破る唯一の音だった。
若手エンジニアの啓介は、本業であるコードや回路図の解析を終え、趣味の時間に没頭していた。彼の趣味は、ネットの深部に潜む怪談サイトや都市伝説の残骸を掘り起こすことだ。彼にとって、インターネットの片隅に埋もれた不気味な噂や、閉鎖された個人サイトのソースを辿る作業は、日常の退屈を紛らわせる、知的なスリルに満ちたゲームだった。
彼のPCの画面には、ネットの闇に埋もれた、まるで深層に沈んだ残骸のような個人サイトのアドレスが映し出されていた。そのURLは不規則な文字列で構成されており、検索エンジンからは決して辿り着けない、長く更新が途絶えたネットの隅に打ち捨てられた場所のように見えた。
「また古いサイトを見つけたな……」
啓介は、オカルト系ネット掲示板の過去ログを漁り、そのサイトに辿り着いた。掲示板では、そのサイトは数年前から製作者が完全に消息不明になり、「呪いのサイト」として噂されていた。特に恐ろしいのは、製作者が消息を絶った後も、そのソースコードを見た技術者が次々と不審な失踪や事故に見舞われているという噂だった。
その陰惨な噂は、啓介のプログラマーとしての探究心と好奇心を激しくかき立てた。疲労も忘れるほどの強い衝動に駆られ、彼はデスクに置かれたマグカップに手を伸ばした。コーヒーの苦みで張り詰めた興奮を鎮めようとするが、口の中に残るその苦みは、モニターが映し出す夜の静けさを、かえって際立たせるだけだった。
サイトの内容は驚くほど簡素だった。ただの真っ黒な背景に、白い等幅フォントの文字が数行羅列されているだけだ。その内容は、製作者自身の極度に私的な独白の断片や、脈絡のない短い詩のようなものが大半だった。 何の画像もなく、シンプルなテキストリンクがいくつかあるだけ。それも、リンク先は全てエラーになるか、サイト内の他の無意味なページに飛ぶだけだった。サイトに機能的な価値は全く見当たらない。
噂されていた通り、表層のコンテンツには何もない。啓介は、この不気味なサイトの本質は、見えない裏側にこそ隠されていると確信した。
啓介はマウスを操作し、ブラウザの「ページのソースを表示」を実行した。
啓介のPCの画面いっぱいに広がるのは、画面いっぱいに広がるHTMLのコード。
サイトの機能を構築する記述の中に、異質な、異常に長い羅列が混じっている。
ウェブサイトのソースコードでは、表示に影響しないように余分なデータや隠しメッセージを紛れ込ませる手法はいくつか存在する。通常、そうした文字列がどれだけ入っていても、サイトの動作には問題が出ない。だが、このサイトの異質な羅列は、その常識を遥かに超えていた。サイトとして表に見える情報の数十倍に上り、既存のプログラミング言語の文法を完全に無視して、単なるテキストデータとしてそこに挿入されていた。
まるで意図的に隠された意味不明な暗号のように見えたが、その量が、常軌を逸していた。
彼は思わず、イヤホンを外し 、椅子に深く沈み込んだ。その文字列は、まるで古い時代の言葉や、ランダムな文字をひたすら並べたかのような、不気味で無意味な響きを持っていた。視線で追うだけで、頭の中に砂を噛んだような不快感が広がる。
そして、その異常な羅列の直前。普段、サイト管理者が内部的なメモや注釈を残すために使う「コメントアウト」の中に、冷徹で簡潔な警告が記されていた。それは、たった一行の日本語だった。
『解析無用。手を引け。既にお前は捕捉されている』
啓介はキーボードから手を離し、周囲を見回した 。静かな夜の闇。蛍光灯の白い光が、彼のノートPCの反射で青白く彼の顔を照らしている 。何も異常はない。PCのファン音 だけが聞こえる。しかし、彼の心臓は早鐘を打っていた。警告文は、あまりにも唐突で、そしてあまりにも真剣な響きを持っていた。
「呪われる、か……。いや、まさか」
啓介は自嘲気味に呟いた。
「悪質なジョークか、凝った演出だろう。だが、なぜこんなにも発見しにくい、目立たない場所に警告を書いたんだ? 普通、警告なら誰かに読ませたいはずなのに……」
彼は頭の中で、これを単なる悪趣味なジョークとして処理しようとした。だが、そのサイトの制作者が数年前から消息不明であるという、掲示板で得た事実が、このデジタルの警告に、不気味なリアリティを与えていた。
啓介はブラウザのタブを切り替え、元のオカルト系ネット掲示板の過去ログを再確認した。製作者はかつて技術系サイトでも名が知られていた人物だったが、ある日突然、全てのSNSアカウントを削除し、完全に消息を絶ったという。ネット上では「呪いのサイトに取り込まれた」という陰惨な噂の他に、「彼の存在は、あのサイトのコードのどこかにデータとして残っている」という、デジタルな神隠しのような噂が流れていた。
啓介は、自身のエンジニアとしての探究心と、オカルトへの抗いがたい好奇心に突き動かされ、この奇妙な文字列の解析を進めなければならない衝動に駆られた。彼は解析ツールを立ち上げたが、文字列は既存の暗号アルゴリズムやプログラミング言語の構造を一切持たず、ただの無意味な羅列として、画面上で冷たく横たわっていた。しかし、その羅列は、まるで未知の生命体のように、啓介の視線を受け止めているような、不気味な存在感を放っていた。
その夜から、啓介はこの部屋で、得体の知れないデジタルな暗号と対峙し続けることになる。彼の指がキーボードを叩く音だけが、静寂の中で小さく響いていた。彼は、このソースコードが単なるデータではなく、いまだ解読できない、何かの異質な存在を宿している可能性に、まだ気づいていない。




