夜勤
駅を降り駅前通りの道を抜け、街灯が均等に立ち並ぶ暗い道を歩いていた。
時刻は夜の8時半、松本宏信は会社に向かう途中だった。
今の会社に入社して5年目の27歳で会社での立場は平の研究員だった。
勤めている会社は化学関係の製品を作っている会社で、規模も大きく全国に支社や工場などを幾つも持っている。
宏信が向かっているのは本社で、会社の敷地には5階建ての本社ビルと5階建ての実験施設ビルが2棟、体育館、そして野球場が1つ入る位広いプラントと言われる工場がある。
工場は製品試作を作る為だけに作られていた。
宏信は実験を行う研究員で、実験棟で作った小規模の試作を工場規模で作る試作までにする仕事をしている。
工場試作に入ると24時間稼働する事もあり、研究員も交代勤務の不規則な出勤時間になる事も少なくなかった。
宏信は人事異動で半年前に本社勤務になった。
本社勤務になった頃は交代勤務と言う不規則な生活に慣れず体調を崩す事もあったが、今は何事も無く順調に仕事をこなしている。
しばらく住宅街を歩いて行くと電車の踏切が現れ、向う側には会社の敷地と道路を仕切りコンクリートの壁が暗闇の中に続いていた。
均等に立てられた街灯も光量が弱く、真っ暗より余計に気持ちの悪い道に思えた。
それでも、宏信が壁沿いに歩いていると、仕事終わりの社員が数人すれ違い、時折車も通り過ぎていった。
壁の向こう側は工場で微かではあるけれどゴォーっと言う音が静かになれば聞こえてくる。
しばらく歩いて行くと会社の入り口が見えてきた。
警備のための受付がある為、その場所だけが妙に明るく暗闇の中のオアシスの様に見える。
宏信はその明りを見るとホッとした。
会社の入り口まで来ると昼間は全開の門も今は閉まっていて警備の人間も夕方には帰ってしまって警備室はカーテンが閉じられている。
宏信は社員に渡されているカードキーを胸ポケットから取り出し門に据え付けてある小さなボックスの溝のカードを通した。
ピーっと短い電子音がして、閉ざされている門の通用口の鍵が開く音がした。
鉄の通用口が重たいギィーっと言う音と共に開いて行くと、トラックなどが走る広めの道路がありすぐ右に本社棟が建っている。
本社棟はどの窓からも漏れる明かりは無く人の気配も感じず、不気味のその場所に建っていた。
本社棟のすぐ下には駐車スペースが設けられているが、車は一台も止まっておらず常時点いている街灯がスポットライトの様に真下を照らしているだけだった。
駐車場のすぐ横には1つ目の実験棟があるが、窓から漏れる明かりは無く誰も居ない事がすぐに分かった。
1つ目の実験棟の前を通り過ぎ、しばらく歩いて行くと右側に体育館があり、道路を挟んだ左側に宏信の所属する部署が入っている実験棟が見えてきた。
実験棟の入り口の電気は消されていて非常灯の緑の明かりだけが妙に光っている。
上を見ると3階の明かりだけが点いていて他の階は誰も居ないのであろう、真っ暗になっていた。
「今日は1人かぁ」
宏信はそう呟き、落胆した気持ちで実験棟の中に入っていった。
地下にある更衣室で着替えを済ませ、エレベーターで3階まで上がって行く。
“ピンポン”と人気のない3階にフロアーにエレベーターが到着した音が妙に大きく響いた。
エレベーターを降りると、右奥には広め休憩フロアーがありその一角にガラスで区切られた喫煙ルームがあった。
休憩フロアーの脇に短い廊下があり二つの扉がある。
その扉は手前に女子のトイレ、向う側が男子のトイレになっていてその奥、突き当りに実験ルームに入る為の扉があった。
実験ルームは実験のための装置は部屋の3分の1程しめていて、実験のためのスペースが3分の1、後はデスクのスペースがある。
宏信がデスクスペースに行くと同僚の棚橋英治が自分のデスクのパソコンに向かって何かを打ち込んでいた。
「お疲れ」と宏信が声をかけると
「おお、お疲れ。待ってたで」と嬉しそうに英治が言った。
そしてさっそく仕事の引き継ぎをしようと“引き継ぎ書”を宏信に渡そうとすると
「そう焦るなや、まだ時間になってないで、俺タバコ吸うてくるわ」
「そうやけど、早よ帰りたい」
宏信は英治のその言葉を聞き終わる前に実験ルームを出て休憩フロアーにある喫煙ルームに入ってタバコに火を点けた。
狭い喫煙ルームの真ん中に置いてある集煙機が宏信の吐いたタバコの煙を飲み込む様に吸い込んでいく様子を見つめていた。
宏信がふと視線を上げるとそこにはガラス越しに真っ暗な女子トイレが見えた。
「ふぅ~」とタバコの煙を吐くのと一緒に深い溜息をついてタバコを灰皿に放り込み宏信は喫煙ルームを出て女子トイレと男子トイレの前を通って実験ルームに入っていった。
宏信がデスクに戻ると英治が待ってましたとばかりに引き継ぎ書を目の前に出してきて
「さあ、引き継ぎはじめひょか」とおどけた笑顔で言った。
「はいはい、始めましょうか」と宏信も諦め顔で引き継ぎ書に視線を落とす。
仕事の内容は現場(工場)で行っている中規模実験の工程分析と自分が担当している試作実験の経過観察と報告書の作成だった。
数十分間の引き継ぎが終わり、英治は早速自分の荷物をまとめ「お疲れさん」の言葉と共に実験ルームを出ていった。
そして、宏信は空調のブーンと言う不気味な音が鳴り続ける実験ルームに1人残される事になった。
とりあえず宏信は現場に電話を入れ、進行状況の確認とサンプルの採取時間の確認をする、そして自分のパソコン内に入っているファイルを開いて資料の作成を始めた。
宏信が実験ルームに入ってから2時間が過ぎようとしていた。
現場の作業員が試作サンプルを工程道理の時間に採取をして実験ルームに現場の工場に近い非常階段の方から入ってき運んできてくれた。
非常階段は宏信の出入りしている実験ルームの入り口の反対側、ルームの奥にある。
宏信は缶コーヒー位の大きさのサンプル瓶2本を預かりさっそく分析を始めた。
分析時間は小一時間、最初にサンプルを少量取り分析機器の決められた場所に置けば時間の経過と共に数値が出てきて、1時間後に全ての分析が終わる事になる。
その結果を見て宏信が次の工程に進むかどうかの判断を現場に報告をするという順序で1つの仕事が終わる。
少量のサンプルを分析機器に入れ宏信は結果が出るまで先ほどまでしていた資料の作成をしようと自分のデスクに戻ろうと思った。
「ちょっと、休憩しよう」と独り言を言って実験ルームを出て、女子トイレを横目で見て休憩ルームに置いてあるジュースの自動販売機で缶コーヒーを買って。喫煙ルームに入った。
タバコに火を点け、宏信は煙を吐きながら女子トイレの方を見つめた。
宏信は気になっていた事があった。
初めてこの実験棟での夜勤をしたのはここに配属になって1ヵ月が過ぎた時だった。
最初の夜勤は初めてと言う事で先輩と2人での夜勤だったけれど仕事をこなしていく事で精一杯で周りの事を見る事が出来なかった。
それでも、夜中の2時頃、休憩ルームに行く時に女子トイレの前を通った時トイレ内の電気の点いている事に気が付いた。
「あれ?どうして?」と思いながら喫煙ルームに入ってタバコに火を点けもう一度トイレを見ると電気は消えていた。
「誰か入っていたのかな?」とその時は気にもしなかった、なぜなら実験のために女性の研究員が夜勤をする事も珍しくないし宏信は何度か夜中に女性研究委員と会っていたからだ。
しかし、次の日も同じ位に時間に休憩をとろうと実験ルームを出た宏信はまた女子トイレの電気が点いている事に気が付いた。
「今日も誰かいるのかな」と呟きながら同じ様に喫煙ルームに入り再びトイレの方を見ると電気は消えていて真っ暗になっていた。
夜勤に入るたびにその日何処かの部署が同じ様に夜勤をしているとか遅い時間まで仕事をしているとかはいちいち確認していないため、宏信の他にこのビルに人がいるかどうかは分からないが、トイレの有る階は1階と3階と5階だけ、3階のトイレを使用するとしたら2階か4階で仕事をしている人間しかいない、3階は宏信しか居ないため女子トイレを使う事のなどありえないから不思議に思い始めていた。
そしてある日夜勤の出勤時に実験棟の近くまで来た時にビルの電灯を何気なく確認してみたら、3階のフロアーの電灯だけが点いていて他の階はすべて消えていた。
当然誰も居ないはずなんだけど、その日も女子トイレの電気が点灯しそして消えた。
そんな事が度々あり先輩や同僚にその話しをすると「電気が点くのはセンサーに何かが通った性やし、ネズミとか虫がたまたまセンサーを遮ったんやないか」とか「誰か入ったんやろ」とか「あるいは、誤作動ちゃう」と言う答えしか返ってこなかった。
しかも、同じ様に夜勤に入っている者に聞いて見ても誰も女子トイレの電気が夜中に点いていたことなど見た事が無いと言っていた。
そんな事が何度か繰り返されていて、夜勤に入るたびに宏信は得体のしれない不安と何とも言えない気持ち悪さをこの実験棟に感じていた。
それでも仕事を辞める訳にもいかないし、それに女子トイレの電気が点いて気持ちが悪いだけで怖い思いもしていないから夜勤の時があれば続けるしかなかった。
「ふぅ~」と言う声と共にタバコの煙を吐きながら女子トイレの扉の向こうの暗闇を見つめ安心したかのように甘ったるい缶コーヒーを一口飲んですぐにタバコを消して喫煙ルームを出て女子トイレの前を横目で見ながら通り男子トイレの前まで来た時、思いたった様に男子トイレの扉を開け中に入った。
真っ暗なトイレの中が宏信の体が入ったとたん、蛍光灯の明かりが“パッ”と点き眩しい程の明るさになった。
小便器が4つと個室が2つあるトイレで小便器の上には黒く四角い物がそれぞれついている。それはセンサーで人が前に立つと小さな赤い光が点いて離れると消え自動で水が流れる様になっていた。
宏信はトイレに入りそのまま個室へ、そして便座に座り用をたしていた。
トイレの中は静かで空調の音も聞こえてこない、しかも個室は畳一畳程の広さだけどどう言う訳か圧迫感を感じていた。
個室に入って数分が過ぎ、そろそろ出ようと思った時一瞬蛍光灯の明かりが消えた。
「えっ?」と思い立とうとした時、再び蛍光灯が点き周りが明るく照らされる。
「なんや今の、そんなに時間経ってへんはずやのに」と呟きながらもう一度便座に腰を下ろした。
トイレの電灯はある程度の時間が経つと省エネのために消える設定になっている。大体10分程点いているのだけど、中に入っている人が体を動かす事が無ければ天上に付いているセンサーが感知せず消える事がある。
そして宏信がズボンを腰まであげベルトを締めようとした時“ザァー”と言う水の流れる音が個室の外で聞こえてきた。
「えっ」
その音を聞いて宏信の手が止まり、個室の壁の向こう側の小便器の方を見た。
誰かが用と足していたのなら宏信より後に入って来てるはず、そうしたら気配も感じるし、声や物音も聞こえてきたはず、第一人が入ってきた扉の音も歩いてきた足音も聞こえてきていない。
「なんや、なんや」と宏信はいい知れない恐怖でベルトを締めようとしている手元が震えだし、それでも時間を掛け何とかベルトを締め、外の気配を確認するかの様にゆっくり扉を開けて外を見渡した。
そこには誰の姿も無く、4つの便器が音も無く並んでいるだけだった。
宏信は怖々小便器の方に行きどの便器の水が流れたのか確認してみた。しかし、白い小便器だけに透明の水の流れた後は確認できず、後ずさりしながらゆっくりトイレの出口に向かい急いで扉を開けトイレから出ていった。
心臓の鼓動が早鐘の様に打っている、実験ルームに入りもう一度トイレを見ると男子トイレの電灯がまだ点いていて、宏信が振り返ろうとした時に“パッ”と消えた。
壁に掛っている時計を見るとまだ0時前、実験ルーム内には空調のブゥーっと言う音だけが低く響いているだけだった。
「ああ、もう」と宏信は恐怖を振り払う様にサンプルの分析をしている装置の所まで行くとすでに分析が終わっているようで数値の書いた紙が分析装置から出てきていた。
怖いと言う気持ちを抑えながら自分のデスクまで戻りパソコンの工程データーファイルを開いて数値を打ち込んだ。
自分の気持ちを落ち着かせるために「冷静に、冷静に」と何度も呟きパソコンのキーボードを指先で叩いていた。
画面に出てきた結果は順調に進んでいる事を示していて「よし」と一言呟いて受話器を取って現場に電話をかけた。
「もしもし、先ほど預かったサンプルの分析結果ですけど順調に進んでいるようなんで次の工程に進んでいただいてもいいですよ」と宏信が言うと。
『そうか、それはよかったじゃあ次の(ブーブーブー)あっちょっと待ってくれ』
現場の担当者が話している向う側で何かのブザーが鳴り始めていたのを宏信は受話器越しに聞いて、何かトラブルがあった事を察知した。
『すまない、トラブッたみたいや。とりあえず工程止めるしかないし』
「えっ、でも今止めたら」
『大丈夫や、今止めても次の工程に支障がでえへんはずやし』
「そうですか、分かりました仕方無いですね。それじゃ何があったかの原因と、どの位で次に進めるかが分かったら連絡もらえますか」と宏信は不安な声で言うと
『分かった、原因が分かったら連絡するわ』と担当者は軽い声で言って電話を切った。
「マジですか、大丈夫かな」と言いながら宏信は受話器を置いて「はぁ」と溜息をついた。
時間的に今晩中に工程が終了しその結果次第では規模を大きくして生産体制に入る事が出来るはずだった。
「仕方ないなぁ」と言いながら席を立ちタバコでも吸って気分を落ち着かせようと喫煙ルームに向かおうとした。
“ガチャ”
非常口付近で何かの音がして宏信が音のした方を見ると見える範囲では何も変わった所は見当たらない。
「何、何か倒れたかな?」と宏信は仕方なく非常口まで行ってみる事にした。
辺りを見渡しても変わった所も無い、分析機器が並んでる所も見てみたがこれと言っておかしな所は無かった。
「なんや、気持ち悪いな」と自分でもそうしてか分からないが大きな声で宏信はそう言って喫煙ルームに向かっていった。
実験ルームを出てふと女子トイレを何気なく見ると“パッ”と明かりが消えた様に感じた。
気にしていなかった、電気が点いていた事なんて。もしかしたら気のせいなのかも知れないけれど、点いていた明かりが消えたと言う感じが宏信の中で恐怖として増幅していっている。
喫煙ルームに入りガラス越しに女子トイレを見つめてる、どう言う訳か心臓の鼓動が速くなっている事に気が付いて、自然に右手が自分の鼓動を確認するかの様に胸を押さえていた。
狭い喫煙ルームだけどいつもなら感じる事の無い、むしろ喫煙者にとってはオアシスと言っていい場所のはずが今、この時間は息苦しさを感じていた、先ほどの男子トイレの事もあり出しかけていたタバコをしまい喫煙ルームを出る事にした。
そして廊下を通り女子トイレの前に来た時“ブゥー・ブゥー・ブゥー”と胸ポケットに入れておいた携帯電話が鳴りだし、宏信は「わぁ」と廊下に響き渡る位の大声で驚いた。
「もしもし」と電話に出ると上司の声が耳に入ってきた。
上司の話は工程の進行状況の確認の電話だった。携帯が耳に当たっている間、宏信の耳には上司の声と宏信の血管を流れる血の鼓動が共鳴しているかの様に聞こえている。
「どう言う訳かトラブルがあったみたいで、工場の方は今止まってます。原因と再開できる時間が分かれば連絡をしてくれるそうです」と上司に言うと『一度工場の方に行って見てきてくれ、再開できそうならそれでもいいが、出来そうで無ければ連絡をして欲しい、今後の事を考えなければいけないから』と言う指示が出た。
宏信は実験ルームを通り過ぎ非常口から非常階段を使い1階に下り工場の方に向かっていった。
非常階段を降り切り実験棟から少し離れた場所まで行った時、どうしてか気になりふと自分のいた3階の非常口辺りを見てみる。
そこには非常口を示す明かりと、実験ルームの明かりが溶け込む様に明るく光っているだけだった。
宏信は振り返り工場の方に歩きだす、その後姿を見つめる影には気が付かないまま。
工場までは5分ほど歩かなければならない所にあるけれど、工場に行く間に現場事務所があった。
工場は他部署の仕事もしている関係で24時間稼働していて、事務所や工場にはかならず誰かがいる。
宏信は事務所の前まで来た時、休憩室の明かりが点いている事に気が付いて「そや、タバコでも吸うていこう、さっき吸うてなかったし」そう呟いて事務所の中に入っていった。
現場事務所は2階建ての建物で2階が更衣室と会議室があり一階に事務所と休憩室がある。
事務所は電気は点いているものの誰の姿もなく静まり返っていた。
事務所を抜け奥にある休憩室に行くと工場で働いている3人の社員がソファーに座り雑談をしているところだった。
3人は宏信の姿に気が付くと「お疲れさま」と言って明るく挨拶をしてくれた。
いつも見る3人で何度も話しをした事があり宏信も気軽に話しかけ、夜勤や会社に対しての愚痴や遊びの話などで20分程休憩室で過ごす。
宏信の中にあった妙な怖さも人との話の中で薄れていき、何事も無かったかのように工場の方に向かう事ができた。
工場に着くと大きな建物の影が暗闇の中にそびえ立っている様に見えた。
「いつ来ても好きになれへんなぁ」と呟き工場入り口の鉄の扉を静かに開ける。
扉が開いたとたん機械が動く音が“ゴォー”と低い音をたてながら響いていて体に共鳴して内臓が変になりそうな感覚があるから宏信は工場があまり好きではなかった。
工場内を奥に進んでいくとちょうど真ん中あたりに鉄の階段がある。
階段を上がり少し広めで鉄板の床の2階に出るとすぐ脇に「計器室」と書かれた4畳半程の広さの部屋があった。
中には2人いて1人は椅子に座り計器を見ながら何かを話していて、もう1人は計器を見ながらメモを取り話を聞いているようだった。
「お疲れさまです」と宏信が部屋に入って行くと椅子に座っている方の作業員が宏信を方を見て「おお、ビックリするなぁ、急に声をかけるなよ」と椅子から落ちそうになりながら言った。
「すみません、松井さん」と恐縮しながら宏信は謝り計器室に入っていった。
椅子に座っていたのはこの工場の工場長の松井俊男と言い40歳半ばで宏信が本社勤務になった時から世話になっている人物だった。
俊男の口調は厳しいけれど世話好きで話しも面白く、宏信にとってはどんな事でも話せる頼りがいのある人と思っている
もう1人は入社2年目の井原武24歳で宏信とは何度も会ってはいるけれどあまり話しをした事がない。宏信の武に対しての印象は何所かボーっとしていて不思議な雰囲気を漂わせていると感じている。
以前、工場の休憩室で短い時間だったけれど話しをした事があった、その時は明るく話をする子だと持っていたが、話し終えた時に見せた表情に暗い影を一瞬見た感じがして、それ以来ゆっくり話しをした事がなかった。
宏信が俊男と話しをしている時、何気なく武の方に目線を送るとジッとこちらを見ながら何かを言いたそうにしているのが分かった。
「何か気が付いた事でもある?」と宏信が武に言うと
「い、いや何もないです」と少し声を震わしながら言った。
「そう」と宏信が武の声の感じを気にしながら言うとすぐに「僕、機械を見てきます」と言って武は計器室を急いで出ていった。
「あいつは、ほんまに」と俊男が呆れてと言う感じで武の後ろ姿を見ながら言って「まあ、あいつはいいとして、ちょっと見に行こうか」と言って俊男も計器室から出ていった。
宏信も俊男の後を追い計器室から出ていく。
広い工場だけど、さまざまな配管や大きなタンクが所々にあり入り組んでいる。
床には白いペンキで2本の線が引かれていて、人が通る通路を示していた。
計器室から白い線に沿って幾度もクネクネと曲がりトラブルのあった機械の所に到着すると「これを見てくれ」と俊男が言って1本の金属棒を宏信に手渡した。
それは直径10センチ程の太さがあり長さは30センチ位、片方の端は綺麗に処理されていてスベスベしているがもう片方の端は無理やり折られて様な感じにみ見え、切断面がギザギザになっている。
「これですか、トラブルの原因は」
宏信が金属棒を見ながら言った。
「ああ、それなんやけどなトラブルの原因は・・・しかしなぁ」と俊男の言葉は歯切れが悪い。
「どうしたんですか、これ」と俊男の歯切れの悪に不安になりながら宏信が聞いてみた。
「いや、折れるもんやないんやけどなそれ、第一折れる要素が無いし」
俊男は金属棒を宏信から受け取り元あった位置に取り付けてみる。
そこは機械の調整弁の様な所にあり、仮に取り付けた金属棒の先には大きな円形の金属が付いていた。
金属棒はその円形の金属を動かす取っ手になっているのだけど普段は動かす事は無く位置は固定されているらしかった。
トラブルの原因は金属棒が折れたのもあるが、先の円形の金属が所定の位置から動いた事による誤作動を起こした事によるものらしい。
宏信は機械の事がよく分からないが、重大なトラブルだと言う事は俊男の表情を見てすぐに分かった。
「じゃあ、直るのは何時になりますか」
「そうやな、明日業者に連絡してすぐに修理してもらったとしても明後日、悪ければ明々後日ってところかな」
「そうですか、仕方無いですねそれじゃ」と諦め顔で宏信は言って肩を落とした。
宏信と俊男は話し終え、元来た道をたどり計器室に戻ってきた。
「そう言えば、今日は2人で夜勤をしてるんか?」と俊男が唐突に言った。
「えっ、今日は1人ですけど」
「そうか、君が来る前電話したんやけど、それやったら誰が・・・」
「えっ、どう言う事ですか?」
「い、いや違うとこに掛けてしもたんやなきっと、気にせんといて」
「いや、でも気になりますやん」
「まあまあ、気にしたってしゃないやろ、俺仕事に戻るから」
そう言って俊男を急いで計器室から出ていって姿を消した。
1人残された宏信は不安を抱えながらもゆっくりと計器室から出ていき実験棟に戻っていった。
工場を出て来た時と同じ道を実験棟に戻る為歩いて行く。
しばらく歩いて行くと工場の事務所があり前を通り過ぎる。
薄暗い工場外の道は誰の姿も無く宏信は不気味に感じていた。
途中携帯電話が鳴り出ると上司からだった。
宏信はトラブルの原因と今後の対策について報告をすると『それじゃ、今後のために工程から外れて物がどうなるか2時間毎でいからサンプルを採取にてくれないか』と言う指示を受けた。
歩きながらの電話、ふと見るともうすぐ自分の変える場所が暗闇の中にそびえ立っている。
3階のフロアーだけが明るく、後の階は非常灯の緑がいかにもという雰囲気を出していた。
宏信の心の中に妙な不安が浮かんでくる、それは実験棟がいつもと違い不気味に見えている事だ。
昼間に見る実験棟はただのビルにしか見えない、でも夜中に見る実験棟は何時見ても不気味さを醸し出している。でもそれは今まで自分が見てきた映画やドラマなどで見る夜中のビルといった感じの不気味さであって怖さと言う感情を感じた事は無かった、あの女子トイレの不思議な点灯があったとしても。
でも、今夜の雰囲気は宏信の心の中を不安にさしていた。それが何なのかどうして、そう感じてしまうのか分からないけれど、人間の持っている本能なのか実験棟に向かう足取りが嫌がる様に遅くなっていっている。
「そうや、とりあえずサンプル採取の報告と一発目の採取をしてもらいに行こう」
宏信はそう言って振り返り、時間をかける様にゆっくり工場の方に戻っていった。
工場に着き計器室の前まで行くと、中では松井俊男が椅子に座り井原武が腕を後ろに回して立ち、何やら神妙な顔で話しをしているところだった。
「何度もすみません」とわざと大きな声で宏信が計器室に入って行くと「わぁ」と言いながら驚いた俊男が椅子から落ちそうになった。
「もう、ビックリするやないか」
俊男は何とか椅子から落ちずに体制をたてなおし、怒りながら宏信を見た。
「すません、驚かすつもりはなかったんですよ」と宏信は俊男の先ほどの姿を思い出し、笑いそうになりながら謝った。
「で、どうして戻ってきたや」
「先ほど上から電話があって、止まってる間にどうなるか2時間毎にサンプルの採取をお願いしにきたんです。それから今の時間の採取も」
「そうか、そやなサンプル取っておいた方がいいな」
俊男をそう言ったがダルそうに席をたった。
「松井さん、さっきは何の話しをしてはったんですか?えらい神妙な顔して」
「えっ、ああ、さっきな。トラブルの話しをしてただけや」
「そうですか、いらん事聞いてすみません」
「いや、いいよ。それじゃサンプル取ってくるさかい、ここで待ってて」
俊男はそう言って計器室を出て工場内に消えていった。
計器室には宏信と武が残され、妙な沈黙が余計に計器室の外の機械の低い音を増幅し宏信は気持ちが悪くなりそうだった。
宏信は俊男が座ってた椅子に座り武の方を見た。
「井原君、松井さんと何の話しをしてたん?」と宏信は武の顔色をうかがう様な目で聞いてみた。
「松井さんが言っていた通り、トラブルの話しですよ」と表情も変えず、計器を見ながら言った。
「そう」
再び計器室に沈黙が流れ宏信は意を決した様な表情で武を見て再び話し始めた。
「変な質問するけど、井原君は霊とか信じる方?」
「れい?れいって幽霊の霊ですか」
「そう、それ。信じてる方?」
武は宏信の真剣な声の問いに困惑している様な顔になり、一瞬の間が空いた。
「そうですね、友達に見たって言う奴もいたし、体験した奴の話も聞いた事があるんで」
「じゃあ、信じる方なんや」
「話しを聞いただけなんでなんとも、でも信用できる奴なんで」
「まあ、そやな見てみな、話しだけじゃな」と少し諦めた様な表情で宏信はうなだれた。
それからまた重い沈黙が流れ再び宏信が重い口を開いた。
「実は不思議な事があるねん」
宏信はうつむいたまま、言葉を出した。
「不思議な事ですか」
宏信のその言葉に武の顔色が一瞬変わった。でも宏信はうつむいていたため武の異変には気が付かなかった。
そして宏信は怪談話をするよかのように話し始めた。
「前から気にはなっていたんやけど、あの実験棟の3階にはトイレがあるんやけど。どう言う訳か夜中になると女子トイレの電気が点くねん。トイレはセンサーが着いていて人が入れば電気が点くんやけど。もちろん時間が設定してあって人が出れば数分後に消える様になってるから誰も居なければ電気が消えてるはずやん。でも点きよんねん夜中誰も入って居ないはずの女子トイレが、それにさっき男子トイレでも誰も立っていなかった小の方で勝手に水が流れ出したし」
宏信の神妙な顔と話し声、自身が怪談話に酔っているような話し方になっていた。
その姿に武は不安げな表情をしたが何かを思いたった表情になり後ポケットに手をまわし、何かを取りだした。
「あの、これ持っておいてください」
武が宏信も目の前に出したのは手のひらに収まる位の大きさのお守りだった。
青色の布で作られていて、少し薄目の青色の糸で目立たない様に何かが刺繍されている。
真ん中に金色の糸でお守りと刺繍されていて、長く持たれているのか全体的に擦り切れていて汚れも少しあった。
「なに、これ」と怪訝そうに宏信が手に取った。
「これ、魔除けのお守りです。効くかどうか分からないですけど今夜は持っておいてください」
「でも、どうして。ただ不思議な事があるって言う話しをしただけやん」
「いいから、持っておいてください」
武の目は真剣そのもので宏信は戸惑っていた。
「どうして、何か悪い・・・」と宏信が最後まで言う前に武が「何も無ければ朝にでも返してもらったらいいですから」と訴える様に言った。
「分かった、じゃあ預かっておくけど」と言いながらお守りを胸ポケットに入れ不安げに宏信は武を見つめた。
「待たせたな」
俊男がサンプルの入った瓶を持って計器室に入ってきた。
「いえ、そんなに待ってないですよ、それに井原君とも話ができたし」
「おう、珍しいな井原と話しをするなんて。で、何の話しをしてた」
「まあ、他愛のない世間話ですよ。なあ井原君」と宏信は武に目配せして言わない様にと言う目をした。
「はい、世間話を少し」と武は宏信の言いたい事を理解して俊男に答えた。
「それじゃ、僕は戻ります。次のサンプルは2時間後にお願いしますね。また電話しますけど」
「分かった2時間後な」
「それじゃ」
宏信はそう言って計器室を出て実験棟に向かった。
工場を出るとまた人影もない薄暗い道が実験棟まで続いている。
腕時計に目をやると午前1時30分を少し回ったところだった。
「次のサンプルは3時半が、松井さんいい加減やしな。まあ電話したらいいか」と不安を打ち消す様に独り言を言いながら実験棟の手前まで来た。
見上げる実験棟は何度見てもいい気持ちがしない、そう思いながらも入らなければ仕事ができないため、宏信は仕方なく実験棟の非常階段を使い3階まで上がっていった。
3階の非常階段の踊り場まで上がって一息つく。踊り場は畳3畳程の広さで胸辺りまである鉄の手すりが取りつけてある。
ふと周りの風景を見ると、眼下にある工場の明かりが広い敷地の暗闇の中に点々と光っている。その向う側には民家の明かりと立ち並ぶビルの不規則な明かりが綺麗に見えていて
宏信の不安な気持ちを少しだけ癒してくれた。
数分間、宏信は夜景を見つめ意を決したように実験ルームの扉に手をかけた。
ゆっくり開いて行く扉、宏信はどう言う訳か重く感じていた。そして扉が開ききり部屋に一歩足を踏み入れようとした時、宏信の足がどう言う訳か進まなかった。
それでも進もうとする宏信の気持ちとは裏腹に体の方が動こうとしない。
「どう、どうして」そう呟いて一旦下がり落ちつこうとした時、自分の胸の辺りが少し暖かくなっている事に気が付いた。
宏信は左胸のポケットの辺りを触れようとした時、実験ルームの電話の音が聞こえきた。
するといままで入る事を戸惑っていた体がスーッと何かに押された様に部屋の中に入る事が出来て、宏信は急ぎ足で電話の所までいって受話器を取った。
「もしもし、もしもし」
受話器の向こう側は無言で何も聞こえてこない。
「もしもし、誰ですか」と宏信は言うと“プゥ-”と言う音が耳を刺す様に響くだけだった。
「なんや、今の間違い電話かぁ」
受話器を見つつ言って、そのまま受話器を置いた。
「はぁ」と溜息をついてタバコを吸いに行こうと実験ルームの入り口に行くと“バタン”と言う音と共に女子トイレに電灯が点いた。
「えっ?」
宏信はドアを開けようとしていた手が止まり女子トイレをジッと見つめ、不安と恐怖が入り混じり混乱し始めていた。
「な、何なん。誰も居ないはずじゃ、いったい何が・・・」そう呟いてドアからゆっくり手を話し、そして女子トイレを見つめながらゆっくり後ずさりをして一気に自分のデスクに戻り荷物を手に走って非常口の方に向かおうとした。
デスクから通路に出た時、勢い余って足が滑り転がる様に倒れ勢いそのままに実験様の固定されているテーブルに背中からぶつかってしまった。
「うぅぅ、イタァ」
一瞬息が詰まる感覚に襲われ呼吸困難の状態が数秒あったが直ぐに治り体制を整えながえら入り口の方を見ると、1人の女が女子トイレから出てくる姿が見えた。
髪の毛はストレートのショートで実験用の白衣をまとっていてグレーのスカートをはいている。
宏信はその姿からどうしても目を離す事が出来ず、立ち上がろうとしている格好のまま見つめていた。
彼女の姿がだんだん実験ルームに近づいてきて扉に手をかけた時実験ルーム内の電灯が全て消え真っ暗な状態になった。
「わぁ・わぁわぁ」とようやく我に返った宏信はそう叫びながえら立ち上がり、非常口の薄い緑の電気を頼りに走っていった。
非常口の扉に着くと宏信は開けようとトッテに手をかける、しかしどう言う訳か鍵が掛っているかのように開ける事が出来ず何度も“ガチャ・ガチャ”と動かしながらトライしてみた。その間も振り返り女性の姿を確認すると、実験ルームの半分位の所までゆっくりとしたスピードで近づいてきていた。
暗闇の中、女性の顔は相変わらず見える事は無い。白衣の下に来ている服はピンクにワイシャツの様に見えた。そしてよく見ると、ワイシャツのお腹の辺りが黒ずんでいる様に見え白衣にまで移っているようだった。
「嫌だ、嫌だ、助けてぇ」その姿から目を離さず恐怖と闘いながら宏信が必死に扉を開けようと何度もトッテを上下に動かしていた。
女性の姿が後数メートルの所まで来た時、女性の顔がはっきり分かった。と言っても顔はどす黒い液体に覆われ口元は少し開いているものの歯の辺りも黒く見えた。
だけど目だけははっきり見開き、宏信を凝視しながらゆっくり近づいてきていた。
「わぁ・・・」
震える全身で何とか扉を開けようとトッテを上下に動かしていると“カチャ”と軽い音がして宏信の体重が扉が少し開き、外の風が勢いよく室内に入り込んできた。
そのまま宏信が扉を開けようとした時、肩の辺りに何かが触れる感触があり振り向くと、女性の顔がすぐ側にあり、肩にが血がべっとり点い女性を手が乗ってた。
「わぁ~」と宏信は叫び気を失いそうになり扉に体重が掛ると、スーッと扉が音も無く開き、体重を支える事が出来なくなった宏信は倒れそうになりながら前のめりになりながら非常階段の踊り場に出て、勢いが衰える事の無いまま手すりまで行ってしまった。
宏信の目の前に手すりが見え、体が反応して両手を手すりに掛けようとした時、フッと体が軽くなり宏信の目線から一瞬手すりが消え工場の明かりが目に入り、次に見えたのは3階の踊り場に下を見下ろす女性の姿だった。しかしそれも数秒間“ドスン”と言う音と共に宏信の目は何も見つめる事はなくなった。
「うぅぅ」
低いうめき声と共に蛍光灯の淡く白い光が眩しく目の中に入ってきた。
何度か瞬きをしているとだんだん目が慣れてきて、自分が何を見ているのかが理解できた。
「ここは?」と微かな声でそう呟いた。
体を動かそうとすると、どう言う訳か上半身は少し動くものの、下半身は固定されているのか全く動かす事が出来なかった。
目線の自分の下半身に移すと、白いギブスが両足を覆い吊られていた。
「えっどうして」そう呟くと「松本さん、失礼しますよ」と若い看護師がベッドに近づいてきた。
「はい」と宏信が小さな声で言うと「あっ、意識が戻ったんですねよかった。先生を呼んできますね」と言って看護師は小走りに走っていった。
宏信は居る所は救命救急の場所らしく、ベッドの周りをカーテンが引かれているが、少し首を起こして足元を方を見ると向こう側で看護師が忙しそうに何人も歩いている姿が見えた。
数分後、担当だと言う医師が宏信のベットまで来て経過を報告していった。
宏信の怪我の状態は両足の複雑骨折・内臓も一部損傷していた。そして頭部も怪我をしているが擦り傷程度ですんだようだった。
「あの、僕はどうしてここに」
カルテに何かを書きこんでいる医師に宏信は言った。
「ああ、そうだねショックで記憶が無くなってるのかな。君は会社の3階から落下したようなんだ。骨折と内臓を少し損傷しただけですんで本当によかったんだよ。もし頭部を打っていれば高さからして命が無かったかもしれないからね」
「僕は自殺を・・・」
医師は宏信のその言葉に困惑しているようだったが
「状況はよく分からないけれど、事故だったんじゃないかな?まあそんな事は気にしないでゆっくり休んでくださいね」
医師は優しい目でそう言って「ちょっと胸を開けますね」と言って来ている病院で貸し出している寝巻の胸元を開け聴診器を当てた。
冷たい感触が胸元に感じ体が少しピクンとなった。
医師はしばらく宏信の鼓動を聞いて「大丈夫そうだね。そうだなぁ、明日には一般病棟の方に移っても大丈夫でしょう。とりあえず今日はここで様子を見るんで、後は明日にまた」
そう言って医師はカーテンンの向こう側に消えていった。
その日宏信はだるく感じる頭と時々痛む体の節々、そして骨折をした両足の痛みに耐えなければいけない夜を過ごした。
痛みのためにろくに眠る事が出来なかった夜が明け宏信は一般病棟に移る事になった。
宏信の病室はこの病院の3階で4人部屋の窓側になった。
横になっている宏信が窓に目を向けると、向う側には鮮やかな緑で覆われた山の姿が見える。その上を幾つかの雲が上空の風に流され山の向こう側に途切れ途切れに消えていっていた。
痛み止めが効いているのか、その山の風景ものんびり眺める事が出来て“俺、こんな風景を今まで見た事無かったかも”と自分の気持ちが癒されていくのが分かった。
そして数日後病室に俊男は見舞いに訪れてくれた。
それまでに会社の同僚、上司などが来てくれたが状態を聞いて少しの話をして直ぐに帰っていった。
俊男は似合わない花束を抱え病室に入ってきた。
「おう、元気そうやな」
そのぶっきら棒な言い方が宏信の心を和ませてくれる。
「これ、見舞いや。花瓶無いか」
「いや、花瓶は無いんじゃないかな」
「そうか、じゃちょっと看護師さんに聞いてくるは」と言って花束を抱えたまま病室を出て行った。
数十分後、俊男は花を生けた花瓶を抱えながら病室に入ってきて、宏信のベットの近くの窓際のスペースに花瓶を置いて花の位置を直していた。
「松井さん、似合ってますね花が」
「な、何を言うてんねん。あほ」
まんざらでもない様な声のトーンで言いながらも顔を真っ赤にして照れているようだった。
「俺は休日は家の庭いじりが好きでな、花とか植えてるねん、最近は嫁に言われてハーブって奴も植えてるんや」
「いい趣味ですね」
俊男は優しい笑顔で宏信の顔を見ながら話しをしていた。
和やかな時間が優しい風と共に流れていた。
宏信はこんな風に俊男と話ができるなんて思ってもいなかったし、こんな緩やかな時間を過ごしている事が不思議に思えていた。
30分程他愛の無い話しをしていた時、看護師が病室に入ってきて他の患者の世話をし始めた。その間どう言う訳か2人は話しを止め妙な空気が覆い始めた。
看護師が世話を終え病室を出ていき、ベッドで寝ていた患者も用事があるのか、散歩にでも出かけたのか、病室には宏信と俊男の2人だけになった。
「なあ、あの時の事は覚えてるのか」と今まで話をしていたトーンより落とした声室で俊男が宏信に聞いてきた。
「あの時の事ですか」
「そうあの時、君がその」
「全く覚えてません、なのよりどうして僕が骨折して入院してるのか。分からないんです」
宏信の神妙な顔を見て俊男が「そうか」と残念そうに、でも何所かホッとしたような声で言った。
「僕はいったいどうしてこんな事に」
「俺もよく分からないんだ、だた」
俊男は何か言いにくそうにうつむいている。
「ただ、何ですか、教えてください」
「ああ、そうやな知っておいた方がいいかもしれへんな」
何か心に決めたような表情で俊男は宏信の方を見て話し始めた。
「最初に言っておくけど、君がどうして3階から落ちたのか、理由は分からへん。俺等が実験棟に行った時にはもう君は地面に倒れていたし、すぐに救急車で運んでもらってその後はバタバタしててどうする事もできひんかったから」
「はい、それは」
「実はな、君が工場に来た時から井原は何か感じていたみたいなんや」
「井原君が、でも何を感じていたんですか」
「よく分からんけど、あいつには霊感があるらしい。もちろん俺はそんなもん信じてへんかったんや最初は、第一そんな見えへんもんは訳が分からんやろ」
「まあ、そうですけど」
「でもな、あいつが工場に来てすぐやったかな、実験棟の近くを一緒に歩いてる時に突然足を止めてジーっとビルを見とるねん『なんや、どうした』って聞いたら、最初はなんでもないですって言とったけど何度かそう言う事があっから問いただしたらこんな事を言うとったわ『僕、信じてもらわれへんかもしれないですけど霊感があるんです、あの実験棟は何かありますね。その内危険な事があるかもしれないです』ってな」
俊男の顔が強張っているのを宏信は気が付いた。
「それでな、君が工場に来た時は話しをしたんや井原と」
「僕がですか、でも井原君とはあまり話しをしないからそんな事」と宏信は言いながらも頭の中で思いめぐらせていると記憶の断片が蘇って来そうな感じがしていた。
「井原は言うには、君はあの日女子トイレの電気が自然に点灯する事を話したらしい。そして、井原は何かを感じて君にお守りを渡したそうや。お守りは病院で君の服から出てきて井原に帰したけど、開けてみたら中に入っていた木が真っ二つに割れていておまけに少し焦げていたそうや」
「そんな事が・・・」
宏信の脳裏に女性の姿が暗闇から浮き出てくるように浮かんできた。そして体が震えだしあの時の恐怖が蘇ってきた。
「ワァ・ワァ・ワァ」と宏信は叫びながら両手で顔を覆った。
「大丈夫か、松本君大丈夫か」
突然叫びだした宏信の状態を見て俊男は驚いて椅子から転げ落ちそうになったが立て直して、宏信の体を押さえ落ち着かせようとした。
「はぁはぁはぁ、だ、大丈夫です。もう大丈夫ですから」
激しい息ずかいがようやく落ち着き、宏信は俊男に言った。
「悪い、嫌な事を思いださせてしまったな」
俊男は椅子に座りなおして、うなだれる様に謝った。
「いえ、はぁはぁ。こちらこそ。どう言う訳かあの時の女性の顔を思い出してしまって。驚かしてしまってすみません」
俊男はどうしていいか分からず、しばらく黙ったまま宏信を見つめていた。
宏信は落ち着きを取り戻し白い天井を見ていた目を俊男に向けて「松井さん、井原君が言っていた事で何か心当たりはないですか、たとえば実験棟で事故があったとか」
「事故?事故は何度かあったようやけど、怪我人が出ただけで死んだ奴はいなかったけど、そう言えば自殺をした子がいたな」
「自殺ですか、それはもしかして女性ですか」
宏信は動けない体を無理の起こそうとするようにして俊男に聞いた。
「ああ、よく分かったな女性って」
「何となくですけど」と宏信は自分が見た女性の事は隠して言った。
「あの子はまだ2年目の子やったな確か」
俊男は懐かしむ様な目で話し始めた。
「名前は木崎彩って言って、大学出で入社したんやけど、真面目な性格でな仕事は手を抜く事がなかったわ。そんな性格やし仕事を任されたて責任感じたんやろうな、当時うちの工場で製品を作ってた時も、来んでいいのに何度も様子を見に来とったしもうほおっておいても大丈夫やって言っても自分が納得するまで帰らへんかったしな最後の方は精神的に参っていたのかもしれへんな。そんな時にあの事故が」
「事故?」
「ああ、うちの会社は、時に君等がいる研究の部署は結果に厳しいやろ」
「は、はい確かに」
「あの時もそうやった、上司の無理難題な依頼に毎日の様に遅くまで仕事をしていて、時には一晩中、朝までって時もあったみたいやったわ。時々工場に電話をしてきていて疲れた声を聞いた事があったしな。そして、事故が起きたんや」
俊男の目が少し充血してきている様に宏信には見えた。
「どう言う原因で起きたか分からへんけど実験棟の3階が爆発したんや」
「ば、爆発ですか」
宏信は目を見開いて驚いた。
「ああ、以前にも他の奴が危険物の薬品を間違えて小さな爆発は数度あったそうやけど、その時はフロアーの半分位が飛んだらしいわ。夜中の出来事やったし実験棟には誰も居なくて本人も別の所で作業していたそうやったから死人も怪我人も無かったそうやけど。会社はえらい損害が生じたし、彼女の責任も重かったからな」
「じゃあ、その責任を取って」
「いや、それがな・・・」と言って声がつまり何度か口を開くがうまく言えない様だった。
「大丈夫ですか」と宏信は俊男の表情を見て心配になった。
「すまない当時のあの子の事を思い出してしもた。ああ、事故があった後あの子が俺に話があるって電話をしてきたんや。で、工場の事務所にある会議室で会って話しをしたんやけど当時、上司の命令である製品試作の原料を次の日までに作れと言われたそうや。あの子は忙しいいいから出来ないと上司に言ったそうやけど、手順書を作るから作れと言われたらしいわ。それで仕方なく夜中に数リットルの試作を3個作ったそうやけどそれが爆発したらしいわ」
「それじゃ彼女のミスで」
「まあ、結果はそうなってしまったんやけど、彼女が言うには、その日もほとんど寝てなくて、それでも作ってる物はミス1つで大変な事が分かっていたから慎重に作ったらしい、でも入れる分量はしっかり量って入れたそうやけど、それを入れたらどうなるかまでは気が付かなかったらしいわ。爆発の後自分で何を入れたかもう一度確認をしたら危険な物を入れた事が分かったらしい。それを上司に報告したら『そんな事知らん、お前のミス』と言われたらしい」
「でも、残ってるんですよね。その資料が。それやったら誰が悪いかすぐに」
「そのはずやったんやけど、彼女が上司にもらった手順書は爆発で燃えてしもたし上司のパソコンも壊れたからデーターは残って無かったそうやしな。彼女が何を入れたかは彼女しか分からなくなっていたそうや」
「それじゃ証拠は何も残ってないって事ですね」
「そう言う事やな。それで俺の所に来て泣きながら訴えていたし、俺もどうにかしてやりたかったけど。力がなくてな。それに・・・」
俊男の目に一粒の涙が浮かんでいた。それでも言葉を出そうと耐えながら話しだした。
「それに、爆発の後彼女は何度も違う上司に訴えたそうやわ。それからや、訴えられた上司の嫌がらせが始まったの。無理な仕事を押しつけたり、セクハラに近い行為をしてみたり、おまけに見覚えの無い噂を流されたり。そんな事があって精神的に壊れたんやろうなとうとう彼女は5階から」そう言って俊男は目頭を押さえ泣き始めた。
宏信はそんな俊男を姿を見て驚いた。
「それじゃ、僕の見たかもしれない物は木崎彩さんだったかもしれないですね」
「見たのか彼女を」
「分からないです、でも白衣を着ていたし研究員だったのは確かだと思います」
「そうか、恨んでいたんかもしれんな。それにしてもどうして君にやったやろな」
「そうですね」
宏信はその言葉を言った後、考えこむ様に白い天井を見たまま何も言わなくなった。その姿を見つめていた俊男は同じ様に黙りこみ窓の外を眺めて涙を拭いた。
数分の沈黙が流れた後、俊男は「じゃあ、また来るから」と言って帰っていった。
1人病室に残された宏信は俊男の去って行く背中に「ありがとうございました」と囁くような声で言った。
数か月の時が流れ宏信の怪我もよくなり退院する事が出来た。
自宅で静養をしていたある日、俊男から電話があり会う事になった。
待ち合わせの場所は俊男の指示で会社から30分程離れているとある駅に近い喫茶店だった。
どうしてこの場所なのか宏信には分からなかった。
早目の時間に宏信は喫茶店に着き1人でコーヒーを注文して俊男が来るのをまった。
コーヒーが運ばれてきて一口飲んだ時に俊男が喫茶店に入ってきて宏信の姿を見つけると笑顔で近づいてきて宏信の前に座って、コーヒーを注文した。
「どうや、怪我の方は」
俊男は優しい声で言った。
「はい、リハビリも順調なんでもう大丈夫です」
「そうか、よかった。じゃあもうすぐ復帰できるな」
宏信はそこ言葉を聞いて少し困惑して、うつむいてしまった。
「どうした」と俊男は心配そうに宏信を見つめて言った。
「復帰するかどうかはまだ」
「どうして、辞める気か」
「分かりません、あんな事があったし考えていたんですけどまだ」
「そうか、まあゆっくり考えたらいいわ」
そんな話しをしていると俊男のコーヒーあ運ばれてきた。
「それより、どうしてここで。待ち合わせなら近くの方が」
「実はな、ここから歩いてすぐの所に木崎彩の実家があるんや。親後さんが今でもそこに住んでいて、これからお参りに行こうとおもてな」
「そうなんですか、でもどうして」
「亡くなる前に俺は相談受けてたしな。何もできひんかったし悪いとおもて、毎年お参りさせてもらってんねん」
「そうだったんですか」
「ああ、それに君が木崎さんを見たって言ったやろ、だから一度君にも参ってもうといた方がいいと思ってな」
「そうですね、それなら喜んで行きますよ」
2人は喫茶店を出て歩いて10分の所にある住宅街の一角にある木崎彩の実家に向かった。
彩の実家に着くと母親が快く迎えてくれて2人は仏間に通された。
仏壇の真ん中に青空の中笑顔でピースサインを顔の横でしている彩の写真が置いてあった。
“可愛い人やったんや”宏信は写真の彩を見てそう思ったと同時に“どうして”と言う気持ちが湧きあがってきていた。
俊男が最初に線香を点け仏壇のお供えをして手を合わせた。
そして宏信が続いて仏壇の前に座り線香に火を点け香炉にお供えすると、まるで香炉が線香を吸っているかの様にみるみる内に灰になった。
「どうした」と動きが止まった宏信の姿を見ていた俊男が言った。
「いっ、いやなんでもないです」と宏信はそう言ってもう一度線香に火を点け香炉に立てて手を合わせた。
そして、彩の母親と話しをした。
宏信が来た理由、もちろん宏信が彩を見た事など話す訳にはいかず適当な理由をつけて。
宏信は当時の彩の状況を聞こうかどうか迷ったが、聞いてみる事にしてみた。
母親の話では彩は当時からり悩んでいたそうだった。
理由は母親にも話さなかったらしいが、日に日にやせ細り亡くなる前には病気じゃないかと思ったくらいだったらしい。
泣きながら母親が話す姿がいたたまれなくなり、それ以上宏信は何も聞けなくなってしまった。
そして、俊男と宏信はお礼を言い彩の家を後にする事にした。
帰り際、宏信がもう一度仏壇に置いてある彩の写真に目をやると、一粒の水滴が目の辺りから流れ落ちている様に見えた。
傷も癒えた宏信は会社に行く事にした。
スーツ姿で会社の本社棟に行き、人事部の部長と宏信の上司と会議室で会った。
「どうしても辞めるのかね」と人事部の部長が渋い顔で言うと「はい」と短くはっきりと宏信は言った。
「しかし、辞めてどうするんだね。こっちは事故後色々君にはしたんだがね」
「それは感謝しています。しかし会社自体の体質が許せないんで」と何か吹っ切れた様に思いきって宏信は言った。
「体質ってなんだね。辞めるからって会社の批判をするのかね」
宏信の言葉に驚いて、憮然とした顔で人事部の部長は声を荒げた。
「そうとらえてもらってもいいですが、以前自殺された方の事、それから元上司の方の処分も理解できないからです。社内事情で人の命を無碍にする会社に僕は憤りを感じました。だから退社させていただきます」と宏信はきっぱり言って自分の上司の顔を鋭い目で見た。
宏信に見られた上司はとっさに目をそらした。
その上司は彩の元上司と言う事を宏信が俊男から聞いていた。
「それでま、これ以上何も話す事が無いんで、失礼します」
宏信はそう言って席を立ち、会議室から出ていった。
本社棟を出た宏信はすぐに工場の方に向かった。
工場では俊男と武が事務所で待っていた。
「お疲れさん、辞めてしまうんやな」と俊男は残念そうに言った。
「すみません、どうしても」
「そうやな、あんな事にあって、しかも事情を知ってしまった以上は仕方ないな」
「申し訳ないです」と言って宏信は頭を下げた。
そして武の方に向き「本当にありがとう、君には助けられたよ」と言って頭を下げた。
「いえ、怪我が治ってよかったです」と武は恐縮しながら言った。
「仕事、頑張って松井さんを助けてやって。この人もう歳やし」と宏信がおどけて言って俊男を見ると。
「なんじゃ、わしはまだこいつに助けてもらう程歳取ってへんで」と笑いながら怒って言った。
「ははは、すみません」と言った宏信は真剣な顔になり「本当にありがとうございました。もっと2人と仕事したかったですけど」
「ほんまやで、もっと仕事したかったのにな仕方がないな君が決めた事やし、次の所に言っても頑張ってくれや」
「はいありがとうございます、それじゃこれで帰ります」そう言って宏信はもう一度頭を下げて工場を出て行った。
会社の出口に向かう途中に昼間の青空に白い壁が輝いている実験棟が目に入ってきた。
何気に自分が落ちた非常階段に目をやると5階の辺りに人影を見つけた。
誰か社員が出入りしているのかなと宏信が見つめていると、人影も動かず宏信の方を見ている感じがした。
宏信は眼を凝らしてその影を見つめると、白衣を着ていて髪の毛がショート、顔はよく見えないが彩の様に見えた。
“木崎さん?”と心の中で呟くと太陽の光の中で顔も影になりはっきりと見えないはずなのに、白い歯がはっきりと見え、まるで笑っている様に思えた。
宏信はその姿を見てゆっくり頭を下げた。
そして再び頭を上げた時そこにはもう青空と流れる雲しか無かった。
End