90話 旦那様とたぬき癖
「もし、俺が王都に一緒に行ってくれと言ったら?」
「たらればの話ならお断りします」
旦那様は、目を見開いた後、すぐに笑顔になった。
断ったのに喜ばれる理由がわからない。
私も、戸惑うよりも、胸が高鳴ってしまう。
旦那様の笑顔は貴重。
もうさっきから、私の心臓はうるさいくらい拍動しっぱなしだ。
まさか、旦那様があんなことをするなんて……。
想像したことがなかったわけではない。あまりにも突然で、心の準備ができていなかっただけ。
もう一度してくれないかな?
身体には旦那様の温もりが残っていて、消えそうにない。
期待して旦那様に近寄るけれど、たぬき癖の話をしてから、旦那様にその気はなくなってしまったらしい。
大切な誘いを二つも断ったのに、旦那様は喜んだのはどうして?
また子供扱いされている気がする。
「ぽこは本気ですよ?」
旦那様が私を見る優しいまなざしの奥に、光が宿る。
「中央の仕事を受けようかどうか迷っていてね」
相談?
旦那様に大事なことを相談されたことは初めてだ。
今までの相談は、旦那様の意見は決まっていて、私にいくつかの選択権があった。今回の相談内容は、以前とは違う。
こみ上げる誇らしさを落ち着けながら、息を吸う。
「どうして迷うんですか? いいお話なのなら受けるべきです」
「王都の図書館にも行きやすくなるだろうしな」
「古の薬が、そんなに嫌ですか?」
「迷っている理由は、古の薬関係ではなくてだな」
旦那様の言葉を待つ。
「レナの結婚式に間に合うだろうか?」
一緒に行ってくれるつもりなのだ。
嬉しくて、体中の血が湧く。
レナの結婚式に出て、お祝いがしたい。でも、一人で帰れば、パパやお兄ちゃんたちに捕まって、もう二度と出してもらえないかもしれない。だから、行けないと思っていた。
でも、旦那様が一緒なら違うかもしれない。
「心配してくれるだけで嬉しいです。お仕事は大事ですから、気にしないで受けましょう」
旦那様の目から、光が薄れていく。
私、何か間違ったことを言っているだろうか。
不安になってくる。
意見に正解や不正解があるの? 何を期待されていたの?
「王都とインマーグは歩いて一ケ月、乗り物なら二週間はかかる」
「思ってたより遠いですが、受けるべきです」
「都会だから、生活は全然違うだろう」
言われていることがわからず、頭が自然に傾く。
「俺も王都は初めてでね。伝え聞いたところだと、王都にあるパン屋の数は、インマーグの市に立つ店の総数よりも多いらしい」
「それは……、多いですね。でも、多いのは問題になりません」
まだ王都での生活にどんな問題があるのかわからない。
不透明な相談内容に不安と多少の苛立ちが混ざる。
「王都の中は、石畳しかない」
「土がないってことです? じゃあ、畑はどこに?」
「城壁の外だろうな」
「食べ物は全部買うってことです?」
「そうなるな」
夕方、たぬき癖のあまり、家の畑を潰すと言ったけれど、とんでもない。家で食べるちょっとした野菜を育てるのは楽しいし、畑そのものが愛おしい。
王都では、畑作業ができないのは寂しい。
「ぽこの里がある赤壁山は、どこからでも見えただろう? 王都からは見えない」
「赤壁山が見えない生活は、想像つきません」
「ここらには野生動物がいるが、王都にはいないだろう。俺自身、王都での暮らしに馴染めるか不安がある。ぽこなら、なおのこと苦労もあるだろう」
返事ができない。
旦那様が王都で仕事をして、私は図書館に行く。
ただそれだけのことのはずだったのに。
いつもそうだ。
旦那様は、予測して心配する。危険を回避しようとする。だから、まどろっこしい。
「ついてこい」とでも言ってくれたらいいのに。
旦那様の目は穏やかで、私の意見を聞こうとしてくれている。
パパの優しさとは違う。
「ついてこい」だと、パパと同じで、旦那様はパパとは違う強さがある。
たぬきの長で、頼りがいのあるパパ。
それに反発して私はここにいるのだ。
私は、自分の声に耳を澄まして、自分で考えたい。
旦那様の希望に沿うだけでなく、自分の心の声を自分で受け止めて考えよう。
そう思うと、旦那様のお誘いを二度断ったとき、喜ばれた辻褄が合う気がした。
旦那様が教えてくれた情報を慎重に考え直して、率直に言葉にしていく。
「王都での生活に不安が多いのはわかりました。きっと、想像できないようなこともあるでしょうね。ちょっとしたことでも旦那様と相談し合いながら乗り越えたいです。旦那様はいかがですか?」
「ぽこは、大人になったように思える」
「え?」
旦那様の声は今まで聞いたことがないほど、熱を孕んでいて甘かった。
声に味はしないはずなのに、甘さにとろけてしまいそうだ。
旦那様が私を一人前だと認めてくれたってことなんだ。
だから、あんなことをしたり、声に熱が籠る。
旦那様の瞳に光が戻り、唇の端だけで笑う。
表情が元に戻るのが寂しくて、唇の端に指を当てて形を保つ。髭が当たる感触が、近さをより実感させる。
旦那様は、私の腕を取って戻した。
「俺が仕事を増やしている理由って言ったかね?」
「やっぱり理由があるんですね。教えてください」
旦那様の膝の間に座り、向かい合う。
「冒険者は身体が資本っていうのはわかるだろう? いつまでもできる仕事じゃない。俺は、温泉宿をやりたいのさ」
「温泉宿?」
初めて知る旦那様の夢だ。
「どっかの温泉宿を買い取って、客に料理を振舞う」
「いいですね」
誕生日会のことを思い出す。きっと向いているだろう。
「温泉宿でもバディとしていて欲しい」
「はい」
「俺についてきても、子供はできない。俺の方が先に死ぬ」
「はい」
「その後で里に帰っても、周りはみんな結婚して子供や孫に囲まれている中、ぽこは一人だぞ」
「はい。旦那様と一緒にいられたら、それが一番です」
旦那様が、深呼吸する。
「俺は中央での仕事を引き受ける。ぽこに一緒に来て欲しい」
「はい。喜んで!」
返事と同時に耳としっぽが出た。二人で顔を合わせて笑う。
旦那様が、私の頭を満遍なく撫でた。
いつもみたいに、耳を避けるのではなかった。
こそばゆい感触に、胸の奥がさざめき、充足感がある。
旦那様の胸に頬を寄せてしなだりかかる。
たぬき姿のときのように、旦那様もリラックスして目を閉じた。
初めて尽くしで、頭がおかしくなりそう。
「クエスト屋所長に、明日の朝一番にでも返事せんとな」
「エミリアさんも王都に行くみたいですけど、嬉しいですか?」
ばればれのたぬき癖なのに、旦那様は目を閉じたままで返事をしてくれない。
唇だけが微かに震えていて、何か違うことを考えているのだろうと思った。
たぶんこの先の準備のことを考えているはずだ。
なのに私は、自分のことばかり。
「なぜ?」
やっと旦那様が返事を返してくれた。
旦那様が片目だけ薄っすら開いて私を見ている。
「まぁ、小さい頃を知っているから、昇進試験を受けるなんて成長を感じるがね」
あぁ、私はなんて悪いたぬきだろう。
反省もするけれど、悪いたぬき心を満たしてくれるのも嬉しい。
カロンっ♪
部屋の中に、鐘鈴が鳴った。
空中に白い獣が現れる。
「妹産まれタ」
「おめでとう!」
飛び上がって、白い幼獣と手を繋ぐと、そのまま空中に連れていかれる。
ふわふわと浮いては、やや下がるいつもの飛び方だけど、鐘鈴の音が歌っているみたいで、喜んでいるのが伝わってくる。
「これをやろう」
旦那様が、何かを白い幼獣へ放り投げ、受け取るために私の手が離される。
飛び降りた私の真上で、白い幼獣は激しく身体を左右に揺さぶった。
騒がしいくらいに鈴が鳴る。
「コデ何? イイ匂い!」
「柑橘類だ。この辺りじゃ育たないからな」
来た時と同じように突然白い幼獣が消えた。
旦那様と顔を見合わせてまた笑う。
「妙なもんに懐かれちまったようだな」
「お前トモダチ、こでオ礼」
消えた空中から、何か落とされた。
外から鈴の音が遠くに消えて行くのが微かに聞こえる。
「これ何でしょうか?」
私の手の平の上には、灰色の筒がある。親指くらいの小ささで、植物の花の彫刻がある。
「魔術道具のようだな。うかつに触らない方がいい」
取り合えず旦那様に渡した。旦那様は腰元のポーチに仕舞う。
「夕食が未だだな。何か食べたいかい?」
「誕生会のお肉が残ってるはずです!」
二人で食卓を囲む。
どこでいたって、私たちは共に食を取る幸せがある。





