60話 旦那様とミモザケーキ
お山から下れば、春が早く来るっていうのは本当なんだ!
庭にはプリムラとスミレの小さな花が咲き、丘から見える麓には黄色いミモザの群生が見える。
山へ足をのばせば、雪の中にぽっかりと穴があき、野草の蕾が見つけられる。
私が旦那様の家に帰ってから、温かい陽射しが続き、雪が融けて花が咲き始めた。
昼間は暖炉の火を落としてもいいくらいだ。
「春がお山へ駆けあがってるみたいですね!」
春の野菜のために畑を耕してくれている旦那様に声をかけたら、短く返事があった。
私が持ってきたミモザケーキを見てくれる。
「見事なもんだ」
小ぶりのケーキは、ミモザの花と同じようにふわふわしていて、黄色い。
「休憩しませんか?」
旦那様は低い声で、くっと息を漏らして笑った。
「そりゃ、ぽこ、お前さんがケーキを食べたいだけだろう?」
「今年初めての蜂蜜ですもん! 待ちきれません」
庭仕事用のグローブを外した旦那様が、納屋から小さな机と椅子を出してきてくれるのを見て、布巾で机を拭き、ケーキ、お茶のセットを用意する。
相談もしないで、突然お暇を頂いて、旦那様には怒られると思っていた。
何のお咎めもないまま、いつもの生活が戻ってくる。
旦那様は、春が来たのだからといつもに増して働くようになり、私を見る眼差しも優しい。
喜んでくれるのが嬉しくて、今日もはりきって料理してしまう。
ケーキにナイフを入れたら、黄色い生地の中から、たっぷりのクリームが見えた。
ミモザの花を模したふわふわの飾りが、ほろほろと零れ落ちる。
大きな口でケーキを頬張る旦那様の第一声が気になって仕方ない。
何しろ、ミモザケーキを作るのは初めてだ。
「うまい」
たった三口で、食べ終わった旦那様は、熱いお茶を啜った。
よかった。
旦那様と一緒に暮らし始めたばかりの頃、食糧があまりにも乏しくて、きっと料理をしない人なのだろうと思っていたけれど、すぐ間違いだとわかった。
二人で料理してみると、旦那様は料理上手だった。
たぬき界にないスパイスや組み合わせは新鮮で、レシピの相談をするのも楽しい。
でも、ふとした時に考えてしまう。
仕事も料理もできる旦那様にとって、私が一緒にいる意義って何だろう?
恋の季節を迎えたときに、すごく迷惑をかけてしまった。
はしたない女だと呆れられた可能性だって否定できない。
あのときのことを思い出すと、居たたまれなくなってしまう。
あんな状況で、私は女性だと見てもらえなかったわけだ。
であれば、私はペットと同格なのでは?
お暇から帰って来てから、私は自分の存在意義を高めるために、料理のレパートリーを増やしている。
よくしてもらっている婦人会の皆さんに料理を習い、こうしてケーキを焼く。
甘い物なら、旦那様は作らないから、私だけが旦那様にできる特別なことになるからだ。
「もう飲めるぞ」
声をかけてもらって、ようやくお茶を頂く。それから、ミモザケーキを頬張った。
口の中で、蜂蜜のコクと香りが広がる。
うん。美味しくできた。
垂れてしまう頬を押さえ、もう一口頬張った。
「どれが一番好きですか?」
「うん?」
穏やかな視線に、とろけそうに優しい微笑みを見たら、息が詰まりそう。
一瞬見惚れて、吐息を逃がす。
「今日のミモザケーキと、レッドカラントのトルテと、鱒とキノコのソテーと……」
新作料理を挙げていくと、旦那様が、顎髭を撫でる。
旦那様が顎鬚を撫でるのは、決まって考え事をしているときだ。
「そうさなぁ」
「それと、ぽこならどれが一番好きですか?」
声を挙げて笑われる。
席を立ちながら、私の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「ケーキができたら、八百屋さんとこに差し入れに行くんだろ?」
「あ! そうだった!」
「ついでに買い出しでもしよう」
「ちぇっ。答えてくれたっていいのに」
唇を突き出して、机の上を片付ける。
先に歩き出した旦那様が、私を振り返る。
追いかけて、腕に飛びつく。
「犬じゃあるまいし」
おでこを押されて距離を置かれるのでさえ嬉しい。
旦那様にとって価値のある存在になれたらいいのになぁ。
冗談なら言えても、真剣に聞くのは怖い。
❄
人間姿で市場に出入りするようになって、知ったことは沢山ある。
その内の一つが、物事には適切な時間帯があるということ。つまり、買い物するなら朝一番が品揃えがよく、お店の人と話すなら、買い物客が減るお昼休憩が終わったころが落ち着いて話せる。
八百屋の娘のアンナと、店の御主人がミモザケーキを食べてくれ、感想を教えてくれる間に、旦那様はクエスト屋に出かけてしまった。
人通りが少なくなっているから、旦那様がクエスト屋に入っていくのも遠目に見える。
目を離さずに、アンナと話をする。
「教えてもらった養蜂家さんの蜂蜜を入れたの」
「やっぱり? あそこの蜂蜜はこの時期抜群に美味しいよね」
花が咲き始めたばかりなのに、蜂はもう働いていて、養蜂家さんはてんてこまいらしい。
冬場は時々市場に店を出しているけれど、今頃になると、蜂蜜は養蜂家さんまで行かないと買えない。
「蜂蜜酒もおいしいわよ」
「新婚さんに蜂蜜酒は定番だね。いちゃいちゃ度があがる」
「どうやって作るんですか⁉」
二人から、詳しいことを聞いていたら、旦那様がクエスト屋から出てきた。
「お、ベテランさんが来るね」
手を振ろうとしたとき、脇から旦那様に女の人が抱きついた。
「おぉーー⁉ すっごいバインボインだけど、あの子誰⁉」
八百屋の御主人の声がうるさい。
「ぽこちゃん……」
気遣うアンナに返事もできず、旦那様の元へ走っていく。
頭の中は、怒りと嫉妬、状況がわからずにパニックだ。
感情の整理がつかず、半泣きのまま旦那様の表情がわかるところまで来た。
女の人は、とっくに引きはがされているけれど、今度は引き離した腕を胸にうずめている。
旦那様の太い腕が、胸の谷間に食い込む。
あぁんな、あんなこと!
私にはできない技に、もうどうにかなりそう。
「旦那様!」
「失礼、俺には妻がいますので」
腕を胸から引き抜く旦那様の耳が赤い。
いやらしい! いやらしい‼
咄嗟に、フードを被ってから、引き抜いた旦那様の腕を奪い取って、ぎゅっと抱き着いた。
感情のコントロールが効かず、フードを被った瞬間に、たぬきの耳が出る。
ぼいんばいんな女の人を睨むけど、悔し涙でよく見えない。
唇の端から、唸り声が出てしまう。全身の毛が逆立つ。
「妻? 結婚したとは聞いてないんだけどぉ?」
気だるそうな甘い声
「ぽこは旦那様の妻です!」
涙を拭うと、目の前には、見知った女性がいた。
「レナ! どうしてここに?」
「家出娘を探しに来たの。あたしは、ぽこの従姉よ」
レナが、私とは逆の旦那様の腕に抱きついた。
「よろしくね。旦那様」
ふーと旦那様の耳に息を吹きかける。
なんで? どうして、よりによってレナなの⁉





