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第8章 システムの守り人

アルカディアが生み出した革新的な技術は、まるで静かに降り注ぐ慈雨のように、厄災が残した傷跡に苦しむ世界へと染み込み始めていた。『サイレント・ウィスパー』の通信網は、隔絶されていたコミュニティを繋ぎ、情報格差を是正し、新たな経済活動の息吹をもたらした。環境浄化システムは、死の大地を再び生命の緑へと変え、人々に希望を与えた。予測防御システムは、日々の暮らしに潜む脅威への不安を和らげ、失われていた平穏を取り戻させ始めていた。アルカディアは、その名を公にすることなく、しかし確実に世界のOSを書き換え、混沌とした世界に確かな希望の光を灯しつつあった。


しかし、光が強まれば、影もまた濃くなる。それは、この世界の、そしておそらくはあらゆる世界の、逃れられない法則だった。

アルカディアの急速な台頭と、既存の権力構造や既得権益を静かに、しかし根底から揺るがすその影響力は、それを快く思わない者たちの強い警戒心と、そして剥き出しの敵意を呼び覚ました。それは、単なる旧勢力の時代遅れな反発や、既得権益を守ろうとする抵抗を超えていた。より巧妙で、より組織的で、そして底知れない悪意に満ちた『見えざる手』が、アルカディアという、彼らにとって都合の悪い新たなシステムの根幹を揺るがし、その影響力を削ぎ、最終的には排除すべく、静かに、しかし確実に動き始めていたのだ。その攻撃は、物理的な破壊ではなく、より陰湿で、捉えどころのない形を取り始めていた。


その最初の明確な、そして極めて深刻な兆候は、アルカディア・ベースのまさに心臓部、幾重もの物理的・魔術的防御壁によって守られているはずの情報センター『オラクル』で、ある日の深夜、突如として検知された。


【警告! 警告! 敵性システムによる侵入を確認! 多層防御壁レイヤー7、8、9を同時突破! 未確認の自己変異型論理爆弾ロジックボム展開を確認! 防御プロトコル:ケルベロス・レベルΩ起動! 全職員は戦闘配置に移行せよ!】


けたたましい電子アラート音が、静寂に包まれていた情報センター全体に鳴り響いた。メインスクリーンは危険を示す赤色に染まり、複雑な防御システムの模式図上に、未知の侵入経路と、急速に内部へと拡散しようとする悪意あるコードの動きが表示される。普段はどんな状況でも冷静沈着さを失わないセレスティアの声に、初めて焦りの色が混じる。

「――警告! 正体不明の敵性システムによる不正アクセス(サイバー攻撃)を確認! 第七、第八、第九層ファイアウォールが同時に突破された模様! これは…通常のハッキングや魔術干渉ではないわ…! 高密度の時空間歪曲を利用した物理的侵入と、自己増殖・自己変異型の極めて高度な論理爆弾による、前代未聞の複合攻撃…!? 一体どこから、どうやって…こんな精密な座標とタイミングを…?」

メインスクリーンには、アルカディアが誇る多重防御システム『イージス・ヘブン』を、まるで悪性の粘菌が高速で増殖するように侵食しようとする、異質で禍々しいエネルギーの流れが、危険を示す赤色で点滅しながら表示されている。その動きはランダムに見えて、しかしアルカディア・システムの構造と論理の隙間を正確に、そして悪意を持って突いてくる。背後には、アルカディアの技術レベルに匹敵、あるいは部分的にはそれを超えるほどの高度な知識と、アルカディアの存在そのものを否定するかのごとき、冷徹な悪意に満ちた目的を持つ存在がいることを、明確に示唆していた。セレスティアは、その攻撃パターンの背後に、人間の思考とは異なる、冷たく、計算され尽くした知性を感じ取り、言いようのない不気味さを覚えていた。同時に、自らが設計に関わった防御システムが破られたことへの、技術者としての屈辱と、仲間を守れなかったかもしれないという恐怖が、彼女の心を一瞬凍りつかせた。(ヨシツネが創ったこの場所を…私が守らなければ…!)


「全分析官、コード・ブラック! システムを非常戦闘モードへ移行! 防御プロトコル『ケルベロス』最大レベル起動! 敵性シグネチャのパターン解析と、侵入経路の完全特定・物理的遮断を最優先! フィリア、ラボから防御システムの物理的な再構築支援を! ヨシツネ、緊急事態よ! こちらに応援を願うわ!」

セレスティアの鋭く、しかし的確な指示が、緊迫した情報センター内に飛ぶ。仮眠室で休んでいた分析官たちも警報を聞きつけ、寝間着のまま飛び起きて、それぞれのコンソールに向かう。彼らの指が、通常ではありえないほどの速度でキーボードや制御パネルを叩き、モニターから放たれる青白い光が、真剣で、しかし恐怖を押し殺した彼らの顔を照らす。ベース深部のラボからは、フィリアが「なんと無粋な! 人の研究を邪魔するとは! しかもこの手口…エルフの古代技術を悪用しているのか…? 許せませんぞ!」と激しい怒りの声を上げながらも、遠隔操作でダメージを受けた防御システムの物理的な再構築と強化を開始する。そして、自室で瞑想中に異常事態を瞬時に察知した僕自身も、その精神をアルカディアのメインシステムネットワークに直接ダイブし、情報空間におけるこの見えない戦争の、全体の指揮を執り始めた。僕の意識は、物理的な肉体を離れ、純粋な情報の奔流の中へと溶け込んでいく。


敵の攻撃は、これまでのいかなる妨害とも比較にならないほど執拗かつ極めて巧妙だった。単なる力押しではなく、アルカディア・システムの構造、運用されているOSの論理、さらにはそれを扱う人間、特にセレスティアや僕の思考パターンさえも深く理解した上での、高度に知的な攻撃。アルカディア側が防御壁を修復し、新たな防御アルゴリズムを実装しようとすると、敵もまたリアルタイムで攻撃手法を変化させ、まるで未来を予知しているかのように、予測不能な角度からシステムの脆弱性を正確に突いてくる。それはまるで、目に見えない広大な情報空間という盤上で、同等かそれ以上の能力を持つ、二人のグランドマスターが超高速で思考を読み合い、次の一手を打ち合っているかのようだった。情報空間という名の戦場で、秩序を守ろうとするアルカディアの青白い光のコードと、全てを破壊し混沌をもたらそうとする敵の赤黒い闇のコードが、激しく衝突し、火花を散らしていた。


数時間に及ぶ、息も詰まるような激しい攻防の末、アルカディアは何とか、敵の侵入を中枢部の情報ストレージ…アルカディアの知識と記憶そのものが保管されている聖域…の、まさに一歩手前で阻止し、敵性プログラムをシステムネットワークから完全に消去・排除することに成功した。情報センターには、疲労困憊しきった分析官たちの荒い息遣いと、張り詰めていた糸が切れたような、深い安堵のため息が満ちた。何人かは、そのままコンソールに突っ伏して気を失っていた。セレスティアも、椅子に深くもたれかかり、大きく息を吐いた。僕からの「よくやった、セレスティア」という短い労いの通信に、彼女はかすかに微笑んだように見えた。

しかし、その勝利の代償は決して小さくなかった。防御システムのいくつかは深刻なダメージを受け、完全な修復と、今回の攻撃を踏まえた上でのさらなる強化には、相当な時間とリソースが必要となるだろう。そして何よりも、今回もまた、敵は一切の追跡可能な痕跡を残さず、まるで蜃気楼のように消え去り、その正体や真の目的を特定することはできなかった。ただ、セレスティアが消去される寸前に辛うじて捉え、保存することに成功した敵コードの極めて断片的な情報からは、既知のどの文明体系にも属さない、極めて異質で、効率化されすぎていて、どこか「非人間的」な、冷たい論理のパターンが見られたという、極めて不穏な事実だけが残った。それは、まるで機械そのものが思考しているかのような、あるいは人間とは全く異なる知性体が設計したかのような、不気味な感触を伴っていた。


「…僕らは、未知の敵に明確に狙われている。それも、僕らの想像を超えるほどの高度な技術と、明確な悪意、そしておそらくは潤沢なリソースを持った相手に」

攻撃が完全に収まった後、僕は情報センターに集まった主要メンバーに、静かに、しかし重々しく告げた。僕の表情はいつになく硬く、その深い瞳には、これまで見せたことのない、深い警戒の色が浮かんでいた。僕は、今回の攻撃が、単なる外部からの侵入に留まらず、アルカディアの組織運営やメンバーの心理にまで影響を及ぼすことを予見していた。

「今回の攻撃は、単なる威力偵察や能力測定ではないだろう。彼らは本気で、僕らの情報システムの中枢…アルカディアの知識と記憶そのものを破壊、あるいは奪取しようとしてきた。この事実は極めて重い。僕らの活動、僕らの技術、そして僕たちメンバーに関する情報そのものが、彼らにとっての最大の標的なのだ。僕らは、もはや物理的な戦争ではなく、情報と知性を巡る戦争…情報戦争の真っ只中にいるのだと、認識を改めなければならない」


この深刻なサイバー攻撃と時を同じくして、アルカディアの外部…僕らが技術提供や復興支援を行っている地域でも、不穏な動きが表面化し始めていた。巧妙に仕組まれた、アルカディアへの信頼を損なわせ、その活動を妨害するための攻撃が、まるで組織的なキャンペーンのように、じわじわと始まっていたのだ。


アルカディアの革新的な浄水技術を導入し、安全な水の供給が始まり、住民の健康状態が劇的に改善していたある地域で、原因不明のシステムトラブルに偽装されたサボタージュが相次ぎ、「アルカディアの技術は不安定だ」「むしろ以前より水質が悪化した」といった根拠のない噂が流れ、住民の間に不安が広がった。

環境浄化システムが導入され、ようやく作物の収穫が目前に迫っていた別の農村では、「収穫された作物の一部から、未知の有害物質が検出された」とする、しかし分析データには多くの疑問点が含まれる報告書が、匿名の情報源から地域の有力メディアへとリークされ、それを鵜呑みにした保守的な領主が、アルカディア技術の即時使用禁止を命令した。その結果、収穫間近だった作物は再び枯れ始め、住民たちは絶望の淵に立たされた。

『サイレント・ウィスパー』の通信網を利用して事業を拡大していたある大商人が、「アルカディアのシステムを通じて、重要な企業秘密がライバル企業に漏洩した」と具体的な証拠は曖昧なまま主張し、アルカディアに対して、法外な額の損害賠償を要求する訴訟を起こした。その背後には、アルカディアの新技術によって既得権益を脅かされていた、旧来の通信ギルドの影が見え隠れしていた。


これらの、一見すると個別の、偶発的なトラブルに見える事件の背後には、明らかに、事実を巧みに歪曲し、人々の不安や不信感を煽る、高度な情報操作の影があった。「見えざる手」は、物理的な攻撃だけでなく、情報や評判といったソフトな側面からも、多角的に、そして執拗にアルカディアを攻撃してきていた。

渉外部門『リンカー』のリーダーであるエリオットは、その老獪な経験と冷静な判断力で、これらの攻撃に迅速に対応した。客観的なデータに基づいた反論声明を発表し、信頼できるメディアチャンネルを通じて正確な情報を発信し、影響力を持つ地域のキーパーソンに個別に接触して誤解を解き、アルカディアへの理解と支持を粘り強く求めた。彼の卓越した交渉術と幅広い人脈は、多くの場面で効果を発揮したが、一度人々の心に広まった不信の種や、根拠のない不安を完全に払拭することは、容易ではなかった。アルカディアが進める技術の社会実装戦略は、これらの巧妙な妨害工作によって、少なからず遅延や障害が生じ始めていた。


「敵は物理的な攻撃だけでなく、情報や評判、法的な手段といったソフトな側面からも、多角的に、そして極めて組織的に攻撃してきているようです」エリオットは戦略会議で、皺一つないスーツの襟を正しながら、冷静に報告した。「彼らの目的は、短期的にはアルカディアの技術的優位性を削ぎ、その社会的信用を失墜させること。そして長期的には、我々の組織を国際社会や地域コミュニティから孤立させ、内部から崩壊させ、最終的にはその存在そのものを抹消することにあるのかもしれません。我々は、極めて狡猾で、忍耐強く、そして我々が想像する以上のリソースを持つ可能性のある、未知の敵と対峙していると考えられます」彼の冷静な報告の裏には、旧来の権力構造を知る者としての、深い懸念が滲んでいた。


さらに、最も深刻な脅威は、アルカディアの組織の内部からも、静かに、しかし確実に忍び寄っていた。

シルフィ率いる特殊部隊『シーカー』は、ここ数ヶ月の間に、アルカディア・ベース内部において、微細ではあるが無視できない、いくつかの情報漏洩の兆候を掴んでいた。最近新たに参加したメンバーの中に、外部の何者かと、極めて巧妙で、通常では検知不可能な手段を用いて密かに連絡を取り合い、組織の内部情報…特に、アルカディア・ベースの正確な位置、最新の防御システム『イージス・ヘブン』の詳細な仕様、そして僕を含む主要メンバーの個人情報や精神的な弱点などを、外部に流そうとしている裏切り者がいる可能性が高いという、衝撃的な結論に達していた。


「…まだ、尻尾は掴ませてくれないわ。相手も、あたしたちと同じか、それ以上のプロよ」

シルフィは、僕への極秘の対面報告の中で、珍しく苦々しげな、そして深い怒りを滲ませた表情を見せた。彼女の部屋には、対象と思われるメンバーの行動記録や、不自然な通信ログの断片を示すデータが、ホログラムで無数に浮かんでいた。普段の軽薄で掴みどころのない態度は消え、その銀色の瞳には、裏切り者への冷たい怒りの炎が揺らめいていた。

「あたしが張り巡らせた監視網を、まるで存在しないかのように、巧みに掻い潜って外部と接触している。あたしたちがまだ知らない、未知の特殊な魔道具を使っているか、あるいは、精神感応系の、探知が極めて困難な能力を使っている可能性もあるわ。でも、必ず突き止めてみせる。アルカディアを、あたしたちの信頼を裏切るドブネズミは、あたしがこの手で、必ず始末する。絶対に、許さないんだから」

影に生き、裏切りの痛みを知る彼女にとって、信頼を裏切る行為は、何よりも許しがたい罪なのだ。だが、その怒りの裏には、仲間の中に裏切り者がいるかもしれないという事実に対する、深い悲しみと、疑心暗鬼に陥りかねない組織の空気への苛立ちも隠されていた。(ヨシツネが創った、この場所を…あたしが守らなきゃ…)彼女は、僕が築き上げようとしている、信頼に基づいた組織が、内部から崩壊することだけは、絶対に避けたいと思っていた。


「焦るな、シルフィ」僕は、彼女の激しい感情を理解しつつも、静かに制した。「怒りは時に判断を曇らせる。敵はそれを狙っているのかもしれない。確たる証拠を掴むまでは、決して動かないことだ。そして、調査は最大限の隠密性をもって行うこと。組織内に無用な疑心暗鬼と混乱を広げることだけは、絶対に避けなければならない。君の能力を信じているよ。でも、決して一人で抱え込むな。必要なら、僕やライオス、あるいはセレスティアに、いつでも助けを求めてほしい」僕の静かな声と、信頼を示す眼差しは、シルフィの荒ぶる感情を少しだけ鎮めた。彼女は、僕の冷静さと、自分への信頼を感じ取り、小さく頷いた。「…分かってるわよ」彼女は再び影の中へと消えていったが、その背中には、これまで以上の重い責任と、孤独な戦いの気配が漂っていた。


外部からの高度なサイバー攻撃。社会的な信用を失墜させるための巧妙な情報操作。そして、組織の内部に潜む、見えない裏切り者の存在。

アルカディアは、多方面から同時に仕掛けられる、巧妙かつ執拗な、見えない敵からの複合的な攻撃に晒されることになった。それは、かつて僕らが経験したような、剣と魔法が激しく交わされる物理的な戦闘よりも、むしろ、情報と知性、そして組織の信頼性そのものを巡る、高度な情報戦・心理戦の様相を呈していた。敵は見えない。その目的も、背後にいる存在の正体も、最終的な狙いも、まだ何も分からない。しかし、その脅威は、紛れもない現実として、アルカディアの存続そのものを、静かに、しかし確実に脅かし始めていた。


アルカディア・ベースの内部にも、見えない緊張感が漂い始めていた。メンバーたちは、僕の言葉を信じ、互いを信頼しようと努めてはいたが、度重なる外部からの攻撃と、内部にスパイがいるかもしれないという噂は、彼らの心に小さな疑念や不安の種を植え付け始めていた。普段の会話が少なくなり、互いの視線を避けるようなぎこちなさが生まれる。特に、最近加わったメンバーは、自分が疑われているのではないかと萎縮し、本来の能力を発揮できなくなっている者もいた。組織改革で目指したはずの、オープンで信頼に基づいたコミュニケーションが、脅威の前で揺らぎ始めていた。


この状況を最も憂慮していたのは、ライオスだった。彼は、規律と信頼こそが組織の根幹であると信じていた。彼は、『ガーディアン』の訓練をさらに厳しくし、任務遂行における規律遵守を徹底させることで、組織の動揺を抑え込もうとした。彼の厳格さは、一部のメンバーからは反発も招いたが、多くの者にとっては、この不確かな状況における、唯一頼れる精神的な支柱となっていた。彼はまた、シルフィの内部調査(対諜報活動)を全面的に支援し、彼女から得られた情報を基に、怪しい動きを見せるメンバーに対して、目立たないように、しかし確実な監視体制を敷いた。彼は、組織を守るためには、時に非情な決断も必要だと覚悟していたが、その内心では、かつて騎士団で経験した裏切りや内部抗争の悪夢が蘇り、深い苦悩を抱えていた。「…二度と、仲間同士が疑い合い、傷つけ合うような組織にはさせん。そのためなら、俺が悪役になることも厭わん」彼は固く拳を握りしめた。


一方、アルカディアがこの目に見えない敵との情報戦に突入し、組織としての防御体制を固めようと苦闘している、まさにその頃。

かつて僕が率い、そして僕を追放したパーティ、『暁の翼』は、世界の別の場所で、彼ら自身の戦いを続けていた。「腐蝕の嘆き」が収束した後も、世界各地では、規模は小さくなったとはいえ、依然として『厄災』の爪痕が残り、人々は苦しんでいた。『暁の翼』は、アルカディアのような巨大な組織力や革新的な技術を持つことはなかったが、彼らは彼ら自身のやり方で、最も助けを必要としている人々の元へと駆けつけ、泥臭く、しかし献身的に戦い続けていた。


例えば、かつて「腐蝕の嘆き」に襲われ、アルカディアの介入によって大地は浄化されたものの、多くの家や畑を失い、コミュニティが崩壊しかけていたある村。そこに『暁の翼』のメンバーは滞在し、復興の手助けをしていた。

バルガスは、その持ち前の腕力とリーダーシップで、村人たちと共に瓦礫を撤去し、新しい家を建てる作業を指揮していた。汗と泥にまみれながら、彼は時折、村の子供たちにせがまれて、昔の冒険譚を語って聞かせ、笑顔を取り戻させていた。「よし、お前たち! 今日も一日頑張るぞ! 俺たちが力を合わせれば、どんな困難だって乗り越えられる!」彼の力強い声が、疲弊した人々の心を奮い立たせていた。

リリアは、まだ完全には癒えない人々の心身の傷を、彼女の持つ優しい治癒魔法と、精霊たちとの対話を通じて、丁寧に、辛抱強く癒し続けていた。彼女は薬草を煎じて配り、病人の看病をし、親を失った子供たちの話し相手となり、その柔らかな笑顔で、人々の心に温かい光を灯していた。「大丈夫ですよ。ゆっくり、少しずつ、元気になっていきましょうね」彼女の存在は、村の人々にとって、母親のような安らぎを与えていた。時折、夜空を見上げては、(ヨシツネさん…今、どこで、何をしているのかしら…どうか、ご無事で…)と、遠い空にいるであろう彼に想いを馳せていた。

エルザとジンは、まだ周辺地域に残存し、復興作業を妨害しようとする魔物や、混乱に乗じて略奪を企む盗賊たちから、村を守るために、昼夜を問わず警戒を続けていた。彼らの連携は以前にも増して洗練され、少ない人数でも効率的に脅威を排除していたが、その表情には常に緊張感が漂っていた。記録者のカインは、彼らの活動と、復興へ向かう村の様子を、希望を込めて記録し続けていた。


彼らは、アルカディアのように問題を根本から解決することはできないかもしれない。しかし、彼らが持つ人間的な温かさや、人々の隣に立ち、共に汗を流し、痛みを分かち合うその姿勢は、絶望の淵にいた人々の心を直接的に救い、明日への希望を繋ぎとめる、かけがえのない力となっていた。彼らこそが、多くの人々がイメージする、血の通った「英雄」の姿だった。


しかし、彼らの奮闘にも限界はあった。復興に必要な資材は常に不足し、広範囲にわたる汚染の完全な除去や、失われた農業基盤の再生には、彼らの力だけではどうにもならない専門的な知識や技術が必要だった。そして、彼ら自身の体力や魔力も、無限ではない。終わりの見えない活動の中で、彼らの心身は確実に消耗していった。


そんな彼らの元に、時折、奇妙な出来事が起こるようになった。

ある夜、食料も底をつきかけ、村人たちが飢えに苦しみ始めていた時、どこからともなく、大量の、栄養価が高く長期保存可能な食料と、清潔な水、そして最新の医療品が、村の広場に、まるで奇跡のように届けられていた。送り主を示すものは何もなかったが、その品質と量は、個人や小規模な組織が用意できるレベルを遥かに超えていた。

また、復興作業を妨害する、特に強力な魔物の大群に襲われ、彼らが絶体絶命の窮地に陥った時には、どこからか放たれたのか、天から目映い光の矢が降り注ぎ、魔物たちだけを正確に、一瞬にして消滅させたり、あるいは、彼らの傷が瞬時に癒え、消耗した魔力が回復したりすることもあった。その度に、彼らは空を見上げたが、そこには何も見えなかった。

そして、時には、彼らが頭を悩ませていた復興計画の技術的な問題点に対する、驚くほど的確で具体的な解決策が、匿名の情報提供という形で、彼らの元に届けられることもあった。その情報端末のインターフェースや、示された解決策の合理的な思考プロセスには、どこか、彼らがよく知る人物…僕の影が、色濃く感じられた。


『暁の翼』のメンバーたちは、これらの不可解な、しかし明らかに善意による出来事が、おそらくは僕、あるいは僕が新たに関わる、想像もつかないほど強力な組織によるものであると、薄々感づき始めていた。そして、自分たちが命懸けで、泥臭く目の前の問題に対処している一方で、その組織が、まるで高みから盤面全体を見下ろすチェスプレイヤーのように、遠くから、効率的に、そして根本的に、より大きなスケールで問題を解決しようとしているらしいことを、推測するようになった。


彼らは、僕が生きていること、そして僕が新たな道で、より大きな目的のために活動していることに、心の底から安堵すると同時に、言いようのない、複雑な感情を抱かずにはいられなかった。それは、寂しさであり、少しの後悔であり、そして、自分たちとの間にできてしまった、埋めようのない距離感への戸惑いだった。彼らの知る僕は、確かに超人的ではあったが、それでも共に汗を流し、時には冗談を言い、仲間を失えば涙を流し、怒り、悲しむこともあった、血の通った英雄だった。しかし、今、垣間見える僕の姿は、もはや個人の英雄ではない。まるで人間を超越した、何か巨大で、冷徹なまでに合理的なシステムの設計者、あるいは神のような視点を持つ指揮官のような、近寄りがたい、そして少し恐ろしくもある存在へと、変貌してしまったように感じられたのだ。


「……俺たちの選択は、これで、本当に良かったのだろうか」

夜、復興作業を終えた村の焚き火の前で、バルガスは届けられた高性能な携帯食料を手に、誰に言うともなく、静かに呟いた。彼の隣では、リリアが黙って空を見上げ、星を探していた。彼女の心には、僕への変わらぬ尊敬と、僕がどこかで無事でいることへの感謝、そして、もう二度と会えないかもしれないという切ない想いが交錯していた。もしかしたら、ほんの少し、あの頃のような日々に戻りたい、という叶わぬ願いもあったのかもしれない。

「彼は確かに、俺たちの想像を遥かに超えた存在になったのかもしれない。世界を救うためには、それが必要だったのかもしれない。だが……俺たちが、あの時、失ったものもまた、とてつもなく大きかったのかもしれないな……。あいつはもう、俺たちの知っているヨシツネじゃないのかもしれない…」

その言葉に、他のメンバーも、それぞれの想いを胸に、静かに耳を傾けていた。彼らが送り出した英雄は、彼らの手の届かない、遥か彼方へと飛び立ってしまった。その事実に、彼らは誇らしさを感じると同時に、どうしようもない距離感と、拭い去れない寂寥感を感じずにはいられなかった。アルカディアのシステム的な正しさと、彼ら自身の人間的な正義。そのどちらが絶対的に優れているというわけではない。しかし、二つの道が交わることは、もうないのかもしれない。それでも、彼らは明日もまた、自分たちの信じるやり方で、人々のために剣を振るい、魔法を唱えるだろう。それしか、彼らにはできないのだから。


一方、アルカディア・ベースでは、この目に見えない敵との戦いが、組織としての真価、そしてメンバー間の結束力を、これまで以上に厳しく問い直すことになっていた。

情報センター『オラクル』では、セレスティアが不眠不休で敵の攻撃パターンを分析し、防御アルゴリズムを絶えず改良し、敵の次の手を予測しようと試みている。彼女の目の下には深い隈ができているが、その瞳は知的な闘志で燃えていた。彼女は、僕を守りたい、僕が創り上げたこの場所を守りたい、という強い想いを、自らの分析能力へと昇華させていた。

技術開発ラボ『メイカー』では、フィリアが今回の攻撃で露呈したシステムの脆弱性を修正し、より高度なセキュリティ対策を施した改良版のハードウェアとソフトウェアの開発を、文字通り寝る間も惜しんで急いでいた。「この程度の攻撃で破られるようでは、私の名が廃るというものですぞ! それに、あの若者の理想を、こんなところで潰えさせるわけにはいきませんからな!」と、彼女は珍しく強い対抗心を燃やしていた。

実行部隊『エクゼキューター』では、ライオスが『ガーディアン』を指揮し、組織内に広がりかねない不安や疑心暗鬼を抑えるべく、普段以上に厳格な規律を維持し、メンバーの士気を鼓舞しつつ、シルフィの『シーカー』による内部の対諜報活動を、全面的に、そして秘密裏に支援していた。彼は多くを語らなかったが、その背中は、組織の動揺を許さないという強い意志を示していた。彼は、僕が信じた「システム」を守り抜くことが、今の自分の使命だと理解していた。

そして渉外部門『リンカー』では、エリオットが、外部からの圧力や批判、そして仕掛けられる訴訟問題に対して、常に冷静に、そして極めて戦略的に対応し続け、アルカディアの社会的な活動基盤を守るために、世界中を飛び回り奔走していた。


そして、その全ての中心で、僕はアルカディア・ベースの戦略司令室から、これら全ての情報を集約・分析し、組織全体がこの複合的な危機に対して最適に機能するように、各部門間の連携を調整し、最終的な意思決定を下していた。僕は自身の持つ規格外の知識や、未来の断片に関する予知能力のようなものを、この見えざる敵の戦略や、その背後にあるかもしれない正体を見抜くためのヒントとして活用し、アルカディア全体の防御戦略の舵取りを行った。それは、かつて僕が一人で全ての脅威を打ち破っていた時とは全く異なる、複雑で巨大なシステム全体を指揮し、守り抜くという、新たな、そしてより困難で、孤独なリーダーシップの形だった。僕は、仲間たちの奮闘と苦悩を、システムを通じて感じ取りながら、彼らへの信頼を胸に、静かに、しかし断固として、この見えない戦争の指揮を執り続けた。


「敵は僕らを試している」

ある日、僕はアルカディアの全メンバーに向けた緊急通信で、静かに、しかし力強く語りかけた。僕の声は、不安を抱えるメンバーたちの心を鎮め、再び前を向く決意を促す響きを持っていた。

「僕らの技術を、僕らの組織力を、そして何よりも、僕らが掲げる理念と、メンバー間の結束力を。彼らは、僕らがこの世界にもたらそうとしている変化を恐れ、それを阻止しようとしているんだ。でも、恐れる必要はない。僕らにはセレスティアの知性があり、ライオスの規律があり、シルフィの機敏さがあり、フィリアの技術があり、エリオットの交渉力がある。そして、何よりも、アルカディアの理念に共感し、この場所に集ってくれた君たち一人ひとりの力が、ここにはあるんだ。個々の力は小さくとも、システムとして連携し、互いを信頼すれば、僕らはどんな脅威にも打ち勝つことができると、僕は確信している」

僕は続けた。その声には、強い確信が込められていた。

「敵は見えない。その攻撃は巧妙で、時に僕らの心を揺さぶるだろう。でも、僕ら自身の中にある疑心暗鬼や恐怖こそが、僕らにとっての最大の敵となりうる。冷静さを失わず、情報を正確に共有し、互いを信じ、そして断固として、この危機を乗り越えよう。アルカディアは、この試練を通じて、さらに強く、賢く、そして結束した組織へと進化するだろう。僕は、そう信じている」


僕の言葉は、不安と緊張に包まれていたアルカディア・ベースの空気に、再び冷静さと、逆境に立ち向かう闘志を取り戻させた。見えざる手との情報戦は、まだ始まったばかりだ。敵の正体も、その最終目的も、依然として厚い謎のヴェールに包まれている。しかし、アルカディアはこの目に見えない脅威との戦いを通じて、組織としての危機管理能力を高め、メンバー間の信頼関係を深め、より強靭なシステムへと進化していく可能性を秘めていた。

僕らの戦いは、もはや剣と魔法が交わる物理的な破壊と再生の物語から、情報と知性、そして組織の意志そのものを巡る、新たな次元の戦いへと、静かに、しかし確実に突入していったのだ。アルカディア・ベースを覆う鉄壁の防御結界『イージス・ヘブン』は、今や、外からの物理攻撃だけでなく、この見えない情報戦の嵐からも、その内部にある、世界を変えようとする希望の灯火を、懸命に守り続けていた。そして、その灯火を守るためには、メンバー一人ひとりの、システムへの、仲間への、そしてリーダーである僕への、揺るぎない信頼が、何よりも必要とされていた。



【第8章 用語解説】

※ ロジックボム: システム内に仕掛けられ、特定の条件が満たされると発動し、不正な動作を引き起こす悪意のあるプログラム。本作では、アルカディアへのサイバー攻撃で使用された、高度な魔術的要素を含む悪質なプログラム。


※ サイバー攻撃: コンピュータネットワークやシステムに対する不正アクセス、情報窃取・破壊、機能停止などを目的とした攻撃。本作では、アルカディア情報センターへの、魔術や異次元技術を組み合わせた高度な不正アクセス・システム侵入攻撃。


※ ファイアウォール: ネットワーク境界で不正アクセスや攻撃を防ぐ防御システム。「防火壁」。本作では、アルカディア・ベースの情報システムを守る多重防御システム『イージス・ヘブン』の防御層を指す。


※ 情報戦争: 武力だけでなく、情報操作、サイバー攻撃、諜報活動などを駆使して相手に影響を与え、自国に有利な状況を作り出す戦い。本作では、アルカディアと「見えざる手」との間で行われている、情報システム攻撃や情報操作、スパイ活動などを中心とした目に見えない戦い。


※ 対諜報活動: 敵のスパイ活動(諜報活動)を探知・妨害・無力化するための活動。防諜とも。本作では、アルカディア内部のスパイを探知し、情報漏洩を防ぐために、シルフィの『シーカー』チームが秘密裏に行う調査・監視活動。

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