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第7章 プロメテウスの火

アルカディアが組織としての自己変革を進め、より柔軟で強靭なシステムへと進化しようとしていた矢先。まるでその新たな力を試すかのように、あるいは、この世界が抱える病巣の深さを改めて突きつけるかのように、世界は息つく暇も与えず、新たな、そしてより深刻な『厄災』の脅威を突きつけてきた。王国中西部の広大な穀倉地帯、王国の食糧庫とも呼ばれる豊かな大地を、突如として襲った未知の広域汚染現象。


後に『腐蝕の嘆き』と呼ばれることになるそれは、大地そのものを内側から、まるで悪性の腫瘍のように蝕んでいった。黄金色に輝くはずだった広大な麦畑は、収穫を目前にして急速に黒ずみ、捻じ曲がり、生命力を失って悪臭を放つ粘液を滴らせながら枯死していく。かつて豊かな作物を育んだ肥沃な土壌は、まるで呪われたかのように生命力を失い、ひび割れた灰色の死者の肌のような色へと変貌した。谷を流れる豊かな川の水は油が浮いたように濁り、魚は白い腹を見せて浮き上がり、それを口にした家畜や人々は、高熱と激しい痙攣、そして徐々に体が石のように硬化していくという、未知の奇病に次々と倒れていった。さらに、汚染地域に元々生息していた魔物たちは異常なまでに凶暴化・変異し、数を爆発的に増殖させ、わずかに汚染を免れた村々を、飢えた獣のように狂ったように襲い始めた。汚染は風に乗り、地下水脈を通じて確実に拡大しており、このまま放置すれば王国全体の食糧供給に壊滅的な打撃を与え、歴史書に記されるような未曾有の大飢饉を引き起こしかねない。それはもはや地域的な問題ではなく、王国全体の存亡に関わるレベルの危機だった。


王国政府や冒険者ギルドは調査隊や討伐隊を次々と派遣したが、汚染の原因は特定できず、有効な対処法も見つからないままだった。派遣された者たちも、未知の汚染による奇病や、異常強化された魔物の群れの前に次々と犠牲となり、撤退を余儀なくされた。絶望的な報告が首都にもたらされるたびに、人々の間には、なすすべもない絶望感と恐怖が急速に広がっていった。「神の怒りだ」「世界の終わりが近い」そんな終末論的な囁きが、現実味を帯びて語られるようになった。


この未曾有の危機に対し、アルカディアは組織改革で導入された新たなシステムを本格的に稼働させ、迅速かつ組織的に対応した。情報分析部門『オラクル』は、現地から送られてくる膨大なデータと、過去の厄災事例との比較分析から、汚染の原因が単なる自然現象や魔物の影響ではなく、古代の高度な呪術と魔力工学が融合した、極めて悪質な「呪術的アルゴリズム」によるものであることを特定した。それは特定の範囲の生命活動を選択的に破壊し、大地そのものを変質させることを目的とした、悪意あるプログラムだった。


その分析結果に基づき、技術開発部門『メイカー』は、フィリアの指揮の下、この呪術的アルゴリズムに対抗するための特殊な「カウンター・コード」と、それを広範囲に照射し、汚染された環境を中和・浄化するための「広域浄化システム」を、驚異的なスピードで開発した。


同時に、実働部門『エクゼキューター』が現場へと急行した。ライオス率いる『ガーディアン』は、汚染地域と非汚染地域の境界線に展開し、魔物の侵入を防ぐ防衛線を構築するとともに、パニック状態にある住民たちを安全な場所へと避難させ、秩序の維持に努めた。シルフィ率いる『シーカー』は、呪術アルゴリズムの発生源と思われる地点へと潜入し、正確な位置特定と、カウンター・コードを最も効果的に作用させるための情報を収集した。


そして、新設された渉外部門『リンカー』は、リーダーのエリオットが王国政府や関係機関との水面下での連携調整を行い、アルカディアの活動が円滑に進むように、また、パニックを最小限に抑えるための情報統制にも協力した。


全ての部門が、組織改革によって得られた権限と責任に基づき、自律的に、しかし緊密に連携しながら動いた。そして最終段階で、僕自身がアルカディア・ベースから遠隔で、収集された全情報を統合し、最も効果的なタイミングと場所で、カウンター・コードの起動と広域浄化システムの展開を指示した。僕の持つ規格外の魔力と、システム全体を最適化する能力が、この複雑なオペレーションを成功へと導いた。


その結果は、劇的だった。僕が古代呪術アルゴリズムの発生源を無力化し、フィリアが開発した広域浄化システムが展開されると、死の色に染まっていた大地はゆっくりと生命力を取り戻し始めた。土壌からは毒性が抜け、木々には新たな緑が芽吹き、川の水は再び澄んだ流れを取り戻した。凶暴化した魔物たちも沈静化し、数を減らしていった。王国中西部の穀倉地帯は、文字通り壊滅の淵から辛うじて救われたのだ。その事実は、アルカディアが介入の痕跡を巧妙に消し去った後も、残された成果そのものによって静かに、しかし雄弁に語られていた。


アルカディア・ベースの『サイレント・ウィスパー』には、以前にも増して多種多様な、そしてより大規模な依頼や協力要請が舞い込むようになった。アルカディアが目指す「世界の非効率と理不尽を最適化する」ための活動領域は、確実に広がっていた。


しかし、僕とセレスティアは、この大きな成功に安住することはなかった。むしろ、「腐蝕の嘆き」への対処を通じて、新たな、より本質的な課題と、組織『アルカディア』が取るべき次のステップを明確に認識していた。


「今回の厄災への対処は、僕らが構築し、そして進化させてきたシステムアプローチの有効性を、改めて実証するものとなったと言えるだろう」

アルカディア・ベースの戦略会議室。壁一面のホログラムディスプレイには、「腐蝕の嘆き」に関する任務結果のサマリーと分析データが表示されている。僕は集まった各部門リーダーたち――セレスティア、ライオス、シルフィ、フィリア、そして渉外部門リーダーのエリオット――に、静かに、しかし確かな手応えを感じさせる口調で語りかけた。

「セレスティア率いるオラクルの正確な分析、フィリア率いるメイカーの迅速な技術開発、ライオスとシルフィが率いたエクゼキューターの献身的な現場活動、そしてエリオット率いるリンカーによる外部との巧みな調整。全ての要素が、以前よりも遥かに有機的に連携した結果だ。皆の尽力に、心から感謝する」


しかし、僕はすぐに表情を引き締め、続けた。その瞳には、達成感よりもむしろ、次なる課題を見据える厳しさが帯びていた。

「だが、同時に、僕らの現在のアプローチ…すなわち、発生した問題に対応するというアプローチそのものの限界も、明確に露呈したと言える。僕たちアルカディアがどれだけ迅速かつ効果的に対応したとしても、厄災が発生してからでは、すでに失われる命や、破壊される生活がある。今回も、僕らが介入する前に、多くの人々が苦しみ、命を落とした。その事実を決して忘れてはならない。対症療法的な問題解決だけでは、この世界の根本的な歪みを正すことはできない。僕らは常に、後手に回ることになる」


セレスティアが、彼女のチームが作成した未来予測モデルをディスプレイに表示させながら、分析結果を補足する。

「その通りよ。今回のような大規模な厄災は、決して特殊な事例ではない。むしろ、我々の分析によれば、今後、より頻繁に、より多様な形で、世界各地で発生する可能性が極めて高い。気候変動による自然環境のバランス崩壊、地脈を流れる魔力エネルギーの不安定化、そして過去の文明が遺した、我々がまだ知らない負の遺産の覚醒…要因は複雑に絡み合っているわ。我々アルカディアが、世界中で発生するであろう全ての厄災に対して、今回のような形で個別に対応し続けるのは、リソース的にも限界がある。それに、それは根本的な解決とは言えない。もっと根本的なアプローチ…世界全体の『脆弱性』そのものを低減させ、厄災が発生しにくい、より強靭でレジリエントな社会システムを構築する方向へと、我々は舵を切るべき段階に来ているのよ」彼女は僕の目を見て、静かに、しかし強く頷いた。その瞳には、僕と共に次の困難に立ち向かう決意が表れていた。


「つまり、僕らは次のフェーズへ移行するべきだ、ということだな」僕は静かに、しかし力強く結論付けた。「単に発生した問題を解決する組織から、問題が発生しにくい、より強靭で効率的な社会システムそのものを、能動的に創り出していく存在へ。アルカディアは、もはや単なる影の実行部隊ではなく、この世界の歪んでしまった『OS』を、より良いものへと書き換えるための、触媒とならなければならない」


それは、アルカディアの活動方針における、大きな、そしてリスクを伴う転換を意味していた。これまでは、その存在を可能な限り秘匿し、水面下での活動を原則としてきた。しかし、世界のOSを書き換えるという、より大きな目標を達成するためには、より公の領域で、広範な影響力を行使していく必要があった。


そのための具体的な手段として、僕が提示したのは、アルカディアがこれまでに開発し、内部での有効性を実証してきた、数々の革新的な技術の社会実装だった。

超広域・秘匿通信システム『サイレント・ウィスパー』の基盤技術。

「腐蝕の嘆き」で劇的な効果を発揮した環境浄化システムの技術。

フィリアが研究を進める、古代魔力炉を応用した高効率かつクリーンなエネルギー供給技術。

そして、拠点防衛システム『イージス・ヘブン』の基盤となる、脅威予測に基づく防御や自動迎撃の技術。

これらは、アルカディア自身の活動を支える生命線であると同時に、その使い方次第で、社会全体の安全性、効率性、そして持続可能性を、飛躍的に向上させるポテンシャルを秘めていた。


「これらの技術を、僕たちアルカディアだけで独占するつもりはない」僕は、会議室に集まったリーダーたちの顔を一人ひとり見渡し、明確に宣言した。「むしろ、一定の管理と制限の下で、積極的に外部に提供し、社会全体のインフラとして普及させていく。それによって、僕らは三つの戦略的目標を達成する。第一に、僕らが生み出した革新的な技術を通じて、アルカディアの理念…すなわち、効率性、公正さ、持続可能性といった価値観を世界に広め、社会全体のレベルアップを促すこと。第二に、技術ライセンスの供与や、関連するサービスの提供を通じて、アルカディアの活動に必要な資金を持続的に確保し、外部からの援助に頼らない経済的な自立性を確立すること。そして第三に、僕らの技術が社会の基盤、デファクトスタンダードとなることで、世界に対する僕らの影響力を間接的に高め、より大きな社会システムの変革を、僕らが主導しやすくすることだ」


それは、アルカディアが影の組織から脱却し、世界の未来を形作るための、より公然とした影響力を行使していくという、大きな方針転換だった。計り知れないほどの大きな成果をもたらす可能性がある一方で、アルカディアという組織の存在を白日の下に晒し、未知のリスクや、新たな敵対勢力を呼び込む可能性も秘めた、極めて大胆な賭けでもあった。


この大胆な戦略に対し、会議室のメンバーからは、当然のことながら、様々な意見や、深刻な懸念が出された。


長年、王国騎士団で国家の安全保障という重責を担ってきたライオスは、険しい表情で最初に口を開いた。「…司令のお考え、そしてその戦略的意図は理解できます。しかし、我々が開発した高度な技術、特に防御システムや通信システムといった、軍事転用が容易な技術を外部に提供することは、我々自身の安全保障上の重大なリスクを高めることにはならないでしょうか? 我々の技術が悪意ある者の手に渡り、改良され、我々自身や、あるいは我々が守ろうとしている無辜の人々を脅かす、より強力な凶器となりかねません。特に、我々のシステムに不正アクセスを試みるような『見えざる手』の存在が疑われる現状では、そのリスクはあまりにも大きいのではないかと、危惧いたします」。彼の言葉は、現場で命を懸ける者としての、実直な懸念だった。


シルフィは腕を組み、足を組んで、少し面白そうな、しかしどこか他人事のような表情で言った。「へぇ、いよいよ表の世界で、でっかく商売始めるってわけ? なかなか面白そうじゃない。でもさ、その凄い技術とやらを、どこの誰に、いくらで、どうやって売るつもりなの? そういう面倒な交渉事とか、契約書の細かい文字を読むのとか、あたしはぜーんぜん興味ないし、パスだからね。そういうのは、専門の人に全部丸投げしちゃってよ」。彼女らしい、自由で率直な意見だった。


そして、フィリアは、複雑な、そして深い苦悩の色を浮かべた表情で俯いていた。技術の外部提供という言葉は、彼女にとって、決して忘れることのできない過去のトラウマを、残酷なまでに呼び起こすものだったからだ。彼女はゆっくりと顔を上げ、その美しい翡翠色の瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、深い悲しみと、そして強い問いかけの色が浮かんでいた。「……私の、我々が生み出した技術が、再び、世に出る、と? それが、今度こそ本当に、世界のためになると、あなたは保証できるのですかな、ヨシツネ殿? 技術そのものに、善も悪もない。それはただの力です。使い方を誤れば、容易に大量破壊をもたらす、恐るべき凶器となる。私はかつて、それをこの目で見、そして絶望した。その責任を…もし、万が一にも、我々の技術が悪用され、再び悲劇が繰り返された場合、その責任を、アルカディアは、そして司令であるあなたは、真に負うことができるのですかな?」。彼女の声は静かだったが、その問いかけの重さは、会議室の空気を一瞬で圧迫した。


これらの、それぞれの立場からの真剣な懸念に対し、僕と、そしてこの社会実装戦略の実行責任者となる渉外部門リーダーのエリオットが、一つ一つ丁寧に、そして具体的に答えていった。

まず、白髪混じりの髪を七三にきっちりと分け、常に仕立ての良いスーツに見える特殊戦闘服を着こなすエリオットが、穏やかな、しかし説得力のある口調で口を開いた。「ライオス殿のご懸念、安全保障の観点から、まったくもって当然のことと拝察いたします。技術流出とその悪用リスクの管理は、この戦略における最重要課題の一つです。我々が提供するのは、完成品そのものではなく、あくまで基盤技術のライセンスです。そして、その提供レベルは、相手となる組織の信頼度や、申請された技術の用途に応じて、厳格に段階分けし、管理いたします。契約には、使用目的の厳格な制限、軍事転用や第三者への再提供の絶対禁止、そして我々による定期的な監査の受け入れ義務などを、法的な拘束力をもって盛り込みます。さらに、これはフィリア殿にご協力いただく必要がありますが、提供する技術には、万が一、契約違反や不正利用の兆候が発見された場合に、我々が遠隔でその機能を強制的に停止させることができる、技術的な安全装置キルスイッチを組み込むことを想定しております。リスクを完全にゼロにすることは不可能でしょう。しかし、これらの多層的な対策によって、リスクを許容可能なレベルにまでコントロールすることは可能だと、私は考えております」


次に、シルフィのやや投げやりな疑問に対し、エリオットは人の良い笑みを浮かべて答えた。「シルフィ殿、ご安心ください。技術ライセンスの価格設定、対象となる組織との交渉戦略の立案、複雑な契約書の作成と締結、そして導入後のフォローアップといった、いわゆる『ビジネス』に関わる実務は、全て我々、渉外部門『リンカー』が専門的に担当いたします。あなたには、これまで通り、その卓越した能力を、より重要度の高い、あなたにしかできない任務に集中していただきたい。もちろん、交渉に必要な相手方の裏情報収集などで、あなたの力をお借りすることは、今後多々あるかと存じますが」。彼の言葉に、シルフィは「ま、それなら別にいいけど」と小さく呟いた。


そして最後に、フィリアの最も重く、そして核心的な問いかけに、僕自身が、真摯な、そして共感に満ちた表情で語りかけた。「フィリア、君の懸念、そして過去の痛みは、僕なりに、痛いほど理解しているつもりだ。君の言う通り、技術そのものに善悪はない。それは力であり、使う者の意志によって、祝福にも、呪いにもなる。だからこそ、僕らは単に技術を提供するだけでは、絶対に不十分だと考えている。僕らは、技術が正しく使われるための仕組みそのものを、技術の提供と同時に、世界に創り上げていく必要があるんだ」

僕は、具体的な計画を、熱意を込めて説明し始めた。「まず、僕らが提供する全ての技術には、必ず明確な倫理規定と、透明性の高い運用ガイドラインを添付し、契約相手にその遵守を法的に義務付ける。次に、技術を実際に扱うことになる人材に対し、アルカディアが開発した教育プログラムを提供し、単なる技術スキルだけでなく、高い倫理観と社会的責任感を持つ人材を育成する。さらに、これが最も重要だが、アルカディア主導で、技術の標準化と倫理的な利用を推進するための、国際的で、政治的に中立な団体を設立する。この団体には、僕らアルカディアだけでなく、技術を利用する各国の政府、関連するギルド、企業、そして独立した研究者なども自由に参加できる、オープンなプラットフォームとする。そこで、技術の健全な発展のあり方や、安全かつ倫理的な利用に関する国際的なルール作りを、全ての関係者が参加して議論し、合意形成していくんだ。僕らが目指すのは、単なるアルカディア技術の普及ではない。技術を正しく使いこなし、その恩恵を最大化し、リスクを最小化できる、より賢明で、より成熟した社会を、技術と共に、世界全体で創り上げていくことだ。そのためには、フィリア、君の数百年にも及ぶ深い知識と経験、そして誰よりも技術に対する高い倫理観が、どうしても、どうしても必要なんだ。君には、その、仮称だが『プロメテウス・イニシアチブ』と名付けた標準化団体の、初代技術顧問として、僕らを、そして世界を、導いてほしい」


僕の言葉と、僕が提示した、技術提供だけでなく、倫理規定、人材育成、そしてオープンな標準化団体によるルール形成という、包括的で長期的なアプローチは、フィリアの心を強く、深く動かした。彼女は、目の前の青年が、技術の持つ輝かしい光と、それが落とす深い影の両方を、誰よりも深く理解し、その上で、技術を正しい方向へと導こうと本気で考え、具体的な行動を起こそうとしていることを感じ取った。そして、自分自身が、その重要なプロセスに主体的に関わることで、かつての過ちが繰り返されるのを防ぐための、重要な役割を果たせるかもしれない、と考えた。それは、彼女にとって、長年の罪悪感から解放され、再び未来へと歩き出すための、一条の光となるかもしれなかった。


「……わかりました。そこまで言うのなら、もう一度、信じてみましょう。技術の持つ可能性と、そして、あなたたちアルカディアの理念を」フィリアは深い息をつき、しかし、決意に満ちた、穏やかな表情で言った。「その『プロメテウス・イニシアチブ』とやらの技術顧問、謹んでお受けいたしますぞ。ただし、ゆめゆめ忘れないでいただきたい。妙な輩が我々の技術を悪用しようものなら、あるいは、万が一にも、あなたがた自身が当初の崇高な理念を忘れ、技術を私利私欲のために使おうとするようなことがあれば、このフィリアが、全霊をもって、それを阻止しますからな! その覚悟は、よろしいですな?」。彼女の翡翠色の瞳が、厳しく、しかし信頼を込めて僕を見据えた。

「ああ、もちろんだ。その時は、君の判断に、僕は従おう」僕は真剣な表情で、力強く頷いた。フィリアの決意に、セレスティアも安堵の表情を浮かべていた。


こうして、アルカディアの活動は、新たなる「社会実装フェーズ」へと、主要メンバー全員の合意の下、本格的に舵を切った。

エリオット率いる渉外部門『リンカー』は、その卓越した交渉力と情報網を駆使し、各国政府機関や有力なギルド、先進的な考えを持つ大企業などとの間で、水面下での接触と交渉を開始した。アルカディアが提示する技術の圧倒的な優位性と、導入による具体的なメリット、そしてエリオットの老獪かつ誠実な交渉術を前に、当初は警戒していた相手も、次第に強い関心を示し始めた。


特に、試験的にいくつかの地域で導入が始まった『サイレント・ウィスパー』の基盤技術を用いた新たな公共通信網は、目覚ましい効果を上げた。これまで情報から隔絶されていた辺境地域でも、首都とリアルタイムで安定した通信が可能となり、商業活動は活性化し、緊急時の情報伝達や救援活動も飛躍的に向上した。市場には、そのインフラを基盤とした、遠隔教育、遠隔医療、オンラインマーケットプレイスといった、新しいサービスやビジネスが次々と生まれ、人々の生活を豊かにし始めた。アルカディアは、ライセンス料やサービス利用料によって、安定した活動資金を得始めた。


「腐蝕の嘆き」で効果を発揮した環境浄化技術は、他の汚染地域にも応用され、多くの場所で、失われた自然環境と、そこに住む人々の健康状態の改善に、劇的な貢献を果たした。

そして、フィリアが中心となり設立された技術標準化団体『プロメテウス・イニシアチブ』には、予想を遥かに超えて多くの国や組織からの参加表明があった。フィリアは多忙な日々を送りながらも、生き生きとした表情でオンライン会議を主宰し、世界中から集まる若い技術者たちに、時に厳しく、しかし常に深い愛情のこもった指導にあたっていた。彼女の存在は、技術の健全な発展と普及における、倫理的な灯台のような役割を果たし始めていた。


アルカディアが生み出した技術は、僕らが意図した通り、徐々に、しかし確実に世界へと広がり始め、人々の生活や社会のあり方を、良い方向へと変え始めていた。それは、僕が目指す「世界のOS書き換え」の、確かな第一歩のように見えた。アルカディアは、もはや単なる影の問題解決組織ではなく、世界のインフラを支え、未来を創造していくための、不可欠な存在へと、その姿を変えつつあった。


しかし、光が強まれば、影もまた濃くなる。それは、世界の普遍的な法則だった。

アルカディアの急速な影響力拡大と、彼らがもたらす革新的な技術は、既存の権益を持つ旧来の勢力からの、強い警戒と、より組織化された激しい反発をも招き始めていた。

旧来の通信ギルドや、それと癒着する一部の貴族たちは、アルカディアの信用を失墜させるための、巧妙なネガティブキャンペーンを画策し始めた。環境汚染によって利益を得ていた悪徳な鉱山主や一部の産業界は、アルカディアの浄化技術の普及に公然と反対し、政治家への献金などを通じて、その導入を阻止しようとする政治的な圧力をかけ始めた。サボタージュのような直接的な妨害工作も各地で報告されるようになった。

そして、より深刻な懸念として、アルカディアが持つ高度な防御技術や、情報収集・分析能力は、各国の軍事バランスや諜報活動にも大きな影響を与えかねないため、いくつかの大国の情報機関が、アルカディアの実態、特にその拠点の正確な位置や、リーダーである僕の正体を探るべく、より積極的かつ巧妙な諜報活動を開始したという不穏な情報も、セレスティアの元には日々もたらされ始めていた。


アルカディアは、その活動を公の領域へと広げたことで、新たな、そしてより複雑で危険なステージへと、足を踏み入れたのだ。それは希望に満ちた道であると同時に、見えざる敵意や、予期せぬ副作用、そして組織内部への浸透工作といった、新たなリスクに満ちた、極めて危険な道でもあった。

僕らが創り出した技術という、あまりにも強大な「力」を、僕ら自身が正しくコントロールし、そして悪意ある者たちから守り抜けるのか。アルカディアの組織としての真価、そして僕のリーダーシップが、これから本格的に問われることになるだろう。アルカディア・ベースの上空には、今日も穏やかな空が広がっていたが、その水平線の向こうには、新たな、そしてより大きな嵐の兆候が、確かに見て取れた。世界を変えるという行為は、常に、それに対する強力な反作用を生むものなのだ。



【第7章 用語解説】

※ ライセンス: 特定の権利を持つ者が、他者に対して、その権利対象(技術など)の使用を許可すること。通常は対価が発生する。本作では、アルカディアが開発した魔導技術を外部組織に使用させる際の契約形態。


※ デファクトスタンダード: 公的な標準ではないが、市場での競争や普及の結果、事実上の標準となった技術や規格。本作では、アルカディアが自らの技術(通信システムなど)を広く普及させ、社会基盤となることで影響力を高めることを目指す状態。


※ キルスイッチ: 機械やシステムに組み込まれ、緊急時や不正利用時に遠隔操作などで強制的に機能を停止させる安全装置。本作では、アルカディアが外部提供技術に組み込む魔術的な安全装置で、悪用時に機能を停止できる。


※ プロメテウス・イニシアチブ: アルカディアが主導して設立を目指す、技術の標準化と倫理的利用を推進するための国際的な中立団体。ギリシャ神話で人類に火(技術)を与えたプロメテウスの名を冠す。


※ ネガティブキャンペーン: 特定の相手の評判を落とすために、意図的に否定的な情報や噂を流す活動。本作では、旧勢力がアルカディアの信用失墜を狙って行う組織的な妨害工作。


※ サボタージュ: 意図的に仕事や生産活動を妨害したり、設備を破壊したりする行為。本作では、アルカディア技術導入地域で、その効果を妨害するために行われる直接的な妨害工作。

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