第5章 オペレーション・リジェネシス
アルカディア・ベースは、忘れ去られた古代遺跡の奥深くで、静かに、しかし力強くその鼓動を開始した。情報センター『オラクル』は世界の隅々から膨大な情報を集積・解析し、研究開発ラボ『メイカー』からは革新的な技術の萌芽が次々と生まれ、訓練施設では実行部隊『ガーディアン』と『シーカー』の基礎訓練が着実に進んでいた。組織の骨格は固まり、神経網は繋がり、筋肉は鍛えられつつあった。僕と、僕と共にこの新たなシステムを設計してきたセレスティアは、アルカディアがその真価を、現実世界の問題解決を通じて試す時が来たと判断していた。それは、この世界に対するアルカディアの「宣戦布告」ではなく、むしろ、絶望に覆われた世界に対する「希望の提示」となるべきものだった。
それは、単なる武力による示威行為や、特定の脅威の排除だけを目的とするものではない。アルカディアが標榜する、情報分析に基づいた正確な現状認識、データに基づいた最適な戦略立案、各部門の専門性を最大限に活かした効率的な連携、計画の着実な実行、そして結果の客観的な評価とフィードバックによる継続的な改善――この一連のプロセス、すなわち「システムによる課題解決」のアプローチが、現実世界の複雑で困難な問題を本当に解決できるのかを証明するための、組織としての「初陣」であり、同時に重要な「実証実験」でもあった。失敗は許されない。この最初の成功が、アルカディアの未来を、そして僕らが世界に与える影響を、大きく左右するだろう。
僕たちが最初のターゲットとして選んだのは、王国南東部に位置し、長年紛争が続く隣国との国境に接する、広大な渓谷地帯。その土地は、いつしか『嘆きの谷』と呼ばれるようになっていた。その陰鬱な名は、この土地が、文字通り何世代にもわたって流し続けてきた血と涙に由来する。
谷の中央を流れる豊かな川の水利権と、地下に眠るとされる希少な鉱物資源を巡り、古くから王国と隣国との間で領有権争いが絶えず、両国の国境線はこの谷の中で複雑に入り組み、常に変動してきた。国と国との対立は、そこに住む住民たちの間にも深い溝を作り、度重なる衝突と報復の歴史は、もはや解きほぐすことのできない憎しみの連鎖を生んでいた。近年、両国の政治的関係が悪化するに伴い、国境線での武力衝突は頻度と規模を増し、大規模な戦争勃発の危機が常に囁かれる、大陸でも有数の危険地帯となっていた。
さらに悪いことに、長引く紛争による土地の疲弊と治安の極端な悪化に乗じるかのように、あるいは全く未知の要因によってか、この地域に古くから生息していたとされる、土着の魔物の活動が、近年、異常なまでに活発化していた。魔物はより凶暴化・巨大化し、時には未知の能力を持つ、明らかに自然界の法則から逸脱した変異種まで出現し、数を爆発的に増殖させ、国境を守る両国の警備隊だけでなく、武器を持たない一般市民にも甚大な被害を与えていた。畑は荒らされ、家々は焼かれ、人々は常に飢えと、いつ襲われるか分からない恐怖に晒されている。終わらない紛争と、増大する魔物の脅威、そしてそれらがもたらす深刻な貧困と疫病――嘆きの谷は、まさに現代世界が抱える複合的な問題が凝縮された、絶望的な場所だった。
王国も隣国も、互いへの深い不信感から、この地域の安定化に向けた有効な対策を打ち出すことができずにいた。むしろ、相手国の混乱に乗じて有利な状況を作り出そうとする、水面下での工作活動さえ行われているという噂もあった。冒険者ギルドへの依頼も、散発的な魔物討伐や物資輸送の護衛といった対症療法的なものが中心で、高ランクのパーティですら、この地域の複雑な状況と危険度の高さから任務達成に失敗したり、あるいは関わること自体を避けたりするケースが多かった。誰もが、この谷を、もはや救いようのない、見捨てられた場所だと考えていた。
だからこそ、アルカディアはこの地を選んだ。既存の組織では手出しできない、複雑で根深い問題。これこそ、アルカディアが存在意義を示し、全く新しい問題解決のパラダイムを世界に提示するための、格好の、そして極めて困難な「初陣」の舞台と言えた。
「――嘆きの谷。過去50年間で、王国と隣国間で記録に残っているだけでも少なくとも17回の公式な武力衝突が発生。非公式な小競り合いや、警備隊同士の偶発的な戦闘を含めれば、その数は数倍に上るでしょうね」
アルカディア・ベース地下深く、情報センター『オラクル』。壁一面を覆う巨大なホログラムディスプレイには、青白い光が満ちている。その中央で、セレスティアは『オラクル・アイ』から出力される膨大なデータを、高速で回転する複雑な立体グラフや相関図として表示させながら、冷静に報告を始めた。彼女の細い指が宙を舞い、立体表示された嘆きの谷の地図上に、過去の紛争履歴、現在の両国軍の配置、経済指標、気象データ、地脈魔力の変動、住民の移動パターン、さらには各都市の情報屋ギルドが収集した噂話や世論の集積データの分析結果などが、色分けされた光の点や線として次々とプロットされていく。その姿は、まるで複雑な宇宙の法則を読み解く預言者のようだった。
「特に興味深いのは、この地域における魔物の活性化パターンと、両国間の武力衝突の発生時期との間に見られる、極めて明確な統計的相関よ。見て、ヨシツネ」彼女は地図上のある特定のエリア、谷の北部にある険しい山岳地帯、特にいくつかの古代遺跡が点在するとされる場所を指し示した。「大規模な武力衝突が発生する数週間前から、このエリア…特にこれらの古代遺跡周辺の地脈魔力濃度が、異常なレベルで急上昇しているのが観測されているわ。そして衝突後、活性化し凶暴化した魔物が、まるで明確な意図を持つかのように、紛争で疲弊した村落や、王国側の補給路を集中的に襲撃しているケースが、統計的に有意なレベルで多いのよ。これは偶然とは考えにくいわ」
「偶然ではない、か。何者か、あるいは何かが、意図的に介入している可能性が高いと」僕は静かに頷いた。セレスティアの分析の鋭さと深さに、改めて感嘆すると同時に、彼女という存在を得られたことへの感謝の念が込み上げた。「君の分析は、いつもながら見事だよ、セレスティア」
「あ、ありがとう…」不意の称賛に、セレスティアは少し頬を赤らめ、眼鏡の位置を直した。「ええ。可能性はいくつか考えられるわ。一つは、紛争そのものが生み出す膨大な『負の感情エネルギー』…憎しみや恐怖、苦痛といったものが、古代遺跡に存在する何らかの未知のシステムを意図せず刺激し、地脈魔力を異常活性化させている可能性。古代の技術には、そういった精神エネルギーに感応するものも少なくないから。もう一つは、もっと直接的に…紛争当事国の一方、あるいは全く別の第三者が、古代の技術か何かを利用して、意図的に魔物を操っている、あるいは魔力の活性化を誘発している可能性。もし後者の場合、その目的は、領土紛争そのものを泥沼化させることか、谷に眠るとされる希少資源の独占か、あるいは両国を疲弊させ漁夫の利を得ることか…現時点では断定できないけれど、隣国の軍部の一部に、古代遺跡の技術を研究しているという未確認情報もあるわ」
「どちらの可能性が高いにせよ、僕らが取るべき戦略は根本的に変わってくるな」僕は思考を巡らせた。「単に目の前の魔物を討伐し、王国側の国境線を防衛するだけでは、全く不十分だ。それでは対症療法に過ぎず、問題は何度でも再発するだろう。紛争の根本原因となっているであろう水利権や資源の問題と、魔物活性化のメカニズム、その両方に同時に、かつ根本的にアプローチしなければ、この嘆きの谷に真の平和と安定が訪れることはないだろう。システム全体を、同時に修復する必要がある」
僕はセレスティアの分析に基づき、アルカディアとして取るべき介入戦略の骨子を設計し始めた。それは、短期的な脅威の排除と、中長期的な根本原因の解決を、同時並行で進めるという、野心的かつ極めて複雑な多層的プランだった。まさに、問題を個別の事象としてではなく、相互に関連し合う要素からなる「システム」として捉え、そのシステム全体に働きかけるアプローチだった。
「目標を設定しよう」僕はアルカディア・ベースの主要メンバーが集まる戦略会議で宣言した。参加者はセレスティア、ライオス、シルフィ、そして技術の要として迎えられたフィリア。そして、新たに行政や外交交渉を担当する渉外部門『リンカー』のリーダーに就任した、経験豊富な元外交官のエリオットも加わっていた。「作戦コードネームは『オペレーション・リジェネシス』。第一フェーズの期間は3ヶ月とする。達成すべき主要業績評価指標 KPIとして、①嘆きの谷における武力衝突発生件数を現状から80%削減、②魔物による住民被害の完全な撲滅、③避難民キャンプ等での疫病罹患率を50%低下、④谷の住民に対する生活満足度アンケート調査で、肯定的な回答が70%以上。これらを具体的な達成目標とする。セレスティア、これらのKPI達成度を客観的かつリアルタイムで測定・モニタリングするためのシステムを直ちに構築してくれ」
「了解したわ」セレスティアは即座に頷き、その紫色の瞳に強い決意を宿らせ、システムの詳細設計に取り掛かった。(ヨシツネが描く未来を実現するために、私の全てを捧げる…)「谷全体に展開する、環境データ及び魔力変動を常時監視する不可視センサーネットワーク。両国軍の主要通信の傍受とリアルタイム暗号解読システム。高解像度衛星画像による両軍及び魔物の動向分析。避難民キャンプでの定点的な聞き取り調査ネットワークの構築。そして、現地協力者からの定点報告システム…これら複数の情報ソースを統合し、状況をリアルタイムで可視化・分析する統合ダッシュボードを構築するわ。KPIの進捗も、これで一目瞭然になるはずよ」
戦略と目標が定まり、次はいよいよ実行フェーズだ。僕は、実行部隊のリーダーとなるライオスとシルフィ、そして技術開発部門の責任者となるフィリアに、具体的な役割分担と指示を与えた。部屋の中央には、嘆きの谷の立体地図と、オペレーション・リジェネシスの概要がホログラムで表示されている。
「ライオス、君には新たに編成するアルカディアの正規実行部隊、コードネーム『ガーディアン』を率いてもらう。主な任務は、嘆きの谷の王国側領域における防衛線の再構築、安全な避難民キャンプの設営と運営、そして混乱した地域における治安維持だ。君の持つ揺るぎない規律と卓越した指揮能力が、混沌とした現地に秩序をもたらすための鍵となるだろう。部隊の編成と訓練は君に一任する。ただし、留意してほしい。戦闘は必要最小限に留めること。可能な限り対話による解決を試み、何よりも住民の保護を最優先とせよ。僕たちの目的は征服や支配ではなく、あくまで地域の安定化と再生だ」
「承知した」ライオスは、その厳つい顔に、再び戦場に立つことへの決意を滲ませ、力強く頷いた。「規律こそが混沌を打ち破る力となる。住民の安全確保と秩序の回復、このライオス・ヴァンガード、必ずや達成してみせよう」彼の瞳には、かつての騎士としての誇りの光が確かに戻っていた。彼の持つ厳格さは、このような混沌とした状況においてこそ、人々を守る揺るぎない盾となるだろう。
「シルフィ、君にはその卓越した能力を最大限に活かしてもらうことになる」僕は次に、影の斥候へと視線を向けた。「君が率いる特殊部隊のコードネームは『シーカー』だ。まずは敵対する隣国の軍内部の動向、特に上層部の意思決定プロセスと、魔物活性化への関与の有無を探ってほしい。高度な潜入と情報収集能力が求められる。相手も警戒しているだろう、細心の注意を払ってくれ。同時に、セレスティアが特定した北部山岳地帯の古代遺跡への潜入調査を依頼する。そこに魔物活性化の原因となる何らかのシステムが存在する可能性が極めて高い。危険な任務になるだろう。さらに、状況に応じて、紛争和平交渉の鍵となりうる人物…例えば、隣国軍内の穏健派将校や、地域の有力者など…との秘密裏の接触も必要になるかもしれない。君の鋭い洞察力と、その場に応じた機転に期待しているよ。…くれぐれも、無理はしないでくれ」最後の言葉は、少しだけ個人的な響きを帯びてしまったかもしれない。
「りょーかい。なかなか面白そうな仕事じゃない」シルフィはいつものように軽やかな口調で答えたが、その大きな瞳の奥には、獲物を見つけた猫のような鋭い光が宿っていた。僕の最後の言葉に、彼女は少しだけ口元を緩めたようにも見えた。(心配してくれてる…? ま、せいぜい期待に応えてあげますか)「影の中から、隠された汚い真実ってやつを、根こそぎ引っ張り出してきてあげるわ。ま、あたしの邪魔さえしなけりゃね、そこの石頭で融通の利かない、お硬い騎士サマ?」彼女はわざとらしくライオスの方を見て挑発するように片目を瞑った。ライオスは苦虫を噛み潰したような顔で黙殺したが、二人の間には、反発し合いながらも互いを認め始めているような、奇妙なライバル意識のようなものが生まれ始めていた。
「そしてフィリア」僕は最後に、少し煤けたローブ姿のエルフの老技師に向き直った。「君にはアルカディア・ベースから、技術面での全面的なバックアップをお願いしたい。君が率いる技術開発チームのコードネームは『メイカー』だ。『サイレント・ウィスパー』による前線との確実な情報共有体制の維持、そして現地で必要となるであろう様々な技術や物資の開発・提供を頼む。例えば、汚染された水を安全に飲めるようにする簡易浄水フィルター、避難民のための簡易ながらも頑丈なシェルター、広範囲の魔力変動や魔物の接近を探知するセンサーネットワーク、そしてもし鉱物資源が紛争の根本原因であるならば、その埋蔵量を正確に測定し、両国が納得できる公平な分配案を提示するための、高度な資源探査技術などだ。現場からの要求に応じ、迅速かつ的確な開発と提供を頼むことになるだろう。君の創造力が、この作戦の成否を大きく左右するんだ」
「ふむ…なかなかやりがいのある、難しい課題ですな」フィリアは翡翠色の瞳を知的好奇心でキラキラと輝かせた。「よろしい。このフィリアの技術、存分に振るってみせましょうぞ。ちょうど、あの古代遺跡の魔力炉の解析も進展し、安定したエネルギー供給の目処も立ってきましたからな、応用も可能でしょう。簡易シェルターや浄水フィルターなら、既存技術の改良で数日で試作品ができますぞ。ただし! 無茶な納期と、質の悪い素材だけは、絶対に勘弁願いますぞ? それと、たまにはベースに、良質なエルフのワインの差し入れも期待しておりますぞ」彼女は悪戯っぽく笑って付け加えた。
「そして、僕自身は」僕は続けた。「全体の指揮を執り、各チーム間の連携を調整し、刻々と変化する状況に応じて戦略を柔軟に修正する。必要に応じて、僕自身の魔法による広域支援や、特に危険度の高い局面への直接介入も行う。だが、基本的には君たち自身の判断と能力を最大限に尊重し、この『アルカディア』というシステムが、自律的に機能することを重視する。これは、僕たちアルカディアの最初の、そして極めて重要な試金石となるだろう。僕たちの理念が、ただの理想論ではないことを、この任務で証明しよう。皆、頼んだよ」
作戦計画は全会一致で承認され、メンバーはそれぞれの任務遂行のための準備に直ちに取り掛かった。数日後、僕らはアルカディア・ベースから、フィリアがこの任務のために急遽開発した、最新鋭の小型高速ステルス輸送艇『ステラ・ホッパー』に乗り込み、レーダーにも魔力探知にもかからず、誰にも気づかれることなく、絶望の地「嘆きの谷」へと展開した。アルカディアの、世界に対する最初の介入が、こうして静かに始まった。
現地での活動は、まさにアルカディアというシステムの総合力が試されるものとなった。それは、かつての僕のような、一人の傑出した英雄の個人的な活躍に依存するものではない。情報、戦略、実行、技術、そしてそれらを繋ぐ連携という、全ての要素が精密な歯車のように噛み合った時に初めて発揮される、組織としての力だった。
情報センター『オラクル』では、セレスティアが『オラクル・アイ』を駆使し、嘆きの谷全体に展開されたセンサーネットワークや、シルフィの『シーカー』チームから『サイレント・ウィスパー』を通じて送られてくる膨大な情報をリアルタイムで統合・分析していた。彼女は、北部山岳地帯の古代遺跡内部に存在する、紛争時の負の感情エネルギーを触媒として地脈魔力を異常増幅させ、魔物を凶暴化させる装置…『憎悪の増幅炉』と仮称されたそれ…の存在を確信し、その構造と弱点に関する核心的な仮説を導き出した。さらに、傍受した隣国軍の暗号通信を解読し、軍内部の一部に現在の好戦的な指導部に不満を持ち、停戦を模索している穏健派閥が存在する重要な情報を掴んだ。これらの情報は即座に関係各部門に共有された。(ヨシツネ、皆…どうか無事で…)彼女はモニターの向こうの仲間の無事を祈りながら、自らの分析に全神経を集中させた。
その情報を受け、シルフィ率いる『シーカー』は、月のない夜の闇に紛れて古代遺跡への潜入を敢行した。フィリアがこの任務のために特別に開発した光学迷彩マントと対魔術探知ジャマー、そしてシルフィ自身の神業的な潜入スキルによって、遺跡に張り巡らされた古代の防御トラップや、配置されていた強力な魔物による警戒網を突破した。遺跡の最深部で、彼女たちはセレスティアが予測した通りの『憎悪の増幅炉』を発見し、その制御システムに関する貴重なデータを回収することに成功した。このデータは、後にフィリアが遠隔で装置を無力化する上で決定的な役割を果たすことになる。同時に、シルフィは別のチームを指揮し、隣国の穏健派将校との極秘接触に成功。危険な駆け引きの末、停戦交渉に向けた最初の糸口を掴んだ。「ふぅ、危なかったけど、まあ、こんなもんね。あとは交渉役にお任せ、っと」彼女は通信機越しに軽い口調で報告したが、その声には確かな達成感が滲んでいた。(ヨシツネの期待には、応えられた…かな?)
一方、谷の王国側領域では、ライオス率いる『ガーディアン』が、フィリアが迅速に開発・提供した、設置が容易で強度も高い簡易防御壁と、広範囲をカバーする対魔物センサーを効果的に活用し、効率的かつ堅牢な防衛ラインを構築していた。彼らは避難民を安全な場所へと誘導し、フィリアが設計した耐久性と居住性に優れた簡易シェルターや、安全な水を確保するための高性能浄水装置を設置したキャンプを設営・運営した。ライオス自身が率先してインフラ整備を行い、厳格でありながらも公正な態度でキャンプ内の秩序を維持し、時には配給の食料を自ら子供たちに分け与える姿は、当初アルカディアを警戒していた住民たちの心を徐々に解きほぐし、深い信頼を勝ち取っていった。「我々は住民を守るために来た。規律と信頼こそが、この谷に希望を取り戻す礎となる」彼の言葉には、揺るぎない信念が込められていた。また、この活動と並行して、フィリアが遠隔操作する高性能な資源探査ドローンにより、これまで知られていなかった国境線上に、新たな、そして極めて大規模な希少鉱脈が存在することが判明した。これは、後の和平交渉において、極めて重要な切り札となる発見だった。
そして、アルカディア・ベースのラボでは、フィリア率いる『メイカー』チームが、前線からの絶え間ない要求に応え、高性能な浄水フィルター、長期保存可能な高栄養価のレーション、奇病に対する特効薬のプロトタイプ、より探知範囲と精度を高めた新型センサー、そして例の資源探査ドローンなどを、驚異的なスピードで開発・改良し、輸送艇『ステラ・ホッパー』で前線へと送り届け続けた。時には現場の要求があまりに急で、「無茶を言いますな! こちらとて魔法使いではないのですぞ! …と言いたいところですが、まあ、やってみましょう!」とフィリアが徹夜で開発に取り組むこともあった。『憎悪の増幅炉』を遠隔から無力化するための、特殊な干渉波を発生させる装置のプロトタイプ開発にも着手し、前線の活動を強力に技術面から支え続けた。
そして僕自身は、アルカディア・ベースの戦略司令室から、『サイレント・ウィスパー』を通じて、谷全体の状況をリアルタイムで把握し、各チーム間の情報共有と連携を最適化し、状況の変化に応じた的確な指示と情報を提供し続けた。僕はセレスティアと共に最新の状況を分析し、戦略を微調整し、フィリアに技術的なアドバイスを与え、ライオスとシルフィの活動を支援した。『憎悪の増幅炉』を完全に停止させるためには、極めて精密な制御が要求される、僕自身による遠隔での封印術式が必要だった。また、シルフィが掴んだ糸口を元に進められた停戦交渉が、両国の強硬派の妨害によって暗礁に乗り上げかけた際には、僕が匿名性を保ったまま、特殊な通信魔法を用いて両国の穏健派代表者との秘密会談を設定。そこで新たに発見された鉱脈情報と、アルカディアが提供できる公平な共同採掘技術、そして復興支援のための先進技術を提示することで、和平合意への具体的な道筋をつけた。
作戦開始から、三ヶ月後。
アルカディアが当初設定したKPIは、驚くべきことに、ほぼ全てが目標値を達成、あるいはそれを上回る結果となっていた。嘆きの谷における武力衝突は完全に沈静化し、両国間で和平協定の締結に向けた正式な交渉が開始された。あれほど猛威を振るっていた魔物による住民被害はゼロとなり、魔物の活動レベルも、かつての平常値にまで戻っていた。避難民キャンプでの疫病も効果的な医療支援によって抑制され、衛生状態は劇的に改善された。そして、実施されたアンケート調査では、谷の住民たちの生活満足度は目標を大きく超え、「未来に希望が持てるようになった」「もう憎しみ合うのは終わりにしてほしい」といった声が多く聞かれた。
何よりも重要だったのは、この目覚ましい成果が、特定の傑出した英雄の活躍によるものではなく、情報分析、戦略立案、役割分担、現場での実行、技術支援、そしてそれらを繋ぐ連携という、アルカディアという「システム」全体によってもたらされたという事実だった。メンバー一人ひとりが、自分の役割が全体の成功にどのように貢献したのかを具体的に実感し、組織『アルカディア』への誇りと、共に戦った仲間への深い信頼を、この初陣を通じて確かなものとしていた。
任務完了後、ベースに戻ったメンバーたちは、セレスティアがまとめた詳細な活動報告とKPI達成度評価レポートを基に、徹底的なレビュー会議を行った。成功した点、上手くいかなかった点、そして次に活かすべき課題点が、役職に関係なく忌憚なく議論され、組織全体の貴重な知識ベースとして蓄積された。失敗は非難されるのではなく、組織が学習し進化するための重要なデータとして扱われた。
ライオスとシルフィも、この困難な共同作業を通じて、互いの能力と、組織における役割の重要性を深く理解し、一定の敬意を払うようになっていた。口では相変わらず憎まれ口を叩き合ってはいたが、その視線には、以前にはなかった信頼に近いものが、確かに感じられた。「まあ、たまにはやるじゃない、石頭爺さん」「貴様こそ、少しは見直したぞ、影ネズミ」そんな言葉が交わされるようにもなっていた。フィリアは、現地から持ち帰った膨大な実地データと、住民からの感謝の声に目を輝かせ、「ふむ、次はもっと効率的で、環境負荷の少ない浄化システムを開発せねばなりませぬな! 研究課題は尽きませぬぞ!」と、さらなる技術開発への意欲を燃やしているようだった。
アルカディアの初陣、『オペレーション・リジェネシス』は、大成功裏に終わった。それは、単に一つの紛争地域の鎮静化に成功したということに留まらず、僕らが目指す『システムによる課題解決』という、全く新しいアプローチの有効性を、僕ら自身、そして間接的にではあるが世界に示す、極めて重要な第一歩となったのだ。
僕は、メンバーたちの確かな成長と、自らが設計した組織が、様々な困難や試行錯誤を経ながらも、有機的に機能し始めている確かな手応えを感じながら、次なる挑戦…より大きな、より複雑な世界のシステムへと、その静かな視線を向けていた。アルカディアという名の、まだ誰も見たことのない新しい星座は、今、その最初の輝きを、力強く放ち始めた。僕らの物語は、まだ序章に過ぎなかった。
【第5章 用語解説】
※ KPI(Key Performance Indicator): 主要業績評価指標。組織やプロジェクトが目標達成度を測るために設定する具体的な数値目標で、進捗管理や成果測定に用いられる。本作では、アルカディアが作戦の成果を客観的に測る指標として活用し、武力衝突の削減率や住民の満足度などを具体的な目標値として設定した。
※ センサーネットワーク: 広範囲に配置された多数のセンサー(温度、魔力、動きなどを感知する装置)を通信網で繋ぎ、情報を集約・分析するシステム。環境監視や防災などに用いられる。本作では、アルカディアがこの技術を応用し、嘆きの谷などの状況をリアルタイムで把握するために、魔力や環境データを測定する不可視の魔術センサー網を『サイレント・ウィスパー』で接続して運用している。