第3章 鋼の両翼
セレスティアという類稀なる「頭脳」を得て、組織『アルカディア』の構想は、具体的な設計図へと形を成り始めていた。未来を読み解き、最適な戦略を描き出す羅針盤は手に入れた。だが、どれほど優れた海図と羅針盤があったとしても、嵐の海を切り裂き、目的地へと確実に船を進める強靭な「帆」と「舵」、そしてそれを操る熟練の「船乗り」がいなければ、全ては机上の空論に過ぎない。僕は、セレスティアとの間で活動拠点の候補地調査と並行して、計画を実行するための最初の「実行部隊」のリーダー候補を探し始めていた。
僕が求めるのは、単なる戦闘能力の高さではない。それだけなら、ギルドには腕自慢が掃いて捨てるほどいる。僕が必要としていたのは、アルカディアが掲げる理念――世界の非効率と理不尽を最適化し、持続可能な進歩を創出する――を深く理解し、心から共感できること。予測不能な困難な状況下でも冷静に状況を判断し、与えられた任務を確実に遂行できる強靭な精神力。そして、これから集うであろう多様なメンバーをまとめ、導くための統率力。何よりも、この歪んだ世界を本気で変えたいと願う、燃えるような強い意志。アルカディアという、まだ見ぬ理想の剣であり、そして揺るがぬ盾となる存在。
僕の情報網が、その厳しい条件に合致する可能性のある、二人の、あまりにも対照的な人物の影を捉えていた。一方は光の世界で正義を貫こうとして挫折し、もう一方は影の世界で生きる術を身につけた。一方は秩序と規律を重んじ、もう一方は自由と柔軟性を尊ぶ。静と動、剛と柔。まるで正反対の二人。しかし、その両極端な性質こそが、アルカディアの実行部隊に、強靭さと柔軟性という、変化の激しい世界で生き残り、勝利するために不可欠な「両翼」を与えるのではないか、と僕は考えた。硬い鋼の骨格と、それを覆うしなやかな筋肉のように。
一人は、ライオス・ヴァンガード。かつて王国騎士団で「獅子」と称され、将来を嘱望された誉れ高き騎士だったが、組織内部の不正を告発したために全てを失い、今は辺境の鉱山の村で日雇いの用心棒として燻っている男。揺るがぬ『剛』の象徴。
もう一人は、シルフィ。王都アヴァロンの裏社会で、その名は半ば伝説のように囁かれる女性斥候。神業的な隠密技術と情報収集能力を持つが、特定の組織に属さず、気紛れと報酬によってのみ動く。捉えどころのない『柔』の体現者。
僕は、この二つの異なる、しかしどちらも極めて強力な才能を、アルカディアの両翼とすべく、それぞれに接触を試みることを決断した。まずは、組織の揺るがぬ『鋼の背骨』となるべき、『剛』の翼から。
――――――――――
僕が最初に目指したのは、王国東部の山岳地帯にある古い鉱山の村、ザルツブルグ。かつての活気は失われ、吹き抜ける風さえもが寂れた空気を運んでくるようだった。ライオスは、時折出没するゴブリンや野盗から村を守る用心棒として、わずかな報酬で雇われているという。かつての栄光を知る者が見れば、その零落ぶりに胸を痛めるだろう。
村に唯一存在する安酒場を訪れると、店内は薄暗く、閑散としていた。その隅のテーブルで、一人の大柄な男が、黙々とエールを呷っていた。陽に焼け、深く刻まれた皺。短く刈り込まれた灰色の髪。だが、その背筋は真っ直ぐ伸び、歴戦の戦士だけが持つ隙のない雰囲気を漂わせている。擦り切れた革鎧と、腰には年代物の長剣。彼こそがライオス。その灰色の瞳には、深い疲労と世の中への諦めが浮かんでいるように見えた。だが、その奥には、どれほど打ちのめされても消えないであろう、騎士としての誇りの光が、まだ静かに揺らめいているのを僕は感じた。
僕は静かに彼のテーブルに近づき、無言で向かいの席に腰を下ろした。
「ライオス殿、とお見受けします。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
ライオスはゆっくりと顔を上げ、怪訝そうな、そして少し面倒くさそうな目で僕を見た。見慣れない、場違いなほど整った顔立ちの青年。その落ち着き払った態度と、全てを見透かすかのような瞳に、彼はわずかな警戒心を覚えたようだ。
「……あんたは? 見かけない顔だな。ギルドの者か? それとも、貴族のお坊ちゃんか? …まさかとは思うが、昔の俺を知る…騎士団の追手、というわけでもあるまいな?」
彼の声は低く掠れ、言葉の端々には、自分自身を嘲るかのような苦い響きが混じっていた。
「そのいずれでもないですよ」僕は穏やかに答えた。「僕は、あなたの力を必要としている者です。ライオス・ヴァンガード殿」
僕は、彼が捨て去ったはずの姓を、あえて口にした。
「俺の力、だと?」ライオスは、自嘲気味に鼻で笑った。「今の俺に、何の力があるというのだ。ただの老いぼれだぞ。ヴァンガードなどという姓は、とうの昔に捨てた」彼はエールを呷った。その瞳の奥に、失ったものへの痛みがまだ燻っているように見えた。
「そうは思いません」僕の声は静かだったが、確信を込めて言った。「僕はあなたの過去を知っています。王国騎士団での武功、部下からの信頼、そして、あなたがなぜ地位を追われたのかも。あなたは、王国中央軍務局の不正を、己の全てを顧みずに告発した。その結果、不当な軍法会議で断罪され、名誉を剥奪された。違いますか?」
ライオスの表情が変わった。驚きと、強い警戒の色。ジョッキを持つ手が止まった。その事件の真相は、闇に葬られたはずだった。僕がそれを知っていることに、彼は動揺しているようだった。
「……どこで、それを……。一体、あんたは何者なんだ…?」ライオスの声が、わずかに震えた。長年封印してきた記憶が、呼び覚まされたのかもしれない。
「情報は時に歪められます。でも、真実は必ず痕跡を残す。そして、僕はそれを見つけ出す術を知っているんです」僕は続けた。僕の瞳は、彼が守ろうとした正義と、失ったものの全てを射抜くように、真っ直ぐだった。「あなたは、己の全てを懸けて正義を貫こうとした。その高潔な精神と、不正を許さない鋼の意志、卓越した指揮能力と育成手腕、そして規律を重んじるその姿勢。それこそが、僕があなたに求める『力』なんです。錆びついてなどいない、本物の力ですよ」
ライオスは黙って僕の言葉を聞いていた。その言葉一つ一つが、彼の心の奥底で凍りついていた何か――忘れかけた誇り、踏みにじられた正義への渇望、深い無力感と諦念――を、ゆっくりと溶かしていくようだった。誰にも理解されず、忘れ去られた自分が、今、目の前の青年に、その行動の真意を理解され、評価されている。その事実に、彼の心は激しく揺さぶられているように見えた。忘れかけていた熱いものが、胸の奥から込み上げてきているのかもしれない。だが同時に、その目には、一度理想に裏切られた経験から来るであろう、深い疑念の色もまだ消えてはいなかった。
「……それで、あんたは、一体何がしたい? 俺に、この老いぼれに、何をさせようというのだ? 俺を陥れた、あの腐った権力者どもへの復讐の手伝いか? それとも、どこかの貴族の私兵にでもなれと、そう言うのか? もう、誰かに利用されるのは、ごめんだ。理想を語る奴ほど、信用ならん」
ライオスの声には、まだ深い疑念と不信の色が濃く残っていた。彼は、僕の落ち着き払った態度と、その瞳の奥にある何かを測りかねているのか、警戒心を隠そうとしない様子だった。
「復讐ではありません。そして、特定の誰かに仕えるのでもない」僕は静かに首を振った。「僕は、この世界そのものを覆う『不正』と『理不尽』に、組織的に立ち向かうための、全く新しい形の組織を創ろうとしているんです。既存の国家やギルドといった枠組みを超え、真の効率性と公正さをもって、世界の諸問題を根本から解決するためのシステムです。その組織…『アルカディア』において、僕はあなたに、実行部隊の柱の一つとして、その比類なき経験と揺るぎない規律をもって、組織の『鋼の背骨』となることを、心からお願いしたいのです」
僕は、アルカディアの理念と、僕が構想する組織構造の概要を、簡潔に、しかし情熱を込めて語った。セレスティアのような分析者が戦略を練り、ライオスのような実行力と規律を持つ者がそれを確実に遂行する。それぞれの専門性を最大限に活かし、有機的に連携することで、既存の組織では解決できなかった複雑な問題に取り組むのだ、と。
「……馬鹿げた話だ」ライオスは残っていたエールを一気に飲み干し、空になったジョッキを、ドン、と音を立ててテーブルに叩きつけた。「理想論も大概にしろ。若造の見る、甘い夢物語か。世界を変える、だと? そんな大それたことが、どこの馬の骨とも知れん、あんたのような若造が作った、まだ影も形もないような組織に、できるものか。結局は、どこかの権力者に利用されるか、夢破れて無残に消えるだけだ。俺は、そういう綺麗事を並べる輩を、この目で嫌というほど見てきた。そして、その度に裏切られてきたんだ。正義など、力の前では無力だということを、骨身にしみて知っている」
彼は、僕の自信に満ちた態度に、むしろ反発を覚えているようだった。この若者は、本当の絶望を知らないのではないか?と疑っているのかもしれない。
「そうかもしれません。成功する保証など、どこにもない。失敗する可能性の方が、おそらくはるかに高いでしょう」僕は、彼の疑念と諦念を真正面から受け止め、率直に認めた。「でも、それでも僕は挑戦したいんです。このまま世界が、緩やかに、しかし確実に破滅へと向かうのを、ただ座して見ていることはできない。たとえ僅かな可能性であっても、より良い未来を創るための努力を、僕は決して放棄したくない」
僕はライオスの、諦めと不信に濁った瞳を、真っ直ぐに見据えた。僕の瞳には、若さゆえの理想論だけではない、何か底知れない覚悟のようなものが宿っていたはずだ。
「ライオス殿。あなたはこのまま、この忘れられた村で、ゴブリン相手に錆びついた剣を振り続けるだけで、本当に満足なんですか? あなたがかつて、その全てを懸けて守ろうとした『正義』は、この世界のどこにも存在しないのだと、本当に諦めてしまったんですか? あなたのその剣は、その魂は、まだ、もっと大きなもののために振るわれるべきではないでしょうか? あなたが信じた理想を、もう一度、この手で形にしてみようとは思いませんか?」
僕の言葉は、ライオスの心の最も深い部分、彼自身も固く蓋をして、見ないようにしてきた傷口を、容赦なく抉ったようだった。彼の表情がわずかに揺らいだ。諦めたつもりだったのかもしれない。しかし、心の奥底では、まだ何かが燻っていたのだろう。このまま朽ち果てていくことへの、消せない憤り。そして、かつて信じた正義への、未練が。だが、同時に、目の前の僕の、底知れない力と、人間離れした思考についていけるのだろうか、という不安も感じているように見えた。
「……あんたの言う、その『アルカディア』とかいう組織は、本当に、俺がかつて信じたような『正義』を実現できるというのか? 権力に阿らず、私利私欲に走らず、真に公正な規律の下で、動ける組織だと、本気で言うのか? 言葉だけなら、何とでも言える。あんた自身は、その理想を、本当に信じているのか? その、人間離れしたように見える、あんた自身が?」
ライオスの声に、わずかに、期待とも疑念ともつかない、複雑な響きが混じり始めていた。眠っていた獅子が、目を覚ましかけているようだった。
「それを、現時点で完全に保証することはできません。未来は常に不確実なものですから」僕は再び率直に答えた。「でも、僕はそのためのシステムを設計し、そして運用するつもりです。透明性の高い情報公開、明確な権限と責任の所在、厳格な規律の遵守、そして何よりも、メンバー一人ひとりの高い倫理観と、互いへの深い相互信頼。それらを基盤とした組織を、僕は目指しています。そして、その組織の根幹となる『規律』を体現し、組織全体の揺るぎない模範となる存在として、あなたが必要なんです、ライオス殿。僕自身が完璧ではないからこそ、あなたのような存在が、この組織には必要なのです」
僕は、僕が構想する実行部隊の指揮系統と運用ルールの草案を具体的に説明した。それは、ライオスがかつて騎士団で理想とし、しかし実現できなかった、極めて合理的で、公正さに貫かれた組織の姿に近かったはずだ。僕は、彼の理想を理解していること、そして自身の不完全さを認め、彼の力を必要としていることを、明確に言葉にした。
ライオスは、長い、重い沈黙の後、ゆっくりと、しかし決然と立ち上がった。彼の大きな体が、まるで埃を払い落とすかのように、再び、かつて騎士であった頃の威厳と力強さを取り戻したかのように見えた。瞳に宿っていた諦めの色は消え去り、代わりに、新たな、厳しい決意の光が灯り始めていた。彼は、酒場の薄暗い天井を一度見上げ、深く息を吸い込んだ。この青年の正体はまだ分からない。真意も測りかねる。だが、彼の語る理想と、自分を必要とする言葉には、嘘がないように思えた。そして何より、このまま朽ち果てるよりも、もう一度だけ、自分の信じるもののために剣を振るう機会に賭けてみたい、という思いが、彼の心を強く捉えているようだった。
「……分かった。あんたのその、馬鹿げた夢物語、信じてみよう。この老いぼれの、錆びついた剣が、まだ何かの、誰かの役に立つというのなら、あんたの言う『アルカディア』とやらに、この身を捧げてみよう。ただし」
彼は鋭い、猛禽のような視線で僕を射抜き、低い、しかし明瞭な声で付け加えた。
「一つだけ、条件がある。もし、万が一にも、あんたの組織が、俺がかつて見たような腐敗や不正に染まるようなことがあれば、あるいは、あんた自身がその理想を忘れ、道を誤るようなことがあれば、その時は、この俺が、容赦なく、この剣であんたを斬る。あんたがどんなに強かろうと、だ。その覚悟は、あるか?」
「無論です」僕は静かに、そして即座に頷いた。その瞳には微塵の揺らぎもなかった。「その時は、君の剣を甘んじて受けよう。それが、僕の責任の取り方だ」
二人の間に、言葉はなくとも、硬い、鋼のような誓いが交わされた。かつての理想に破れ、全てを諦めかけていた老騎士は、再び正義の剣を取る決意を固め、アルカディアの『鋼の背骨』となることを承諾した。彼の心に、再び小さな、しかし確かな火が灯った瞬間だった。彼の魂は、まだ死んではいなかった。
――――――――――
ライオスという、揺るぎない「規律」の柱を得る目処を立てた僕が、次なる翼…変幻自在の「柔軟性」の象徴を求めて向かったのは、再び、王都アヴァロン。ただし、今度の目的地は、光り輝く官庁街や貴族街ではなく、その影が支配する領域――裏社会の情報屋や無法者たちが集まる、暗く湿った地下街の一角だった。僕が探すのは、シルフィという名の女性斥候。その名は、裏社会では半ば伝説のように囁かれていた。どんな厳重な警備下の情報でも手に入れ、どんな難攻不落の場所へも忍び込み、そして決して痕跡を残さない。その素性や過去を知る者はほとんどおらず、特定の組織に属さず、ただ気紛れと法外な報酬によってのみ動くと噂されていた。アルカディアにとって、彼女は諸刃の剣となる可能性もあったが、その常識に囚われない柔軟性と圧倒的な能力は、ライオスとは別の意味で、組織に不可欠な要素だと僕は判断していた。影を知る者だけが、光の届かない場所にある真実を見つけ出すことができる。
僕は、セレスティアが割り出した、シルフィが次に現れる可能性が極めて高い場所と時間を特定していた。それは、新月の夜、古い運河沿いに打ち捨てられた、広大な廃倉庫街の一角。かつての活気は失われ、今は崩れかけたレンガの壁と、割れた窓ガラス、そして忘れられた者たちの気配だけが漂う、寂寥とした場所となっていた。犯罪者たちの格好の隠れ家であり、裏取引の場ともなっているという。
予測通り、その夜、廃倉庫群の中でもひときわ高い、時計塔の残骸のような建物の屋根の上を、まるで重力など存在しないかのように、猫のようにしなやかに、全く音もなく移動する人影があった。新月の頼りない星明かりだけを背に、そのシルエットは驚くほど軽やかで、夜の闇に完全に溶け込んでいる。腰まで届く長い銀色の髪が、夜風に静かに揺れているのが、辛うじて見て取れた。身に纏うのは、闇に紛れるための特殊素材で作られた黒の軽装鎧。顔の下半分は黒い布製のマスクで覆われているが、そこから覗く大きな瞳は、闇の中でも全てを見通すかのように鋭く、そしてどこか、この状況を楽しんでいるかのように、楽しげに下の暗闇を観察していた。彼女が、シルフィ。影の世界に生きる、孤高の伝説。
僕が物陰に身を潜め、慎重に気配を探ろうとした、まさにその瞬間。声が、まるで闇そのものから響くかのように、僕の頭上から降ってきた。それは、鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかさも含む、若い女性の声だった。
「――そこにいるのは、とっくに分かっているわよ。随分と物好きな気配ねぇ。あたしに何か御用かしら? ただの見物なら、悪いけど、さっさと消えてくれない? 今、ちょっと忙しいの。下らない害虫駆除の真っ最中だから」
声と同時に、僕の足元近くの地面に、どこから投げられたのか、人間のものとは思えない、醜く歪んだ魔物の腕のようなものが、音もなく転がってきた。まだ微かに動いている。
「さすがだな、シルフィ。噂に違わぬ、その感知能力と、仕事の速さだ」
僕は感心したように呟き、物陰からゆっくりと姿を現し、彼女がいるであろう屋根の上を見上げた。
「あらあら、これはこれは。噂のSランク様、ヨシツネさんじゃない。こんな掃き溜めみたいな場所に、一体、何の御用かしら? まさか、あたしみたいな影のネズミを捕まえに来たわけでもなさそうだし…ひょっとして、何か『裏』のお仕事の依頼? それなら大歓迎だけど。ただし、お代は高いわよ?」
シルフィはいつの間にか、時計塔の屋根の縁に、まるでブランコにでも乗るかのように軽々と腰掛け、長い脚をぶらつかせながら、楽しそうに僕を見下ろしていた。闇の中でも、その瞳が強い好奇心に輝いているように見えた。僕の持つ力と、その静かな佇まいに、何か興味を引かれたのかもしれない。(この男、他の奴らとは、何かが違う…?)そんな気配を彼女は感じ取っていた。
「ある意味では依頼、と言えるかもしれないな」僕は落ち着いた声で答えた。「君の力を借りたい。いや、正確に言えば、君という存在そのものが、僕たちには必要なんだ」
「あたしの力? ふーん、面白そうなこと言ってくれるじゃない。でもね、先に言っておくけど、あたしは高いわよ? そこらのギルドの依頼料とは桁が違うんだから。それに、退屈な仕事はお断り。命令されるのも大嫌い。何より、気分が乗らなきゃ、どんな大金を積まれたって動かない主義なの。知ってるでしょ? あんたほどの情報通なら」
シルフィは悪戯っぽく笑い、風に揺れる銀髪の毛先を指で弄んだ。その軽薄に見える態度の裏には、誰にも縛られずに生きてきた者特有の、強い警戒心とプライドが隠されているように感じられた。
「報酬は、君が望むものを、可能な限り用意しよう。金銭か、情報か、あるいは君が求める別の何かか。そして、君を退屈させることはないと、約束するよ」
僕は彼女の、闇の中でも鋭く光る瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「君の持つ、その比類なき隠密行動能力、あらゆる情報を引き出す収集・分析能力、そして何よりも、既存の常識や固定観念に囚われず、常に最適解を見つけ出すその柔軟な判断力と、危機的状況における生存能力。それらは、僕が創ろうとしている、新しい組織にとって、絶対に不可欠なものなんだ」
「組織? あたしが?」シルフィは、声を上げてクスクスと笑った。「冗談きついわ、ヨシツネさん。あたしが、どれだけ組織ってもんが、虫唾が走るほど嫌いか、知ってて言ってるの? 命令されるのも、規則で縛られるのも、真っ平ごめんよ。あたしにとって一番大事なのは、自由! 誰にも指図されず、好きな時に、好きなことをする。それが一番なの。そのためなら、なんだってするわ。あんたみたいな、いかにも頭が良さそうで、何でも計画通りに進めたいタイプの人とは、絶対合わないと思うけど?」
彼女の言葉には、過去の経験からくる、組織への強い不信と拒絶が込められているようだった。
「知っているよ」僕の声は静かだった。だが、その言葉には重みがあった。「君が、かつて『夜想曲』と呼ばれた、ある暗殺ギルドで、どのような経験をしてきたかも、おおよそは把握しているつもりだ」
その言葉が出た瞬間、シルフィの笑顔が一瞬にして消え、彼女の瞳に鋭い、氷のような光が宿った。マスクの下の表情は窺えないが、彼女が纏う空気が、一瞬で凍りつくように変わったのが分かった。周囲の闇が、さらに深くなったように感じられた。彼女は反射的に、腰に隠し持った短剣の柄に手をかけた。
「……どこまで、知ってるの? あんた、あたしの過去を嗅ぎまわってたってわけ?」
彼女の声は低く、冷たく、そして底知れない怒りのような、そして深い悲しみのような響きを帯びていた。
「君がまだ幼い頃に、そのギルドに拾われ、あるいは攫われ、感情を抑制され、ただの道具として育てられたこと。数えきれないほどの汚い『任務』を、意思とは関係なく強制されてきたこと。そして、そこから自らの力だけで抜け出し、血反吐を吐くような思いをして、ようやく、誰にも縛られない『自由』を手に入れたこと。違うかな?」
僕は、彼女の過去の傷に触れることを避けなかった。むしろ、それを理解していることを示すことで、彼女の心の壁を崩そうとしていた。僕の瞳には、憐れみも、好奇心もない。ただ、静かな理解と、何かを見定めようとするような、深い光があるだけだと、彼女にも伝わっただろうか。
シルフィは黙っていた。唇を強く噛み締めているのが、マスク越しにも分かった。僕の言葉は、彼女が誰にも語ったことのない、心の最も深い場所に封印してきた暗い過去の核心を、正確に、そして容赦なく突いていたようだった。なぜ、この男は、そこまで知っているのか? そして、なぜ、そんな目で自分を見るのか?
「だからこそ、君を型にはめたり、命令で縛り付けるつもりは毛頭ないんだ」僕は続けた。僕の声には、同情ではなく、彼女の経験への深い理解と敬意が込められていた。「僕が創る組織『アルカディア』では、君に最大限の裁量権と自由を与えることを約束しよう。君自身の判断で動き、君自身のやり方で情報を集め、必要だと判断したならば、組織の承認を待たずに独自の行動を取ることも許可する。僕が君に求めるのは、上司と部下のような、支配と服従の関係ではない。対等なパートナーとしての、協力なんだ」
僕は、アルカディアにおける情報部門と実行部隊の連携、そして斥候部隊の役割と、その極めて柔軟で自律的な運用構想を、具体的に語った。それは、既存のいかなる組織の枠にも収まらない彼女の才能を殺さず、むしろ最大限に活かすための、彼女のためだけにオーダーメイドされたかのような、革新的な設計思想だった。束縛ではなく、信頼に基づいた連携。
「……面白いこと、考えるじゃない。対等なパートナー、ねぇ」シルフィは呟いた。声の温度が、少しだけ戻っていた。短剣から手を離し、再び屋根の縁に腰掛けた。彼女は夜風に吹かれながら、廃墟となった街並みを見下ろした。「でも、どうしてそこまでして、あたしなの? 世の中には、もっと素直で、あんたの言うことを何でも聞く、使いやすい駒が、いくらでもいるでしょう? あんたほどの力があれば、いくらでも集められるはずよ。あたしみたいな、扱いにくい、いつ裏切るか分からないような影の人間じゃなくてさ」
彼女は自嘲気味に言ったが、その言葉には、僕の真意を探ろうとする意図があった。僕が本当に自分を信頼しているのか、それとも何か裏があるのか、見極めようとしているのだろう。
「代わりはいないよ」僕はきっぱりと言った。一切の迷いなく。「君ほどの卓越した技術と、瞬時に状況を判断し最適解を見つけ出す能力、そして…君ほどの、理不尽な束縛に対する強い反骨精神と、自由への渇望を持つ者は、僕の知る限り、他にはいない。アルカディアは、この歪んだ世界を変えるための組織だ。そのためには、常識や固定観念に囚われない、時に破壊的ですらある、君のような『異端』の視点と力が必要なんだ」
僕は静かに、しかし彼女の心の奥に響くように付け加えた。
「それに…君が『夜想曲』で見てきたであろう、力の乱用、理不尽な支配、声も上げられずに踏みにじられる弱い者たちの命。僕たちが創ろうとしているのは、そういったものを、この世界から根絶するためのシステムだ。君が心の底から憎んでいるものと、僕たちが戦おうとしているものは、本質的に、同じなのかもしれない。君のその力は、もはや復讐のためだけではなく、未来を創るために使うことができる。そうは、思わないかい?」
シルフィは屋根の上で膝を抱え、じっと僕の言葉を聞いていた。僕の言葉は、彼女の心の奥深く、暗い過去の記憶と、そこから生まれた深い諦観に、静かに、しかし確実に触れたようだった。目の前の男は違う。彼女が知る他の権力者たちとは全く違う。圧倒的な力を持ちながら、他者を支配しようとせず、むしろ個々の力を尊重し、それらを繋ぎ合わせることで、より大きな力、より良い世界を創り出そうとしている。僕の語る組織は、彼女がこれまでに知る、どんな組織とも、根本的に異なっていた。そこには、彼女が探し求めていたかもしれない、本当の意味での「自由」があるのかもしれない。そして、僕の隣にいれば、自分のこの汚れた力が、何か少しはマシなことのために使えるのかもしれない、という、これまで感じたことのない、淡い期待が彼女の中に芽生え始めているように見えた。この人の隣なら、退屈しなさそう…それに、なんだか…
<…この人なら、本当に何かを変えられるのかも…? この人と組めば、あたしは、ただの影の道具じゃなく、もっと…何か、意味のあることができるのかも…? あたしが、本当にやりたかったこと…?>
そんな可能性が、彼女の心に、まるで闇夜に灯る小さな星のように、瞬き始めたのかもしれない。
「……いいわ」
ややあって、シルフィは決心したように、軽やかに屋根から飛び降り、まるで羽のように音もなく僕の目の前に着地した。そして、ゆっくりと、ためらうように、顔の下半分を覆っていた黒いマスクを外した。
新月の僅かな星明かりの下、現れたのは、驚くほど整った顔立ちの、しかしどこか影を帯びた、儚げでありながらも強い意志を感じさせる、美しい少女の顔だった。その大きな銀色の瞳は、僕を真っ直ぐに見据えていた。その瞳の奥に、警戒心だけでなく、好奇心と、ほんの少しの期待のような色が揺れているのを、僕は見逃さなかった。
「契約成立、ってことでいいかしら? ヨシツネさん。あなたの言う、その『アルカディア』ってやつ、ちょっとだけ付き合ってあげる。何だか、面白そうだしね。ただし、約束は絶対に守ってもらうわよ? あたしを縛ろうとしたり、退屈させたりしたら、その時は…容赦しないんだから。契約破棄、即抜けさせてもらうわ。いいわね?」
彼女は挑戦的な、しかしどこか、未来への期待を込めたような、悪戯っぽい笑みを浮かべた。それは、彼女が心から誰かを信じようとしている時に見せる、稀有な表情なのかもしれなかった。壁の内側に隠していた、本当の彼女の一端が、垣間見えた瞬間だった。その笑顔は、闇に咲く一輪の花のように、僕の心を捉えた。
「ああ、約束しよう。君を退屈させることは、きっとないはずだ」僕もまた、穏やかな微笑みを返した。「ようこそ、アルカディアへ、シルフィ」
影に生き、誰にも心を許さなかった孤高の斥候は、こうして、アルカディアのもう一方の翼…変幻自在の「風」となることを決めた。彼女の心にも、新たな、予測不能な風が吹き始めたのかもしれない。そして、その風は、僕という存在に強く惹かれているようだった。
――――――――――
後日、僕は、ライオスとシルフィを初めて引き合わせる場を設けた。場所は王都の外れにある、アルカディアの最初の仮の活動拠点として確保した、古いが頑丈な石造りの建物。そこには、すでにアルカディアの「コア」として活動を開始していたセレスティアも待機していた。彼女は、これから仲間となるであろう二人を、少し緊張した面持ちで、しかし興味深そうに観察していた。(ヨシツネが見込んだ人たち…どんな人たちかしら…)
案の定、剛と柔、光と影、規律と自由をそれぞれ体現する二人の相性は、最初から最悪と言ってよかった。部屋に入るなり、二人の間に険悪な空気が流れた。互いの第一印象は、どうやら最悪だったようだ。
「貴様のような、規律も節度もない、どこの馬の骨とも知れん輩が、本当に我々の組織の一翼を担えるというのか? そのふざけた格好も、目に余るぞ。ここは遊び場ではない!」
ライオスは、シルフィの自由奔放すぎる態度と、裏社会の人間であることを隠そうともしない雰囲気に、あからさまな不信感を示した。彼の眉間には深い皺が刻まれている。
「あらあら、頭の固ーい、石頭のお爺ちゃん騎士様はこれだから嫌なのよねー。そんなガチガチの鎧着て、融通も利かないんじゃ、ただのお荷物よ」
シルフィも全く臆することなく、むしろ楽しむかのように鼻で笑って挑発し返す。彼女はライオスの、いかにも古臭い騎士然とした頑固さに、生理的な反発を感じているようだった。
「あたしはあたしのやり方で結果を出すの。説教なんてされる筋合いはないわ。それに、その重そうな鎧じゃ、あたしの動きにはついてこれないでしょ? 足手まといにならなきゃいいけど」彼女はわざとらしくライオスを上から下まで値踏みするように見て、肩をすくめた。
「な、なんだと貴様!」「やんのか、ジジイ!」
一触即発。今にも剣と短剣が抜かれそうな険悪な空気の中、セレスティアが「あ、あの、お二人とも、まあまあ落ち着いて…」とオロオロと仲裁に入ろうとしたのを、僕は目で制し、冷静に、しかし有無を言わせぬ威厳をもって割って入った。僕は、セレスティアが用意していた組織図と運用ルールの草案を、魔法で空中にホログラムとして表示させながら、二人の役割と基本的な運用ルール、そして指揮系統について、明確に説明した。
「ライオス、君にはアルカディア実行部隊の基盤となる規律と練度を確立し、組織の『鋼の盾』であり『背骨』となってもらう。君の厳格さと規律こそが、僕らの組織を腐敗から守り、目標達成へと導く礎となるだろう」
「そしてシルフィ、君にはその卓越した能力を最大限に活かし、組織の『影の刃』であり『風』となってもらう。君の柔軟性と常識に囚われない発想こそが、予測不能な事態に対応し、僕らに勝利をもたらす鍵となるだろう」
「君たち二人は、対立する存在ではない。互いに補完し合う存在なんだ。光なくして影はなく、影なくして光は際立たない。規律なくして組織は成り立たないが、規律だけでは変化に対応できず滅びる。剛と柔、静と動、光と影。この両輪があってこそ、アルカディアの実行部隊は、いかなる状況にも対応できる真の力を発揮するんだ」
僕は、具体的な任務シミュレーションをいくつか提示しながら、状況に応じた作戦の使い分けや、二人がどのように連携すべきかのプロトコルを提示した。それは、二人の個性を殺すのではなく、むしろそれぞれの長所を最大限に活かし、短所を補い合うための、緻密に設計されたシステムだった。ライオスの規律とシルフィの柔軟性が組み合わさった時、どのような相乗効果が生まれるのか、その可能性を示唆した。そして、彼らが互いを理解し、連携するためには、互いの価値観の違いを認め合うことが不可欠であると、静かに、しかし強く説いた。
ライオスもシルフィも、最初は互いへの不信感を隠さなかったが、僕の語る構想の合理性と、自分たちの能力が正当に評価され、それぞれが得意なやり方で組織に貢献できることを理解するにつれて、次第に反発の色を和らげていった。互いの能力そのものを認めないわけではない。ただ、その在り方や価値観が、あまりにも違いすぎるだけだ。しかし、この『アルカディア』という、まだ見ぬ組織においては、その「違い」こそが、弱点ではなく、むしろ強みになるのだと、彼らは少しずつ、不承不承ながらも、理解し始めているようだった。ライオスは、シルフィの持つ影の技術の有効性を認めざるを得ず、シルフィは、ライオスの持つ揺るぎない規律が、時に組織を救うことを想像し始めていた。そして二人とも、この複雑な構想をまとめ上げ、自分たちのような扱いにくい人間を惹きつける、ヨシツネというリーダーの器の大きさに、改めて感嘆していた。
まだ、視線が合えば火花が散り、互いに皮肉や憎まれ口を言い合うぎこちなさは色濃く残っているだろう。ライオスはシルフィの服装や言葉遣いに眉をひそめ続け、シルフィはライオスの堅苦しさを面白がってからかい続けるかもしれない。この二人が真の信頼関係を築くまでには、おそらく多くの時間と、いくつかの困難な共同作業が必要となるだろう。だが、アルカディアの実行部隊を担う『鋼の両翼』は、こうして、不協和音を奏でながらも、確かにその形を成し始めた。
組織の「頭脳」であるセレスティア。「鋼の背骨」たるライオス。「影の刃」たるシルフィ。アルカディアという、まだ誰も見たことのない新しい星座を構成するための、重要な星々が、少しずつ、しかし確実に集まりつつあった。彼らが真の力を発揮するためには、安定した活動拠点と、それを支える高度な技術基盤が必要となるだろう。僕の視線は、すでに次なるステップ――アルカディア・ベースの建設と、最後の、そして最も重要な技術の要となる人物のスカウトへと、静かに向けられていた。僕の描く星座は、まだ始まったばかりだった。
【第3章 用語解説】
※ 軍法会議: 軍隊内部の規律違反や犯罪などを裁くための特別な裁判。時に政治的な思惑で利用され、不当な判決が下されることもある。本作では、ライオスが組織内部の不正を告発した結果、この会議で不当に断罪され地位を追われた。