背中スイッチ
「えっとですねぇ……」
予想だにしていなかった展開。
スケロクにはたしかに「おめえが一番あぶない」とは言われてはいたものの、どうせ部屋数も少ないし彼らと同じ部屋になるだろうからと安心していた。
それをまさか、こんなにも直接的に、しかも流れるような手さばきで一対一の状況に引き込まれるとは。きっとヴェルニー達も唖然とした表情をしているに違いない。
(いや、この状況を考えたらすぐに助けに来てくれるのでは?)
と、思ったものの、来ない。異常に気づいたらすぐに助けに来るかと思ったのだが、まあ、彼らも長旅で疲れている。「まあええわ」と思うのも仕方ない。もしかしたらもう寝ているのかもしれない。
いや、今はこんな現実逃避をしている時ではない。とにかくなんとかしてこの二人きりの状況を回避しなければならない。
「あの……ですね。その、赤ん坊もいることですし、ヴィルヘルミナさんの安眠を阻害してしまうかもしれないので。僕はリビングでも寝られますから」
気遣いとしては正しい。寝ている間にうんちもするかもしれないし夜泣きもするだろう。だがもちろんヴィルヘルミナの方はそんなことで引きはしない。
「あら、私は気にしませんわ。それに、ルカさん、あなた随分お若そうですけど、その子の父親でして?」
「いえ、そういうわけでは……」
言ってから「しまった」と思った。実子であると嘘をついても何も不都合などなかったのに、二人きりの状況に戸惑ってついていい嘘をつけなかった。ヴィルヘルミナが既に彼の肩を抱くほどに近づいて話しかけてきていることもあるのだろう。
はっきりと言ってスケロクに「童貞パパ」と揶揄されても仕方のない状況を作り出してしまっている。
「やっぱり。赤子の扱いに慣れていない感じがしましたわ。私でしたら子供を一人育てた経験がありますもの。ルカさんにいろいろと教えられますわ」
そう言いながらヴィルヘルミナはルカの手を優しく握り、それを自分の胸の谷間に滑り込ませた。手の先がひやりとし、それとは対照的に心の臓は赤く強く脈打つ。
「ほら、私ならもしかしたら赤ん坊にお乳をあげられるかもしれませんわ。もう使わなくなって久しく経ちますが、試してみましょうか?」
それだけは絶対に出来ない。「出るわけがない」とは思うものの、しかしメレニーに彼女の母乳を飲ませてしまってこの冥界に縛られてしまうなどということだけは避けたい。
「それともルカさんにも、飲ませてあげたほうがよろしいかしら?」
胸に手を押しあてたまま、耳元に囁きかけてくる。
「このままではまずい」と思いつつも抗うことが出来ない。そもそもこの一か月グローリエンの肢体を拝ませられながらもさんざん生殺しにされてきたのだ。それがもう限界に来ていたのかもしれない。
「く……ッ」
限界が来たのだろう。彼の理性にも。
「上等じゃあッ!! 花のつぼみが開花するとこ見せたらあッ!!」
毒を食らわば皿まで。
そもそもヴィルヘルミナがルカ達を死者の国に縛り付けるために冥界のものと縁を結ばせようとしている、などというのが彼の思い込みに過ぎないのだ。
もしかしたらそんなのは全て妄想で、本当に彼女は親切なだけなのかもしれない。ルカのことを気に入って誘惑してきているのかもしれない。ビッチなのかもしれない。ひたすら男に都合のいい存在なのかもしれない。そんなことがあろうか。
「おぎゃあぁぁぁぁ、おぎゃあああぁぁぁぁ」
その一泣きでルカは現実に引き戻された。赤子の破壊力はすさまじい。
「ああっ、どうしたの、メレニー。うんち……じゃ、なさそうだな。じゃあとりあえずミルクだ」
「でしたらほら、私のお乳を……うぶっ」
ヴィルヘルミナが迂闊なことを言った瞬間、ルカの右手のひらが彼女の上下のあごを口を封じるかの如く思いきり掴んだ。
「うちのメレニーに変なもん飲ませないでくれます?」
「しゅ、しゅみましぇん」
サキュバスの母乳は変なものではないのか、という疑問は大いに残るが、出るかどうかも分からない冥界の住人の母乳よりは遥かにマシであろう。ルカは荷物から水筒を出し、メレニーに母乳を与える。
するとメレニーは泣き止んでごくごくと母乳を飲みだした。やはり腹が減っていたのだろう。もしくは父のピンチを敏感に感じ取って手助けをしたのか、それは分からない。
分からないが、しかしそれもその場凌ぎに過ぎないだろう。いつもの調子なら、メレニーは母乳を飲んでしまったらあとはもうぐっすりだ。そこからどうするのか、ルカに委ねられる。
そして思った通り、母乳を飲ませると、メレニーはげっぷをし、そのままルカに抱かれて眠ってしまった。
「あら、眠ってしまったようですわね。さあさ、こちらに寝かせてあげてください」
毛布を丸めたような簡易的な赤ん坊用のベッド。打つ手もないままに、ルカはゆっくりとそこへメレニーを横たえる。
「さあ、寝かせてあげて」
もはや万事休すか。しかし据え膳食わぬは何とやらとも言う。観念して、ルカは毛布とメレニーの間に挟まっていた手をスッと抜く。
「おぎゃあぁぁ、おぎゃああぁぁ!」
起きた。
なぜだ。つい先ほどまで確実に寝ていたというのに。
「……背中スイッチですわね」
「背中スイッチ?」
聞き覚えのない単語である。そもそもこれまではベッドにメレニーを寝かせたことなどなかった。ずっと自作の抱っこ紐でルカが抱き続けていたのだから。
「失礼ですがルカさん。この子の面倒を見始めてどのくらいで?」
「二、三日ですが」
「はあ……」
ため息をつかれてしまった。しかし実際そうなのだから仕方あるまい。ほんの少し前まで自分が父親になるなど想像すらしていなかったのだ。
「どんなに深く眠っているように見えても、ベッドに置いて、背中から手を抜いた瞬間に目を覚ますものなんですよ」
「そうなんですか? だって、絶対寝てたのに……」
メレニーをあやしながら説明に聞き入るルカであるが、しかし釈然としない。絶対に寝ていたはずなのに。お腹もいっぱい。うんちもおしっこもしていない。これ以上何が欲しいというのか。彼の手と毛布の間に、いったいどれほどの違いがあるというのか。背中にスイッチでもついているというのか。
とにかく、抱っこしてやるとメレニーはすぐに泣き止んだ。大丈夫だ。寝ているはず。しかし念のため三十分ほども抱っこし続けて様子を見る。
大丈夫だ。ピクリともせずに寝息を立てている。寝ている時のメレニーは本当に天使のような可愛さだ。もう大丈夫だろう。確実に寝ている。ルカは今度こそとメレニーを毛布の上に寝かせ、今度は一秒間に一センチずつ。慎重に、慎重にと手を引き抜く。
「おぎゃああ、おぎゃあぁぁぁ!」
なぜ。
おかしい。
絶対に寝ていたはずだ。何が気に食わないのだ。
「この……背中スイッチにはどんな対処法があるんでしょうか」
「対処法は……」
ヴィルヘルミナは大きく息を吸い込む。少なくとも一人の子を育て上げた子育ての大先輩の金言。聞き逃さぬようルカは彼女の言葉に耳をそばだてる。
「ない」




