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長い谷間のヴィルヘルミナ

「どうしました? 喉がお渇きでは?」


 時が凍ったかのように、誰も動けない。目の前に置かれたのは澄んだ水の入った木のコップ。不審な点は何もない。


 重々しい空気の中ルカが口を開く。


「その……すいません。僕達は自分の持ってきた水を飲みますので。それと、さきほどは、あの、おもてなしをとおっしゃっていましたが、結構です。お気持ちはうれしいのですが、自分達の持ってきた食料もありますし、そこまで、ねえ? お世話になるのは……」


 誰が見ても考えながら喋っているのが明らかであるような詰まり詰まりの言葉。額には脂汗が浮かんでいる。


「なぜ? お気遣いは無用ですよ」


 妖艶な笑みを浮かべたまま凪の谷底のヴィルヘルミナが問いかける。


「その……戒律があって……見知らぬ土地で施しを受け取ってはいけないのです」


 『戒律』などと言われては引き下がるほかない。ヴィルヘルミナは残念そうにコップを盆に戻し始めた。


「本当に? お食事もいらないので?」


 ここまで世話になっておいて、さらに厚意をうけてその上それを固辞するというのもなかなかに気の引けることではあるが、しかしルカはこれを拒否した。


「ああ~、ヴィルヘルミナ殿、すまないが少し外の風に当たりながら話をしてきますのでお気遣いなく。あ、シモネッタさんとハッテンマイヤーさんはここに残っていてください。なにかあったら……」


 二人を残してヴェルニーの呼びかけのもとナチュラルズの面々は外に出ようとする。


「ふふ、ここは凪の谷底。風など吹きませぬよ……」


 怪しい女と、見張りとしてシモネッタ達を残して。


「引き返すべきだ」


 外に出るなりスケロクがそう言った。


「マツヤニはどうするの?」


 グローリエンの言葉は当然の疑問である。


「よくよく考えてみればヤニを取ったところでそのまま塗ればいいのか、何か処置が必要なのかも分からねえ。俺は地元にいたとき何度かマツヤニを取ったことがあるが、使用用途に合わせてアルコールと混ぜたり、乾燥させたりするもんなんだよ。何より時間がかかりすぎる。カマソッソを待つべきだ」


「ルカくんはそれでいいの?」


「そうですね……」


 まだ脂汗をかいたまま、彼はメレニーをぎゅっと抱きしめる。


「危険すぎます。食糧と水も、二週間はもたない」


「さっきの『水』の話、あれはなんなんだい? スケロクとルカは何か知っているみたいだったが」


 ゴクリと生唾を飲み込んで、ルカが答える。


「世界中に冥界や死者の国に関する伝承というのはありますが、その中でもいくつか共通する『禁忌』というものがあるんです」


 禁忌……習俗として犯してはならない領域。神聖なため、あるいは不浄なため、定められた理由はさまざまである。しかし異なる文化をまたいで共通するということには何か理由があるのだ。


「冥界の食物を口にすると、生者の国に帰れなくなってしまう……もしかすると、ヴィルヘルミナさんもその禁忌を犯してガルダリキに帰れなくなったのかも」


「ちょ、ちょっと待って。じゃあマツヤニは?」


「それも危険かもしれない。少なくとも、手に入れたとしても使うのは冥界の外でやった方がいいでしょうね」


 あまり事態を深刻に見ていなかったヴェルニーとグローリエンもこれには背筋が寒くなった。何しろ冥界にどんな危険があるかもしれない、と思ってはいてもせいぜいがアンデッドの軍団に襲い掛かられるだとか、死神と戦うかもしれないだとか、そんなところだろうと思っていたのだ。


 それが抗いようのない『呪い』であるなどとは、思いもよらなかったのである。


「……少し、軽く考えすぎていました。最悪、僕の首が離れたままでも生きていくことはできる。でも、ここにいつまでもいたら、帰れなくなりそうな気がする。彼女と同じように、冥界の囚人としていつまでもこの谷底に捕らわれたまま」


「さすがに疲労がたまっている。今日はここで休ませてもらおうと思うが、それくらいはかまわないね?」


 ヴェルニーの言葉にルカは深く考えながら、ぎこちない仕草で首を縦に振る。


「ええ。ですが、夜の間決して冥界の物を何も口にしないこと、それと念のため彼女と深く縁を結ぶようなことも避けた方がいいでしょうね」


「縁を結ぶ? 具体的には?」


「具体的に……?」


 あまり深く考えずに口から出た言葉だったのだろうか。ヴェルニーの疑問にルカもまた疑問で返すが、すぐに顎に手を当てて考え出す。


「例えば何か約束をするだとか……あとは」


「性交か?」


 無遠慮なスケロクの言葉に戸惑いながらもルカは頷いた。


「いやはっきり言うけどおめえが一番あぶねえんだよ童貞パパ。あの女すげえ長乳してたからな。おめえが一番転びそうなんだよ」


 即座に否定したかったが特に否定の根拠が見当たらない。さらに言うならヴィルヘルミナが実際に粉をかけるようなアクションをしていたヴェルニーは全くなびくような態度は見せていなかったし、彼が興味を寄せている人物はどうやら自分らしい、という事実がルカを沈黙させる。


「とにかく、中に戻りましょう。二人も心配ですし」


 とりあえず建物の中に戻ることにした。まさかあの状況でヴィルヘルミナがシモネッタ達に何か食べさせるとは思えないが、心配なのは事実だ。


「お待たせしたね。三人で相談したんだけど、マツヤニのことは置いておくとして、明日にはいったん帰らせてもらうことにしたよ。ヴィルヘルミナ殿、休みをとれる場所に案内してもらえますか?」


「そうですか」


 ヴェルニーの言葉を聞いて彼女はゆっくりと立ち上がる。


「残念。しばらくは賑やかに過ごせると思いましたのに。ではシモネッタ様とハッテンマイヤーさん、それにグローリエンさんのお部屋を案内しますわ。残念ながらベッドはないですが、毛布くらいはお出しできます」


 ここまでずっとダンジョンで野営してきた一行にしてみれば屋根と壁があるだけで僥倖。この上毛布まであるとなれば言うところなどない。それどころか服すらも着ていないような連中なのだから。三人は奥の部屋へと案内されていった。


「次はスケロク様とヴェルニー様、こちらへどうぞ」


 外からはそこまで大きな屋敷に見えなかったが、どうやら空き部屋は豊富にある様子。スケロクとヴェルニーも部屋へと案内される。


「さて、ルカ様はこちらへ」


「えっと……」


 次はルカの番。しかし……


「なぜヴェルニーさん達と同じ部屋ではないんですか?」


「あら、赤子がいるのに同じ部屋を使えないでしょう」


「なぜ部屋を案内するのにヴィルヘルミナさんも部屋の中に入られるんですか?」


「申し訳ありませんが、これ以上空き部屋がありませんので。私とご一緒の部屋で」


「なぜ(かんぬき)をかけるんですか?」


「もう休まれるでしょう? 不用心ですもの」


 追い詰められてしまった。

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