冥界の住人
「私の名は凪の谷底のヴィルヘルミナ」
深く息を吐き出しながら喋るさまは退廃的にして妖艶な雰囲気をまとっている。こんなダンジョンの奥底で何の用もなくたたずんでいることを除けば不審の下りなどないのだが、死人のように白い肌とぼろきれを纏っただけのような服装は異様な雰囲気を孕んでいる。
「冥界シウカナルの住人と、今そう言いましたか?」
「待て、落ち着けルカ。こんな怪しい奴に気を許して近づくな」
今現在最も冥界への道を渇望しているのは如何にしても冥界のマツヤニを手に入れたいルカであろうが、そのはやる気持ちをスケロクが咎めた。
とはいうものの、一人の美女を囲んでいる全裸の男どもの方が世間一般的にはよほど怪しいであろうが。というかもうその時点で犯罪である。
「あなた、冥界の住人って言ったわよね? この辺りに冥界への入り口があると聞いたけど確かなの?」
相手を警戒させないため、女性のグローリエンが話しかける。といっても彼女も全裸なのではあるが。
「いかにも」
しかしそもそもヴィルヘルミナと名乗った女性の方にはまるでルカ達を警戒する様子はない。約半数が全裸、残りの人間には全身鎧に身を包んだ巨人もおり、さらに一人は赤ん坊を抱えているという異様な集団。尋常であればこの上なく怪しいが、まるでそんなことには興味が無いようである。
「ちょっと私達、事情があって冥界にあるマツのヤニを手に入れたいの。心当たりはないかしら?」
「ほう、マツヤニですか」
ヴィルヘルミナは立ち上がって背を向ける。
「確かに私の家の近くにもマツがあったはず。よければ案内しましょうか?」
ヴィルヘルミナが向いた方、ルカ達が進んできた谷底の道と直交する方角には下り坂が続いており、その先は小さな洞穴があるようだった。
彼女の言うことが確かならば、おそらくその洞穴は冥界に繋がっているのだろう。
グローリエンは振り向いてヴェルニーに目配せする。
ヴィルヘルミナはただルカ達が聞くことに合わせて答えただけ。はっきりといえば不審なところは何もないのだ。だが何となく嫌な予感がする。
話がトントン拍子に進みすぎるのだ。冒険者としての経験から言えば、こういう時は大抵ろくなことにならない。何らかの罠の可能性が高い。根拠など何もないが。
少し考えてからヴェルニーが別の質問をした。
「カマソッソというデカい蝙蝠みたいなやつを知らないか? 少し前にここを通ったんじゃないかと思うんだが」
質問自体にあまり意味はない。確かにカマソッソが要求通りに動いているのならここを通って冥界に戻り、マツヤニを取りに行っているはずである。
本来なら彼がマツヤニを取って戻ってくるのを待っていればいいだけなのではあるが、結局ヴェルニー達が追いついてしまった形になる。
しかしカマソッソが約束通りにマツヤニを取りに行った確証などないし、仮に取りに戻っていたとしても彼女が遭遇している可能性も低い。なのでこの質問自体には何の意味もない。ただ何か、別の反応が見られるのではないかということを頼ってだけの発言である。
もちろん「少し前にマツヤニを探すために冥界に戻っていった」などという証言が得られれば僥倖ではあるが、そんな都合のいい話はあるまい。
「いえ……会っていないし、そんな蝙蝠は知りません」
相変わらず表情にもしぐさにも、不審な点はない。それどころか全く感情の起伏というものが感じられない。まるで幽鬼と話をしているようだ。
「どうする? ヴェルニー」
少しヴィルヘルミナと距離を取ってグローリエンが全員に向かって話しかける。ヴィルヘルミナは先ほど質問に答えた場所でぼうっと突っ立っている。
普通で言えば人に質問しておいてほったらかしにするのは失礼にあたるが、もはや何の感情も見せることのない彼女に対しては気を使うことはやめたようである。
「根拠はないが、怪しいとは思う」
「俺も同感だぜ」
向こう側から何かおびき寄せるような発言でもあれば罠の可能性ははっきりと高いと分かるのだが、それすらもない。とにかく「意思」や「感情」というものが一切感じられない。それが逆に怪しく感じる。
「情報が無さ過ぎて袋小路になってしまってるんじゃないんですか?」
本当ならばルカは何をおいても彼女についていってマツヤニを手に入れたいだろうが、ここはぐっとこらえて出来るだけ冷静な目で状況を解析した。
「一旦このフロアを隅々まで調べて、他に何もなければ彼女の誘いに乗ろうと思うが、どうだろう?」
「私たち生者が冥界に行くというのならどんなリスクがあるか分かりません。私はヴェルニーさんの意見に賛成です」
賛同の意を真っ先に示したのはハッテンマイヤーであったが、誰もこの意見に反対はしなかった。「あまりにも情報が無さ過ぎる」というのは共通する見解であった。いきなり最初に引いたカードが目当てのものではあったものの、それを実行するには時期尚早であると判断したのだ。
結局ヴェルニーがヴィルヘルミナに簡単に断りの言葉を伝え、もししばらくたって戻ってきたときにまだいるようであったら冥界への案内を頼むことにした。
「基本的には、さっきのヴィルヘルミナって女性がいた、下に降りていく道以外は一本道みたいだね」
元の道に戻って、進みながらヴェルニーが言う。彼の言う通り七階層から降りてきた谷底の道からずっとまっすぐな道が続いていた。
殺風景な、やはり白骨のような岩場だけがずっと続いている。まるで生命の気配のしない空間。一つ上の七階層が緑豊かな森の中を歩いているような迷宮であったためにその異常さが余計に際立つ。
「階段だ……上に続く階段」
しばらくまっすぐ進むと、ルカ達の目の前に現れたのは上層階へと続く階段であった。下ではなく、上である。
「どういうことだ? まさかとは思うけどヴィルヘルミナと話してるうちに方向感覚を失って引き返してきてしまったのか?」
ヴェルニーがそんな疑問を口にするが、ハッテンマイヤーが加わってからは彼女がずっとマッピングをしているし、何より方向感覚にも優れているスケロクがそんなミスを犯すはずがない。
こんな時、考えられる原因はいくつかある。
「まさかとは思うけど、テレポーターじゃないの?」




