凪の谷底のヴィルヘルミナ
「しかしこう、アレだね。部屋の重力が強まった時、ルカくんがまず最初にメレニーの身を案じたのにはぐっとくるものがあったよ」
第八階層への長い階段を下りながらグローリエンが呟く。森の中を歩くようだった第七階層からの階段は谷底に降りるように石壁に挟まれて岩場へと景色が変わっていった。
「これが『愛』ってやつなのかね? やっぱり幼馴染みのきずなは強いねぇ」
「ちょ、ちょっとグローリエン様? ルカ様には私という運命の相手が……」
自分の恋愛にはとんと疎いが他人の色恋沙汰にはやたらと首を突っ込みたがる女、グローリエンの妄想は止まらない。
「あのですねえ、グローリエンさん。僕がメレニーを気にしたのはあくまで乳幼児だからであって……首も据わってない赤ん坊だからですよ!」
「ツンデレだねえ」
「フフフ、シモネッタ様には悪いですが、すでにルカ様のアナルはヴェルニー様の予約が入っています。手遅れでしたね」
とりとめもない会話をしながら階段を下りていく。パーティーの仲も深まる雑談は本来なら歓迎するところであるが、ルカの身からすれば自分を酒の肴にするような状況は遠慮願いたいところであろう。
しかもヴェルニーが絡んでくると居心地の悪さだけでなく自身の貞操に実害が及ぶ可能性もあるのだ。彼からすればたまったものではない。
「それっぽい雰囲気になってきたね」
先頭のヴェルニーとスケロクがどうやら階段の一番下にまでたどり着いたようである。ルカ達も長い階段を下りきって、ようやく第八階層にたどり着いた。
天に届くほどにも思える崖に囲まれた谷底。時刻は昼頃であろうが、大断絶の間を太陽が垂直に昇降するヴァルモウエの世界ではどんな季節のどんな時間でも陽が真上に来ることはないので谷底は暗い。
おそらくヴェルニーの言った「雰囲気」とはまさに「冥府の入り口に繋がっていそうな」ということを言い表しているのであろう。ルカもこれにはまったく首肯せざるを得ない。
谷底の景色は腐肉を洗われたる白き髑髏にも似た無骨な岩肌が支配しており、命の発露である草木はほとんど生えていなかった。此れこそがまさにダンジョンの本来の姿に近いのかもしれない。
だがそれは景色のことだけを言っているのではなかった。
「腐臭がしやがるぜ」
スケロクの言葉に緊張がはしる。
尋常であればそれは野生動物か行き倒れの旅人か。そんなものの死骸が転がっている程度のことであろうが、ここはカマソッソから聞いた冥府への入り口。嫌でもその臭気と死者の世界を紐付けて考えてしまう。アンデッド……冥界の住人がその顔を覗かせているのではないかと。
「少し隠れて様子を見るぞ」
スケロクの言葉に全員が物陰に隠れる。このフロアは前述のように谷底のような環境になっている。遥か高くには七階層と同じように青空を臨んでいる。これは上の層と同じく本当に空が広がっているのではなく幻燈であろう。
そしてフロア全体は見る限りは一本道の谷底。その向こうまでは遠くて見えないが幅はかなり広い。十数メートルから二十メートルはないほど。しかし上の第七層と違うところは人工的な通路というよりは自然の谷底のように不規則な形状の一本道となっているところである。
すなわち崖沿いの岩陰に十分なスペースがいくつもあるので、そこに隠れて様子を見る。まずはフロア全体の雰囲気を掴みたい。
戦いには「気持ちの切り替え」と「準備」が必要なのだ。路上の喧嘩で不良がメンチを切り、大声で威嚇するのと同じように。熟練者であればあるほどその切り替えに必要な時間は短くはなるが、決してなくなりはしないのだ。「逃走」にはシームレスに繋がるが「攻撃」には切り替えが必要。これは日常と生死が地続きの野生動物ですら同じである。
だから様子をうかがう。ユルゲンツラウト子爵のような真の強者が出てくるのか。それともサキュバス三姉妹のようなふざけた雑魚が出てくるのか。
何となく嫌な雰囲気はする。ルカですらダンジョンに入ってからはすでに慣れ親しんだ匂い。これは死臭だ。
無論それはダンジョンの中では特段珍しくもないものなのであるが、しかしこのフロアには殺風景な岩場の光景が広がっているのみである。他のフロアのように壁に血が染み込んでいるわけでも、実際に死体が転がっているわけでもないのに死臭が、いや、死の雰囲気が強く感じられるのだ。
五感で感じられるよりも死の雰囲気を強く感じる。
風が、死を孕んでいる。
これが、冥府の鼓動というものなのだろうか。
「何か居やがるぜ……」
スケロクが呟くが、他のメンバーにはそれを目視できない。彼の優れた視力だけがそれを捉えているようだ。
「ローブを被った小柄な何かだ。岩の陰で座って休んでるように見えるな」
「人間なのか?」
「どうだろうな? 見かけは危険な魔物には見えないが……サキュバスみたいな例もあるしな」
しかしここで話していても物事は先には進まない。虎穴に入らずんば何とやら。どちらにしろここまでの通路には何もなかったのだ。冥界シウカナルへの入り口があるとすればその「何者か」の先なのだろう。意を決して進むほかあるまい。
「周囲にも注意しろよ。『あれ』が釣りで、そっちに注意を引かれてる隙に……ってのも十分考えられるからな」
先頭を行くスケロクの言葉に全員が気を引き締めて、ゆっくりと、しかし堂々と谷底の道を進む。
近づいてゆくと、岩場の陰で座って休んでいるのは、どうやらボロボロのローブをまとった妙齢の女性のようであった。
「よう、こんなとこで何してんだい?」
スケロクがあまりにも無造作に話しかける。まるでナンパでもしているような気軽さであるが、その佇まいは正中線をしっかりとまっすぐに保ちながらも軽く膝を曲げ、何事かあればどの方向にでも飛び退いて対応できる万全の構えである。
後ろに控えているヴェルニーとグローリエンもさりげなく得物に手を添えてまさかの時は対応できるように立っている。
「少し座って……休んでいるだけですが」
若そうに見えたがハスキーで無気力な声。だが年老いた声というよりは気だるげな妖艶さを感じさせるような不思議な魅力を持った声であった。
「こんなダンジョンの奥で休憩か? 物好きな奴だな」
「ダンジョン……? ここが? ここは私の家の近くですが」
いかにも怪しい言葉ではあるが、しかしこんなダンジョンの奥底に住んでおり、そのことを隠してすらいないとはどういうことなのか。
「シウカナルの、住人ですか?」
果敢に質問をしたのはルカであった。彼が最もシウカナルへの渇望が強い人間なのだ。果たして冥界マツのヤニなどというものが本当にあるのか。それともカマソッソがその場しのぎで適当についた嘘なのか。まだそれすら判然としないのだ。
「いかにも」
小さく息を吐き出してからローブの女は答える。
「私は冥界シウカナルの住人、凪の谷底のヴィルヘルミナ」




