何も変わらなかった
「私は彼のことを失ったら、生きていけないと考えていた。彼と過ごした三十年は、本当に楽しかった」
トークハットは被ったまま。ヴェールがついているせいで表情は読みづらいが、その顔には深い悲しみをたたえているように見える。
だが彼女は、夫が死んでしまったために感情を失ったのではないと。むしろその逆だと言った。
「彼が亡くなった時は、本当につらかった。まるで半身をもぎ取られたような……でも、本当の絶望はその後訪れました」
ルカ達は、言葉の意味を測りかねていたが、伯爵が言葉を続けた。
「生きていくことなどできないと思っていた私は、実際にはその日も同じように食事をし、寝て、次の日を迎えた。彼が死んだ後も、世界はそれまでと同じように日が昇り、動き、そして夜が来る。何も変わることはなかった」
伯爵はヴェールの上から両手で自分の顔を覆った。
「彼のいなくなった世界で私は、それまでと同じように食事をし、寝、時には笑いもした。それまでと、それまでと全く同じように。彼がいなくなっても、世界も私も、何も変わりはしなかった……」
人が一人死んだくらいで、世界は変わらない。それは当然のことではある。だがおそらく彼女が本当に絶望したのは、「自分が変わらなかった」ことなのだろう。
「自分がひどく、酷薄な人間に感じられて。この世界のなにもかもが、信じられなくなってしまって……そうだ。あの時私は、この世界が全て偽物のように感じられてしまったのです」
両手を覆っていた手を下ろし、伯爵は天井を見つめる。
「その時からまるで、自分も世界も、本当には存在していないのではないかと、そう考えられるようになって……」
そして主人を心配したイゴールが、このような「試練」を考えた、というところがこのダンジョンの五階層の真相、といったところである。
「ダンジョンっていうのは……いったい何なんでしょうか?」
素朴な質問であるがゆえに、ルカの口からその言葉が出た。
「僕達の世界では、ダンジョンはデーモンがヴァルモウエの侵略のための足掛かりとして作っているという噂ですが……」
伯爵は、紅茶を一口すすってからルカの言葉に応える。
「ガルダリキでもそう言われているわ。実際多くのダンジョンがそのつもりで作られている。次元を捻じ曲げて、ダンジョンを通じてガルダリキからヴァルモウエへの通路として」
「このダンジョンもそうなんですか?」
伯爵は首を傾げる。
「私は、百年ほど前から、魔王様から直々にこのダンジョンの入り口の守護を命じられました」
「ここが『入り口』か」
にやりとヴェルニーが笑う。
「あまり言えることは多くはないわ。ただ、この世界に他に存在するダンジョンはこの『竜のダンジョン』の模倣に過ぎません。しかしこのダンジョンが何のために作られたものなのかは、今となっては、もう、誰にも……」
ここが唯一の、始まりにして根源のダンジョンであると、そういうのだ。しかもその成り立ちについてはガルダリキの盟主、魔王が関わっているようだ。
そして、長らく「名無しのダンジョン」として存在は知られつつも放置され、のちに「せむし男のダンジョン」と呼ばれたこのダンジョンの正式な名前も知ることが出来た。
「あなた達はこのダンジョンを攻略し、世界の謎を解き明かすことが出来るのかもしれないわね」
「世界の謎?」
「ええ。世界が、北と南の二つに分かれ、今のような形になったのはおよそ一万年前と言われているわ。いかに魔人の寿命が長いと言っても、その頃から生きているのは魔王バルトロメウス様のみ」
「世界が? 今と違う形をしていたのか?」
この話にヴェルニーが食いついた。しかし他のメンバーも同様、大きな動揺を見せている。
「長寿のエルフの里にも、そんな話は伝わっていないわ」
「世界は昔は一つだった……みたいな話は神話にはあったような気もしないでもねえな……」
グローリエンとスケロクももちろん知らないようである。
「北と南がくっついていたんなら、太陽はどこから昇っていたんだろう?」
現在は、世界の北と南の間に大断絶があり、その百キロ以上にも及ぶ空間から「太陽」と呼ばれる光球が昇降して、暦を刻んでいる。
太陽の振幅の中心は周期的に上下し、そのため日が高くまで登る季節と、長い時間沈んでいる季節があり、前者を夏と、後者を冬と呼称。その周期を一年と決めている。
北と南が繋がっていたのならば、太陽は一体どこで昇っていたのか。神話には、記録としては残されてはいない。
「私も魔王様が何を考え、何を目的にこのダンジョンを作ったのかまでは知らないわ」
いろいろと事情を知っていそうなヴァルメイヨール伯も、全てを知っているわけではない。
「ただ、他のダンジョンを作ったデーモン達は、少なくとも人類に対し友好的ではない……さっきも言った通り、ヴァルモウエを支配するために、次元を捻じ曲げてダンジョンを繋いだ者がほとんどよ」
デーモンのヴァルモウエ侵略のための足掛かりではないか、という想像は間違っていなかったようだ。少なくとも他のダンジョンは。
「あなた達には、期待しているわ」
そう言って伯爵はパチンと指を鳴らす。すると先ほどまで伯爵の座っていた椅子の後ろの壁がバチバチと光を放ちながら稲妻が走り、四角に切り抜かれる。仕掛けを起動させた、というよりは今、彼女の魔法によってくりぬいている、という感じだ。
「この先にうろついているデーモンや守護をしているグレーターデーモンは私達のように人に対して友好的ではないわ。そもそも、魔王様が何のためにここを作ったのかも分からない。それでも、あなた達は進むのでしょう。健闘を祈るわ。……それから、これを」
「……黄金?」
渡されたのは、黄金でできた棒。U字型の先端を持ち、反対側には持ち手がついている。Y字型と言った方が良いだろうか。武器なのか、道具なのか、なんに使うものなのかは分からないが、ルカはそれを受け取った。
「ありがとうございます。私は、きっと……」
椅子から立ち上がり、ルカは感謝の言葉を述べる。
「ぷひゅっ、くっくっくっく……」
「ナニを見て笑ってるんですか」
仕方あるまい。




