まだ何もしてないんですけど
「さあ、玄室へどうぞ。我が主がお待ちだ」
炎の明かりに照らされたイゴールの顔はより一層邪悪に、醜悪に映る。
そうだ。次は自分の番なのだ。ルカは未だ燃え盛っているマルコの遺体を見下ろして恐怖にすくむ。
この男が、冷えに冷えさせた最悪の環境の中で、自分がどうにかしてヴァルメイヨール伯爵を笑わせねばならない。しかも結局マルコの芸は伯爵の琴線にかすりもしなかったので、どういった方向性が求められているのかも全く予想できなかったのだ。
手がかりもない闇夜の中で床の上に落ちた一本の針を拾えというのか。土台無茶な話だ。しかもその針は自身の指を貫く可能性の方が高い。ヘタを打てばやはりマルコのように冷えた部屋を暖めるための薪とされてしまうだろう。
「使っている魔法の威力から見ても、やはりイゴール殿は中位の魔人。と、すると、ヴァルメイヨール伯爵は上位魔人であると考える方が自然だろう」
相対的ではあるものの、魔人は三種に分けられる。
人の言葉を介さず、意思の疎通もできず、ただ暴虐の限りを尽くす下位魔人。ダンジョンの中層から下層に現れ、小型のドラゴンと同程度の強さである。
人の言葉を話すものの、ほとんどの場合人間に対して敵対的であり、冒険者にとって大きな壁となる中位の魔人。これはイゴールが相当する。ついさっき目の当たりにしたように、Aランクの手練れの冒険者であっても単独で戦うことは無謀と言わざるを得ない。
「上位魔人は僕も一度しか戦ったことはない。人の言葉は話せるものの、どういった行動原理で動いているのかは全く理解の範疇から外れ、癇に障れば雑草を刈るように人の命を薙ぎ払う」
「戦ったことが……あるんですか?」
「ああ。ゲンネストのパーティー全員がかりで、何とか倒すことはできた。ちなみに、本人は子爵級魔人だと言っていたな」
伯爵となればそのさらに一つ上である。尤も、人間の世界の爵位とガルダリキの爵位が全く同じように対応しているのかは甚だ疑わしいし、爵位が上であれば強いというのも思い込みに過ぎないのだが。
「危なくなれば僕達は助けに入る。だが決して慢心しないでくれ。下手をすれば、あの伯爵一人で僕たち三人よりもはるかに強い可能性もある、ということだ」
ヴェルニーは状況を説明したに過ぎない。それもできるだけ客観的な視点で。だがそれこそがルカにより一層絶望の色を濃く乗せたのだ。
今までとは違う。「危なくなればヴェルニーさん達が何とかしてくれる」などという甘えは通用しない。もはや彼らと同じ土俵に立っているのだ。ここは彼らにとっても、自分と同じように死地である、ということを意味する。
自分がどうにかするしかない。自分の力で未来を切り開かねばならない。そして、当然ながら確かな勝算など何一つありはしないのだ。
「さあ。来い、小僧」
イゴールもそう長くは待ってはくれないだろう。そして、引き返すこともどうやら難しそうだ。
「覚悟を決めろ」
ルカは、自分に言った。
大きく息を吐き、全ての酸素を吐き出してから息を吸う。肉の焼ける匂いが不快であるが、冷静になることはできた。
「お待たせしました、イゴールさん」
「ふ、やはり、モノが違うな。期待しておるぞ」
マルコと違って、イゴールがルカ達に対しては若干好意的であるところがまだ救いではあるのだが、それも結局伯爵を笑わせられるかどうかには関係のないことだ。
何より、どこかの誰かが客の空気を冷やしに冷やしてくれた。こんな状況でいったいどうすればいいのか。だが、やれることは一つ。自分にはこのリュートしかないのだ。
まずは気持ちの落ち着く曲を軽く弾いて心をほぐす。それから楽しい気持ちにさせる、祭りのような曲を。そうだ、悪魔とのダンスで使った曲などがいいかもしれない。あんなものを演奏すれば自然と笑顔を見せてくれるかもしれない。もう自分の選べる選択肢などそれほど多くないのだ。その中で足掻ききってやる。
決意を固めてルカは前に足を踏み出す。
「さて、お待たせしました、伯爵閣下。あまりに出来の悪い前座ではありましたが、部屋を暖めるための種火ぐらいにはなりましたでしょう」
先に伯爵の下に戻ったイゴールが十分にハードルを上げてくれる。どうもあの魔人はルカのことを過大評価しているきらいがある。
リュートを構えながら歩き、そしてルカは伯爵の前に立った。
「ぶふぉッ」
「!?」
何が起こったのか。
うつむき気味だった伯爵がルカの方を一瞥して、突如として大きく息を噴き出した。部屋の入り口辺りで様子をうかがっていたヴェルニー達も何事かと疑問符を浮かべる。
「くふっ、ふふひひっ、ぅう、ふっふっふっふ……」
「笑って……る?」
おかしい。
まだルカは何もしていないのだ。此は一体如何なることか。
しかし間違いなくヴァルメイヨール伯爵は肩を震わせて、顔をルカから背けながらも不規則に息を吐き出している。確かに笑っているようにも見えるが、何か体調が悪いのだろうか。
「なっ、なんっで、はだ、かあ……あっはっはっはっは……」
もう間違いない。間違いなく笑っているのだ。
「はーっ、は、あーはっはっはっは、はー……はぁ……」
ようやく落ち着いてきたようだ。これは、どうしたらいいのか。演奏を始めても良いのか。ルカは測りかねる。
「えと」
「ぶふーぅっふっふっふっふっふ」
一言口を開いただけでまたも伯爵が噴き出す。なぜだ。何がおかしいというのか。
「おお、さすがはわしが見込んだ男。こうも簡単に心を失って海の底に沈む貝の如くふさぎ込んでおられた主を笑わせるとは」
「えぇ……?」
「なんで、なんで裸なのぉ、っほっほっほっほ……ひーっ、ひーっ」
呼吸困難に陥って引き笑いをしている。何がそこまで彼女の琴線に触れたというのか。
「ルカとか言ったか、少年よ、感謝。感謝するぞ」
激しく体を上下させながら必死に笑いをこらえようとする伯爵と、よく分からない感謝の言葉を述べるイゴール。ルカはいったい、どうしたらいいのか分からない。
「あの……まだ何もしてないんですけど」
「もうダメ、ほんっ勘弁してぇっへっへへ、ひゃはははは」
静かなダンジョンの玄室の中に、伯爵の笑い声が響く。




