幻影
「暗黒回廊で迎え撃つとはなかなか考えましたね」
言い終わるか終わらぬかのうちに風を切る音が聞こえ、ほぼ時を同じくして金属と金属が弾き合うような甲高い音がした。
おそらくはクレッセンシアの斬撃。戦闘が始まったのだ。
ヴェルニーとグラットニィはまだ動かない。気づけば、二人とも目を閉じたまま剣を構えている。微動だにしない。まさか寝ているわけではないだろうが。
暗闇の中からはやはり断続的に風を切る音と金属音が聞こえる。
祈る様に竪琴を掻き鳴らし、魔力を音に乗せてクレッセンシアを援護するルカは心臓を掴まれるような思いだ。
彼にとってはまだあったばかりでほとんど知らないような人物であるが、若い女性をあの化け物と戦わせて、自分は支援しかできないという事実は心を削る。
ルカですらそれほど心をすり減らしているのだから、彼女の事を深く案じ、自分には何もできないというシモネッタの心の内は如何程に疲弊していようか。
また、いつでも暗闇の中に入ることが出来るのに、それをせず、剣を構えたまま機を窺うヴェルニーとグラットニィはどれほどにもどかしいか。
それからわずか数秒の間金属同士の打ち合う音が聞こえたのち、グラットニィが目を見開き、闇の中に剣を打ち込んだ。
「ぐうッ」
アストリットの呻き声。金属音も同時に聞こえたため受けられてはいる。しかしヴェルニーをも凌ぐグラットニィの膂力による打ち込み。シグヴァルドをも粉々にしたその剣が全く効かぬはずが無いのだ。
「ふッ!!」
続いてヴェルニーも遅れて打ち込む。剣が半分ほどのところで折れてしまっているため、グラットニィよりも少し踏み込んでの打ち込み。体を半分闇の中へと沈めている。しかしこれも弾かれる音がする。
おそらくはもう、ほんの少し、手を伸ばせば届くような位置にアストリットがいる。
風を切る音と、金属を弾く音。三人の攻撃と、それを凌ぐ戦闘音が断続的に聞こえる。
「どういうことだ……」
ルカは訝しんだ。この変則的な戦い方のため、タイミングを合わせて同時に打ち込むなどという芸当はできていないものの、しかし三人の達人が取り囲んで滅多打ちにしているというのに有効打を与えられないということが果たしてあり得るのか。
何か妙だ。
異常に破壊力の高い腕による攻撃、音波を使用した、おそらくは催眠術による認知の歪み。
それだけではない。奴はまだ、何か隠している。直感的にそう感じ取った。
演奏をやめ、身をかがめて竪琴に縋るように構える。
弦に指を、爪の先を引っかけて、繊細に、小さな音を発する。
目を閉じ、全身全霊を傾けてその波の反射が織りなす形を慎重に聞き取る。何か、何か重要なことを見落としている気がしてならなかったのだ。
戦闘が始まってから誰一人としてアストリットの姿を確認していない。そこに大きな落とし穴がありはしないか。常識にとらわれて何か大きな見落としをしていないか。それを確認するために。
まるでシャボン玉に触れるようなほんの少しだけの感覚に全能力を傾けて注意する。
そしてルカは、その波紋のほんの少しの歪みに気づいた。やはり何かがおかしい。ちらりと後方のホルヘ・パルドを見る。アストリットの発していると思われる笛の音を中和するためにヴァイオリンを一心不乱に奏でている。
しかしそもそも、クレッセンシア、ヴェルニー、グラットニィが断続的に攻撃を仕掛けているというのにアストリットはどうやって笛を吹いているというのだ。
暗闇の中で三人の攻撃を捌き続けているのもおかしいし、笛の音が聞こえ続けるのもおかしい。ホルヘ・パルドの能力によって敵の認知不和を封じたと思っていたが、果たして本当にそれは成功していたのか。
ルカは、自らの居場所を確認するかのように再び弦を弾く。
どんな小さな異変も見逃さないように。魔力だけでなく、音でも視る。わずかな波の乱れを探し求め、そして異変を感じ取って振り向いた。
「後ろだッ!! アストリットは! すでに僕らの後ろに回り込んでいたッ!!」
「アハハハハハハッ」
甲高い笑い声が響く。
「まったく! なんてお粗末な奴らだ。笑いを堪えるのに必死だったよ! 勘弁してくれッ!! アハハハハハッ」
「アーセル! ルネ!!」
グラットニィの悲痛な叫び声。パーティーの後方に控えていた二人は悪魔公爵アストリットの脚元に倒れ伏していた。アーセル・フーシェは残った右腕をも切断され、ルネ・フーシェは鳩尾に大きな穴が開いている。
「そ……そんな馬鹿な」
しわがれたホルヘ・パルドの声が絶望に染まる。
アストリットの笛の音が聞こえてから、彼は公爵の認知疎外の音波を阻害するために、それを中和する音を奏でていたのだが、それは全く功を奏していなかったということだ。
気づけばアストリットは一行を通り抜けて反対側にまで達していたし、ヴェルニー、グラットニィ、クレッセンシアは暗黒回廊の中ではなく、その出口に位置しており、通路の壁に斬りつけ続けていたのだ。
「てめえぇぇ……」
「待て、グラットニィ、危険だ!」
怒り心頭のグラットニィ。フーシェ兄弟は自身の部下たちの中でも特に古参のメンバーであり、目にかけていた弟分だった。ヴェルニーが止めようとも止まるものでもない。
まんまと敵の罠にかかってしまった事で、自分自身の不甲斐なさへの怒りもあったのかもしれない。結局ここに置いて残ったゲンネストのメンバーはヴェルニーと彼の二人のみ。部下達を、守ることが出来なかったのだ。
「そう怒らないでくれたまえ。そもそも君達には荷が重すぎたのだ」
それが分かった上で、アストリットは挑発してくる。
すでに生気を無くして横たわるルネの首を手刀で切断し、その頭部を持ち上げてまじまじと見つめる。
「見ろ、なかなか綺麗な顔をしているじゃないか。冒険者などせず、娼婦でもしておけばよかったものを。どうだ? 君達がこれまでと同じように愉快な家畜でい続けるのならば、命だけは助けてあげても構わないが」
地響きのような怨嗟を孕んだ声を、グラットニィは肺腑の底から絞り出す。
「……野郎」




