故郷の香り
「風?」
「どうした、ルカ君」
息を整えながら走ってきた通路を振り返るルカ。一旦立ち止まって竪琴を掻き鳴らし、エコーロケーションによる敵の位置の確認をする。
「リナラゴスさんが……?」
妙なことに気づいた。アストリット公爵が先ほどの位置からそれほど動いていないというのに、リナラゴスの方がすぐ近くにまで来ているのだ。
「あいつめ、性懲りもなく……ルカ君、すまないがグローリエンを頼む」
そう言ってヴェルニーは抱きかかえていたグローリエンをルカに渡した。
これが平時であれば肌と肌の触れ合いに心臓の高鳴ることもあったろうが、右腕を失い憔悴しきったグローリエンを前にそんな気持ちは当然起きなかった。
それどころかその冷たい肌に驚き、明らかに呼吸をしているにもかかわらず頸部の脈を確認してしまう。
大丈夫だ。脈は正常だ。呼吸も安定している。
外は夏であるがダンジョンの中は地下のため気温が低い。そのせいで体温が下がっているだけだと、自分に言い聞かせる。きっと助かるはず。出血も止まっている。
「リナラゴス! その怪我は……」
ヴェルニーの声にハッとして顔を上げる。グローリエンの容体に気を取られて忘れていたが、そうだった。リナラゴスが近づいてきているのだ。
てっきりアストリットに命じられて自分達を始末するために向かってきているのだと思っていたが、大分様相が違う。
顔を真っ青にして消耗しているし、何より先ほど自分達をさんざんに苦しめたアレが無いのだ。
「すまん……足止めしようとしたが、このザマだ」
「どういうことだ!? デーモンを裏切ったのか?」
ヴェルニーにはまったく事情が読めなかった。新たな勢力の参加が無ければリナラゴスの一物を破壊したのはアストリットということになるのだが、何故そんなことになったのかが分からないのだ。
元々ギルドを裏切ってデーモン側についたリナラゴスがさらに裏切ってこちら側についたということだろうか。だとしたらあまりにも節操がなさすぎる。
「俺は、デーモンを裏切った」
その通りの節操無しであった。
そしてその代償が大事な息子を失ってしまった事だというのだ。あまりにも大きなリスク。なぜそれほどまでのリスクを覚悟してまで、明らかに桁外れの実力を秘めているあの悪魔公爵に逆らったというのか。
「未練がましいと思われても仕方ない事だが、やはり私にとってはグローリエンが全てなんだ。そのグローリエンを目の前で傷つけられて黙っていたとしたら、エルフとかデーモンとか言う前に、もっと大事な人としての芯を失ってしまう……それだけは我慢ならなかったんだ」
元々、エルフの隠れ里を出奔したのも、グローリエンを追っての事。ギルドを裏切ったのもグローリエンにあえなく袖にされたことからくる逆恨みであった。
その点では、彼はずっと一貫した行動をとり続けているのだ。紆余曲折はあったものの。
「息子は失ってしまったが、私の全魔力を持って、今からここで奴を迎え撃つ」
「正気ですか!? そんな(一部が)ボロボロの体で! 死んじゃいますよ!!」
リナラゴスは怪我を感じさせぬほどに力強く立ち、通路の先、アストリットが来るであろうその奥を睨みつける。
「私は、男の『魂』とはここにあると考えている」
そう言って自身の股間、すでに失われた棒と、消毒のため焼かれて機能を失った玉を指差す。
「私はすでに一度死んだのだ。ならば余生に過ぎないこの命を、たとえ結ばれることが無くとも愛する女のために使いたい。そうおかしい話ではないだろう」
人は「人格」というものは脳に宿ると考えがちである。しかし実際には副腎や性腺から分泌されるホルモンが大きく人格に影響を与えるのだ。その意味ではリナラゴスの言っていることは全く的外れというわけでもない。
「最後まで、彼女と心が通じ合わなかったことは残念ではあるが……」
苦笑するような表情を見せながら、グローリエンを見る。
その時、つらそうに目をつぶっていたグローリエンが目を開いた。
「私も……行くわ」
「グローリエンさんも? 無理ですよ! その体で!!」
よろよろと立ち上がり、傷口を圧迫していたヴェルニーのマントを剥ぎ取る。ルカの回復魔法もあって、血はすでに止まっているが、しかし失いすぎている。とても戦える状態には見えない。
「グローリエン、私の愛が通じたのか!?」
「触んなバカ! 戦力の逐次投入は愚策よ。魔法で一気に片を付けるんなら、二人でやった方が確実、それだけよ」
だが、この時、ルカもヴェルニーも理解していた。彼女は、死ぬ気だと。アストリットを倒すことにどれほどの勝算があるのか、それが出来るのかどうかも分からない。しかし自分の命を燃やし尽くしてまで、それにあたろうとしているのだと。
「リナラゴスさん……こんなことをするのは良くないのは分かっていますが、これを」
ルカは自分の首からネックレスのようにぶら下げていた小さな袋をリナラゴスに手渡した。
「これは……?」
何が何だか分からないというふうなリナラゴスであったが、グローリエンにはそれが何かすぐに分かった。
「ルカくん、それまさか!?」
「すいません、グローリエンさん。人からもらった物をこんな風に使うのは間違っているのは分かっているんですが、でも、この『お守り』は、今の彼にこそ必要な物なんじゃないか、って思えて……」
そう。その袋の中身は、以前お守りとしてグローリエンがルカに手渡したものである。
「この袋は一体……?」
リナラゴスは袋の中身を開けて見てみるが、暗くて何が入っているのかよく分からない。何も入っていないように見える。ただ、糸くずの様なゴミが入っているだけに見える。これが「お守り」なのか。これは一体どういうことか。
「それは、グローリエンさんの陰毛です」
「!?」
「最低! ルカくんにあげたのに!!」
抗議の意を示すグローリエンではあるが、袋を取り上げようとまではしない。彼女も分かっているのだ。確かに今の彼にこそ、この「お守り」は必要なのだと。
リナラゴスは目を閉じ、袋に鼻を当ててすぅっと息を吸い込む。気持ち悪い。
「森の……故郷の香りがする」
そんなはずがあるか。




