最悪の気分
「最悪の気分よ」
クレッセンシアの着ているワンピースの襟もとは血液でどす黒く汚れており、口の周りには拭いたのであろうが、まだ鮮血がこびりついている。
「クレッセンシア」
「ごめんね、シモネッタ。あなたの仲間を……」
「いえ……いいんです。スケロクさんも納得済みの事ですから」
口ではそう答えるシモネッタではあったが、その内心をはかり知ることは誰にもできない。クレッセンシアは何とも言い難いばつの悪い表情を見せる。ほんの短い時間であったものの、すでに彼女にとってはシモネッタは替えのきかない大事な人となっているようであった。仕方のないこととはいえ、その仲間の死体を目の前で喰う羽目となってしまったのだ。
「その……本当にまるで別人になってしまったみたいで」
シモネッタが初めて彼女に出会ったときは実際にはまだ知能の高い状態ではあったが、そのあとすぐに「食人」の効果がなくなってしまったので、実感としては彼女にとってはクレッセンシアはずっと知能の低い状態だったイメージが強い。
よく理由は分からないものの、シモネッタのあとを子供のようについて回っていたクレッセンシアが、急に大人びた口を利くようになったのだから違和感があるのは仕方あるまい。
「本当に……」
その言葉の先をシモネッタは言うことが出来なかった。本当に「人を喰った」と言おうとしたのか「知能が高くなった」と言おうとしたのか。いずれにしろそれはどちらもデリカシーにかけた発言だろう。クレッセンシアにとっても、シモネッタにとっても。
「クレッセンシアさんとお呼びしていいんでしょうか? 彼女とは、別の人格ということですか?」
まだ気持ちの整理のつかないシモネッタの代わりにハッテンマイヤーが尋ねる。何かを察しているのか、いないのか、メレニーはハッテンマイヤーの腕の中で体を縮めてじっとしていた。
「そうだったらいくらか楽なんだろうけどね……私も、間違いなく正真正銘クレッセンシアよ。あの私も、今の私も、地続きで繋がっている。その、たとえば……」
少し頬を染めて恥ずかしそうに言葉を繋ぐ。
「おっぱいを飲んだ記憶も……あるわよ。恥ずかしい。なんであんなことしちゃったのか……」
なるほど正気になってみれば死ぬほど恥ずかしい記憶であろう。
「そんな事より!」
気恥ずかしさを隠すためか、クレッセンシアは大きな声を出した。周りがどんな状況になっているのかも把握できていない静謐なるダンジョンの中で大声を出すのはいささか非常識ではあるが誰もそれを咎めはしない。
「今からでもヴェルニー達を探す。可能ならばアストリット公爵を倒す。今の私達の目的はこの二つでしょう。犠牲を無駄にはできないわ」
そう。一番重要なのはそこなのだ。
何物にも代えがたい貴重な犠牲だった。そしてそれはもう二度と戻ってはこない。しかしスケロクの能力をクレッセンシアが余すことなく受け継いだというのならば、あの恐ろしく身軽な身体能力を手に入れたというのならば、アストリットに対しても全く勝機が無いというわけではないはずだ。
「どうでしょう? クレッセンシアさん。何か変わった感じはありますか? 知っている限りでは、スケロクさんは魔法だとか特殊能力だとか、そういったものは持っていなかったと思いますが」
「そうね……」
クレッセンシアはその場で軽く跳躍し、二、三回体を捻り、自分の体の感覚を確かめる。少しして、振り返ると、気まずそうにスケロクの遺体だったものに身につけられていた小太刀を拝借して、十数センチほど刀を抜き、刃を目視してから、チン、とそれを鞘に納めて左手に携えた。
「戦えそうでしょうか?」
「ん……」
人は、自らの能力を常に十全に把握しているわけではない。しかし実際クレッセンシアは相手の能力を奪うと、その能力の使い方までもが手に取るように分かるのだ。そしてそれこそが彼女の能力の神髄であるともいえる。
彼女の動きを見てみると、なんとなくスケロクのその戦闘能力の特性を理解しているようには見える。しかしシモネッタの問いかけにははっきりとは答えずに、何となくきまり悪そうに、ふう、と息を吐いてぱたぱたとワンピースの襟元を引っ張って空気を流す。
「なんか……脱ぎたい」
「完璧ですね!!」
何がどう完璧なのかはよく分からないが、とりあえずは大丈夫そうだ。シモネッタは確かにスケロクの精神性を、誇り高き生き様をクレッセンシアの中に見た。
そして一方、スケロク本体の方はもはや肉塊と化してしまい、かろうじて残る体の一部からそれが人間であったと分かる程度にしか形を保持していない。如何に凄腕と言えどもこれが冒険者の末路なのだ。
ダンジョンの通路の床は硬い石づくりで、墓を作ることもできない。このまま自然に任せてスカベンジャーの糧となる他ない。
クレッセンシアはそのもはや原形をとどめていないスケロクの遺体に向かって手を合わせて俯いた。両の掌を合わせるジェスチャーは、洋の東西や時代を分け隔てることなく行われる祈りの姿勢である。
「……ありがとう、スケロク。あんた、変な奴だったね……あたしの人生で、この能力を否定しなかったのは、あんたが初めてだったよ」
「さて」
クレッセンシアのスケロクへの挨拶が終わると、アーセルの怪我の様子を見ていたグラットニィが立ち上がって剣を肩に担ぐ。
「準備はいいな、お前ら? 悪ぃがアーセルの事は戦力として考えんな」
「そんなっ、アニキ、俺は!」
突然の戦力外通告に非難の声を上げるアーセルであるが、みなまで言わせずにグラットニィは手のひらを上げて彼の言葉を制する。
「血も失ってる。痛みもひでぇだろ。おめえの能力は自分の身を守ることだけに使え。いいかお前ら、アーセルの能力は五歩ほどの距離にある影の中に出入りする能力だが、メインの戦闘で使えるとは思うなよ」
「アニキ……」
挙句の果てには冒険者の生命線である能力を周囲に開示してしまうという暴挙に出たが、仕方あるまい。もはや戦力にならないのならば能力を仲間に開示した方が生還確率は上がるだろう。
「おい大女。おめぇある程度はこのダンジョンに詳しいんだろ? おめぇが先頭になってヴェルニー達と合流できそうな地点まで案内しろ」
元々は剛腕一本で世渡りをしてきた冒険者であるが、ヴェルニー不在のこの半年間の経験はグラットニィを確実に成長させていた。
「じじいと人喰い、おめえらは俺と一緒に殿だ。もしもの時はアストリットを迎え撃つ!」




