生きる権利
「喰え、クレッセンシア」
再びその言葉がダンジョンの中に踊る。シモネッタは顔をしかめ、耳を床に当てて周囲を警戒していたクレッセンシアは顔を上げてシモネッタの方を見た。
「喰う……?」
「クレッセンシアは他人の体を喰うことで、その能力と知力を得ることが出来る。この絶望的な状況を抜けるにはそれしかないんじゃ」
「クレッセンシアさんは、そんなことしません!!」
珍しく怒りの表情を隠さないシモネッタ。しかし先ほどとは状況が違うのだ老爺の吟遊詩人ホルヘ・パルドは引き下がらない。
「いいか、よく考えるんじゃ。この状況においてさらに戦力を落とすことになるんじゃぞ! これ以外に何か方法があるか? あるならそれを出すんじゃ」
「で、でも……」
クレッセンシアはホルヘ・パルドとシモネッタを見比べながら拒否の意を示す。
「そんなことしなくっていいんです、クレッセンシアさん。あなただって、普通の人と同じように生きる権利があるんです」
「わたしも、ふつうのひとみたいに……?」
人喰いが世間に憚ることであるのはクレッセンシアも理解している。しかしそれをしないと周りの役に立てないこともよく分かっている。そして「人喰い」という忌むべき行為を好いているシモネッタの目の前でしたくないという気持ちもある。
「普通なんて……人が決めるもんじゃねえよ」
弱々しいスケロクの声。しかし「普通」というものからかけ離れた男の言葉であり、聞く価値はあるだろう。
「それしか方法がねえんなら、やれ。俺を喰え。いいか、誰もが自分の能力を使って、生き残る権利を持ってる。『忌むべきもの』なんてもんは、この世に存在しねぇ」
「で、でも……わたしは」
泣きそうな顔を見せるクレッセンシア。一方スケロクの方は痛みをこらえているのか、それとも煮え切らないクレッセンシアの態度に怒っているのか、眉間にしわを寄せている。そしてもう、脂汗も出てこない程に消耗している。
「わたしは、きっとうまれてくるべきじゃなかった……」
とうとうクレッセンシアは泣き出してしまった。
「わたしは、みんなとちがってバカだし、にんげんをたべないと、まともになれない。きっと、わたしは、うまれてくるべきじゃなかった。だから、ママもわたしをすてたの……」
「くだらねぇ」
もはや蚊の鳴くような声しか出ない。
「本当にくだらねぇ。いいか、この世に『生まれてくるべきじゃない』奴なんて一人もいねぇ。生きることに『いいわけ』なんざ必要ねえんだよ。望まれず生まれ、望まれず生きる、それの何がいけねえってんだ。おめぇは生きてんだろ」
ずるりと通路にもたれかけていた背中が滑り、バランスを崩して倒れそうになるところをハッテンマイヤーが支える。
「スケロクさん、無理にしゃべらない方が……」
「いいんだ。これが最期だ。言わせろ」
しばし呼吸を整えるが、落ち着かず、諦めてスケロクはそのまましゃべりだす。
「生きるのに誰の許可もいらねんだよ。そう生まれたんなら、お前にはそう生きる権利がある。たとえ誰が認めなくても、お前の人生はお前のもん、だ……」
最後の方はもうほとんど聞き取れないほどに小さな声であった。スケロクは歯を食いしばり、力を振り絞って声を紡ぐ。
「俺を喰って、生きろ……お前には、その権利がある……」
「スケロクさん」
「スケロクさんッ!!」
ハッテンマイヤーとシモネッタが同時に叫ぶ。
かくりとスケロクの下あごが垂れ下がり、まぶたを閉じることもできずに半眼開きのまま動きを止めた。
「事切れておる」
小さくホルヘ・パルドが呟く。
「もう、時間がないぞい」
死んで、どれくらいの間までクレッセンシアの能力の対象になるのか、それは誰にも分からない。ただ一つ言えるのは、クレッセンシアがスケロクを喰えば、この閉塞した状況を打開するほどの鍵になる可能性はあるということだけだ。
クレッセンシアはしばらくスケロクの遺体の正面に座って俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その面差しに浮かぶものは、決意か、諦めか。それをはかり知ることは誰にもできない。
「みんな……わたしが、たべるところを、みないで……」
「クレッセンシアさん……」
シモネッタはこの言葉をどんな気持ちで受け止めればいいのか、それが全く分からなかった。
「シモネッタ様、向こうを向いていましょう。さあ、他の人も、周囲の警戒に専念してください。お願いします」
ハッテンマイヤーがそう語りかけると、それぞれが皆、スケロクの遺体とクレッセンシアに背を向けた。
ただ一人、メレニーだけが身を乗り出してスケロクの方に手を差し伸べて喃語を発していたが、ハッテンマイヤーが彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
「いただき……ます」
しばらくして、骨を噛み砕く音と、何やら咀嚼する異様な音だけがダンジョンの中に響いていた。
「一つだけ分かったことがある」
重い沈黙の中、背を向けたままホルヘ・パルドが口を開く。
「奴の『幻術』……あれはおそらく、何か振動波の様なものを発してワシらの認知に干渉しているようじゃ」
「なんか分かったのかじじい」
グラットニィの言葉にホルヘ・パルドは顎髭を梳くように撫でる。
「おそらくは何かの『音』……それによってワシらに幻覚を見せておるようじゃ。細かいところまでは分からんが……」
「チッ、使えねえな」
「だが、分からんでも邪魔をすることぐらいならできるかもしれん」
「本当か?」
「舐めるなよ。ワシは『音』のプロフェッショナルじゃ。次戦う時は、さっきのようにはいかんぞ」
グラットニィとホルヘ・パルドが話し込んでいると、いつの間にか背後の音が消えていることに気づいた。
「終わったのか、クレッセンシア」
ホルヘ・パルドの言葉に彼女は答えない。ただ、うつ向いたまま、もはや肉片となったスケロクの遺体をじっと見ていた。
「どんな気分じゃ? クレッセンシア」
「……言わなくても分かるでしょ。最悪よ」




