はじまりのうた
上半身を起こしたルカの手には一冊の本が握られていた。
大判ではあるが薄い一冊の本。背表紙には何も書かれていない。
「ルカ君、その本はいったいどこに?」
「今、礼拝の姿勢をとった時に、ちょうど顔の真ん前になる場所の、本と本の隙間に挟まっていました。他とは何か、雰囲気の違う本だな、と……」
丁寧な装丁ではあるものの、他の本に比べるとかなり薄い。これは当てずっぽうで探していてはとても見つけることはできなかったであろう。
「中身は……」
とはいえ、この本が本当に『伝言』であるのかどうか。それははっきり言って分からない。ルカが中身をパラパラと確認してみる。
「これ……本じゃないぞ」
一同がぎょっとする。本でなければ何なのか。いずれにしろ『伝言』でないのならばもう一度探しなおしであろうか。
「もうちょっとこれ以上は分からないわよ。一旦コルヴスの所に戻ってどこに『伝言』があるのか聞いてきた方が良くない?」
「いえ、『伝言』はこれです。それは間違いない」
見つけた本を、いや、本ではないらしいのだがパラパラとめくりながらルカが応える。彼が何を言っているのか一同は皆目見当がつかず、困惑するのみであったが、ルカは一通り目を通し終えたのか、その本を開いてヴェルニー達の方に見せた。
「これ、『楽譜』です」
ルカが広げて見せたそれには横軸に何本もの線と、それにいくつもの黒い点が乗っている幾何学模様の集合が記されていた。ヴェルニー達にはそれが何なのかをはかり知る知識はなかったが、これは確かに第七階層でサキュバス達と別れた後に音叉の置いてあった部屋で見た壁の模様に似ている。
「これが『伝言』で間違いなさそうだね」
ヴェルニーは半ば確信をもってこたえた。このダンジョンではこれまでも歌や音が大きなキーアイテムとなってきた。黄金の音叉の事もある。
ダンジョンを攻略する上で間違いなくこの『音』を通じて伝えたいものがあるのだ。それも極力文字に頼らず、たとえ文明が滅んだとしても普遍的に伝わり続けるような形で。
それを考えた場合、紙という媒体を使用したことについては若干不安があるものの、この楽譜が『伝言』である可能性は非常に高い。
いや、確信にも近いものを彼らは持っていた。
「弾いてみてくれるかい? ルカ君」
ヴェルニーに乞われて、ルカは竪琴の弦に指を伸ばす。
「……ん、いや、やっぱり完全な形にはなりませんが」
少し言い訳をしてから、しかし音を奏ではじめる。それは第八階層、凪の谷底のヴィルヘルミナの指揮する冥府の軍団と対峙した時に演奏した曲であった。
「春を知らせる曲、だったか」
しかししばらくするとルカは演奏を止めてしまった。あの曲の歌詞には確かにワルプルガの夜という言葉が入っていた。一万年前という途方もない時間の中ではあるが、歌は残っていたのだろうか。
「音が、違う……」
「そういえばそれは調律の道具だったか」
大きさの違う音叉はそれぞれ六階層の音のどれかを表している。ルカ達の手に入れた音叉は四つ。まだ二つ足りないのだ。
「おそらくは、このうたは、何らかの形でガルダリキとヴァルモウエに伝わって、民謡という形で残っていたんだと思います。でもやっぱり長い時の中で少しずつ変質していった……音も、言葉も……その元々の形がこの楽譜に込められているんでしょうけど」
楽譜に記された音階は六本の線によって表されている。音叉の数と同じである。やはりあと二つの音叉を手に入れなければならない。
「それに、調律だけじゃない。この楽譜には、もう一つ重要な要素が欠けている……」
「それは?」
「時間です」
音楽のテンポを決める重要な要素である。曲全体の早さが変われば音から受ける印象は全くと言っていいほど違う物となる。
普遍的な表現に近いところで音楽のテンポはbpmが一番わかりやすいであろうが、これとて一分間に打つ拍子の回数で表されている。
一分間とは、六十秒である。
では一秒とは何か?
現在の定義ではセシウム133原子が基底状態の二つの超微細構造準位間で遷移する際に放出される電磁波の周期が九一九二六三一七七〇回繰り返される時間、となっている。
その前には地球の自転を基準にして平均的な一日の長さを二十四(時間)で割り、さらに六〇(分)で割り、さらに六〇(秒)で割ったものであった。
つまり、十分な科学力がないと正確な数値を知ることが非常に難しく、もしくは惑星の自転周期に左右される上、どう定義するかを文章で必ず残す必要がある。ましてや星の在りようが大きく変わってしまったヴァルモウエで昔と同じものを使い続けているという保証はどこにもない。
他に武術の世界などでは独立した単位として一呼吸の何分の一だとか一回の脈拍の何分の一という単位が出てくるが、これが一様に時間を決められる単位でないことは説明するまでもないであろう。
「じゃあ、この音叉と楽譜を手に入れたところで、この曲は完成しないってこと?」
グローリエンの問いかけにルカは苦々しい表情を浮かべながらも頷く。
「もし曲が完成すれば、それを聞かせることで何か、バルトロメウスの助力を得られるんじゃないかと思っていたんだが……ん」
音楽や歌というものは言葉よりもはるかに強く人の記憶を揺り動かす。
認知能力とその記憶のほとんどが大きく欠落してしまったバルトロメウスに曲を聞かせれば、昔の事を思い出し、協力してもらえるのではないかと考えていたのである。
しかし最後まで喋る前に、ヴェルニーが呻き声を上げた。
「どうしたんです、ヴェルニーさん? まさか……?」
ヴェルニーは胸を押さえてその場に膝をつく。
「まさか心臓が?」
「いや……」
苦悶の表情を浮かべながら否定の声を上げようとしたが、声が途中で止まる。しかし膝はついたものの両手を床につくほどではなく、ルカの時よりは症状は浅そうではある。
「大丈……」
途中で声を上げるのをやめ、意識を深呼吸に集中させる。やはりルカとは基礎体力というものが違うのだろうか。やがて落ち着くとゆっくりと立ち上がった。
「ごめん、もう大丈夫だ」
「大丈夫ですか、ヴェルニーさん? そうだ、そういえばこの現象のこともコルヴスさんに聞いておくべきだった」
「待ってくれ、僕は」
部屋を出てコルヴスの元に向かおうとしたルカであったが、ヴェルニーが彼の手を引いてそれを止めた。
「僕は、みんなに言わなくちゃいけないことがある」
大きく深呼吸をしてからそう言った。ふざけた調子ではない。何か、重大なことを言おうとしているのがその表情から読み取ることが出来る。
「僕は……冒険者なんかじゃない」




