石像の部屋
部屋の外に出た時、ルカの目にはそれまでと全く違う景色が見えているような気がした。
実際にはそんなことはないのだ。相変わらず視界に入るのは本、本、本。
館の廊下はやはり全て本で出来ており、窓としてところどころに穴が開いてはいるものの、そこから見える外の景色もやはり本。何も変わってなどいないし、本以外には何もない。
外の光を取り入れるための窓であろうが実際には外に光などなく、周囲の本がうっすらと光を発しているのか、それはよく分からないが館の中のどこの場所も本を読むには困らないほどの光が確保されている。
だがそれ以上に世界が輝いているように見えた。
後ろにある部屋の中で、コルヴス・コラックスによって己の無知と、その無知にすら気づいていない傲慢さを思い知らされた。
逆説的ではあるが、己の無知を思い知らされたことで、この世界の広さに気づいたのである。
「三階に行きましょう」
ルカは変わったと、ヴェルニーはその所作から実感した。やはり何が変わったのかを明言することはできなかったが、そう感じ取ったのだ。
ルカはもらった黄金の音叉を手に、本で出来た階段を上る。
結局この屋敷に入って分かったことは何一つなかった。
聞きたいことは色々とあったのだ。一万年前にヴァルモウエとガルダリキの間に何があったのか。ワルプルガとは何者なのか。なぜこんな世界の形となったのか。世界が元の姿に戻る時、どうすれば被害を最小限に抑えられるのか。
尋ねれば、おそらくコルヴスはその全ての答えを持ち合わせている事だろう。勿体ぶりはするものの、回答を拒否などもしないだろう。だがルカ達がそれを尋ねることはなかった。それは何か、邪道なような気がしたからだ。
あるいはそれこそが間違っていて本当は足にかじりついてでもそれを尋ねるべきだったのかもしれない。だが言葉にせずとも「これでいい」と全員が考えたのだ。
「右の、奥の部屋でしたね」
建物は全体が大きなコの字型になっており、右の奥といえば一意的な場所を指す。その部屋の前まで来てルカはもらった黄金の音叉を手に取る。コルヴスはこれが『鍵』だと言っていた。
「音叉を、鳴らせばいいんでしょうか」
音叉の使い方といえば普通はそれが一般的なものだろう。扉には鍵穴もない。ヴェルニーが一歩前に出る。
「分かった。勃〇させるから少し待っていてくれ」
そう言ってゆっくりと目をつぶる。
「いやいやいや、ちょっと待って下さい。何が『分かった』んですか。僕は何も分からないですよ」
そう言ってルカがヴェルニーの太ももを蹴り飛ばす。大分一緒に冒険した期間が長くなってきたからか、彼も大分このパーティーで遠慮のない言動ができるようになってきたようである。
「え……いや、音叉を鳴らすんだよね? 大丈夫。一分もあれば勃〇させられるから」
「ヴェルニーさん、もしかして以前にやった方法が唯一の正しい音叉の鳴らし方だと思ってます?」
「違うのか」
そんな筈があってたまるか。
確かに以前音叉を使った時はハッテンマイヤー以外の全員が両手を使うことが出来なかったために高重力下で仕方なくヴェルニーの勃〇したちん〇んを使って音叉を鳴らしたが、そんなのが「正しい使い方」であってたまるか。第一それでは女性や老人はどうやって使うというのだ。
ルカはヴェルニーを無視して音叉を指の背で叩こうとし、そして異常に気付いた。
「でももう勃〇させてしまったし、是非使ってみてはくれないだろうか」
勃〇しているのだ。
「…………」
ルカは恐怖を覚えた。
全裸が常たるこのパーティーにおいて、意識的に避けられてきた行為。
勃〇。
そう、全裸という非常にセンシティブなユニフォームを強いられているからこそ、どうしても必要なことがない限り、彼らは勃〇を避けてきたのである。
勃〇が必要なシチュエーションとは何だという気がしないでもないが、実際ヴェルニーは音叉を鳴らすときに一度、スケロクはサキュバスと戦った時の目潰しと、第八階層のギミックを解除するための二度、勃〇を使用した。
だが本来これは、とても危険な行為なのだ。
確かに人の命の源なれども、其のちん先は太刀の切っ先であると思うべし。思慮なく振るえば人を傷つける凶器ともなるのだ。読者の皆様もそれを努々忘れる事無きよう。
すぐ隣にグローリエンが阿呆のように突っ立っているが、これは本来非常に危険なことなのだ。
「とりあえず、剣を収めてください」
その切っ先はおそらくグローリエンよりもルカに向いているのだろう。ルカは努めてヴェルニーを気にしないようにし、指の背で音叉を叩く。コォ……ン、と、高い音が響き、波が周囲の本に染み入っていく。
すると扉の用を為していた本がばさばさと崩れ、奥の部屋がその姿を現した。
「結局崩れんならあんま鍵の意味ねえな」
スケロクの言う通りではあるが、あくまでもこの音叉は象徴的な意味なのだろう。
さらに言うならはっきりといってこの部屋への侵入は力づくで本を崩しても同じであろうし、入った後で本を再び積み上げて、誰も入っていないように見せかけることもやはり簡単だろう。
要はこの部屋に今まで誰も入っていないのかどうかは分からない。
コルヴスが言った御褒美が現存しているのかどうかも分からない。
誰かがルカ達に「伝言」をするというのならばそれはおそらく魔竜王バルトロメウスをおいて他にはいないだろう。
この第五階層の時の流れ方がガルダリキのそれと違うとは言っても、一万年前に残した伝言が本当に未だ残っているのかどうか、それを確かめるすべはないのだ。
いずれにしろその部屋への扉は開いた。ルカは慎重にヴェルニーのそれが収まっていることを確認してから部屋の中へと入る。
この屋敷の部屋には共通するある特徴を有する。
それは一見すると部屋に何も無いと錯覚する事である。
壁も調度品も全てが本で出来ているために保護色のように隠れてしまい、入ったばかりの時には部屋に何があるのかよく分からないのだ。
だがその部屋は違った。この第五階層に来て初めて人間以外で本ではないものを視界に納めたのである。
「石像……?」
それは、穏やかな表情の、女性の石像であった。




