知の番人の屋敷
「ひゅー、あぶねえところだったぜ」
薄暗い洞穴の中でスケロクが胸をなでおろす。
「グローリエン、胸の痛みは? もう大丈夫かい?」
ヴェルニーが心配そうに尋ねる。先ほどスプリガンから逃走する際、第四階層に入ったばかりの頃のスケロクと同様にグローリエンの心臓に鋭い痛みが走り、身動きが取れなくなってしまった。いったい彼女の身に何が起こったのか。
「……うん、今は大丈夫。さっきスケロクが言ったのと同じ。今はもう何もなかったかのように痛みが引いてるわ」
「いったいどういうことなんでしょう? まっくら森は特殊な気体がどうのこうのとか言っていたし、そのことで健康被害が出ていたんでしょうか?」
ルカが尋ねるが、しかしそれならばルカとヴェルニーも状況は同じはずなのであるが、彼ら二人には全く胸の痛みなどという症状は出なかった。
グローリエンは静かに鳩尾のあたりを指で押さえて心拍数を確認しているようだ。
「これは多分……」
まだ彼女は脈の確認をしている。つられてスケロクも自分の脈を確認するが、何も異常がないようなのですぐにやめた。
「共鳴現象」
「共鳴? 何と何が?」
共鳴とは、同じ固有振動数を持つ物体が外力を受けたときに影響を受ける現象である。例えば同じ大きさの音叉を二つ並べて片方を鳴らすと、接触していないはずのもう一方も同じ振動数の音を発する。
そして、ルカの質問の通り、心臓が共鳴を起こしたというのならば、もう一方の固有振動数を発した物体は一体どこにあるというのか。
「グローリエン、何か気づいたことがあるなら教えてくれ」
「いや……」
ヴェルニーの質問にグローリエンは逡巡してみせる。
「正しいかどうかは分からない。今のところ私の直感的な想像だけが頼りだし、何よりこの想像があっていたとしても、今の私達には何も対策が打てる状況にない。場を混乱させるだけなら、言わない方がマシだわ」
「気になるな」
何とも煮え切らない彼女の言葉にヴェルニーは不快感を見せたが、しかしグローリエンとしてはこの話はもうこれで打ち切りたいようである。
「行きましょ。とりあえず伯爵のところまで戻れれば謎は解決するはずだし、どちらにしろ急ぐ旅路なのは変わらないでしょう」
それはその通りではある。納得はいかないながらも一行は洞窟の中を明かりを求めて進む。背後は光のないまっくら森。前方は何やら薄暗いながらも光りが見える。
次は第五階層。その先第六階層がカマソッソの言う通りなら冥界に通じているはずである。
つまりはガルダリキ側から数えて第六階層が、ヴァルモウエ側から数えて第八階層に当たることになる。
「そろそろ、洞窟内の雰囲気が変わってきたぜ」
スケロクの言う通り周囲を見てみると岩場の洞穴といった感じだった地面が土っぽくなっているように感じる。そしてその土や壁が、少し発光するように明かりを灯している。
「土じゃない……壁も、なんだこれ、本?」
ルカがぎょっとした表情で壁を撫でる。
果たしてそれはまさに彼の言う通り「本」であった。
壁も地面も、本の表紙や背表紙、紙の束側が見えているところもあれば、まさに開いて中身を見せている本もある。
しかしいずれにしろ共通しているのは、本。全て本なのだ。
「本が踏み固められて、地面になっている?」
乱雑に本がぶちまけられている、という感じではない。しっかりと、床や壁の用をなしている。例えるならばお菓子の家というところか。あれも実在するものではないのでたとえとしては不適切かもしれないが。
しかし壁になっている本を手に取ってみるとそれはオブジェやイミテーションなどではなく、確かに「本」なのだ。
ルカは試しに一冊手に取ってみてパラパラとページを開いてみる。
びっしりと書かれた文字の海。ところどころに流木のように浮かぶ挿絵。何の変哲もない本である。しかし彼はあることに気づいた。
「この文字……ヴァルモウエのものじゃない」
ヴァルモウエには現在三種の文字が現存するものの、ルカの記憶の中では本に書かれているものはそのどれにも当てはまらない、全く知らない文字であった。
「見て、こっちの文字は右から左に向かって書かれてる。これも異世界の本なのかな?」
ヴァルモウエに現存する全ての文字は左から右に、インクが手につかないように横書きで書かれているが、ここには違う物もあるようであった。
これまでの流れを考えれば、おそらくはヴァルモウエのものではない、別の世界の本なのだろう。
「いや、どうやらヴァルモウエのものもあるようだね」
ヴェルニーが壁の中から知っている文字の書かれた背表紙を見つけたようである。
「まさか……あらゆる世界の、本が?」
ごくりと生唾を飲み込みながらルカが呟く。
「見て見ろよ」
先へと進んでいたスケロクが声をかけた。グローリエンが走って彼のいる洞窟の出口まで行き第五階層を目の当たりにする。
「マジ……?」
洞窟の先には巨大な空間が広がっていた。空はなく、ただただ広い空間と、どれほどの高さがあるのかも分からない天井。魔竜王バルトロメウスがすっぽりと収まりそうなほどの。
そしてその大地は、全て本で埋め尽くされていた。
「城……?」
そしてその中央には巨大な城、いや、屋敷といった方が正しいか。とにかく建物がある。
「あの屋敷も、それを取り囲む塀も、全部本で出来てやがるぜ」
常人の倍ほどの視力を誇るスケロクが目を凝らして屋敷を見る。
「カマソッソの野郎がなんか言ってやがったよな? 下の階の奴に聞いてみれば分かるとかなんとかよ」
第四階層の事を聞いた時に、確かに彼はそう言っていた。グローリエンも、どうせ先を進むのなら第五階層の『下の奴』に見えることとなろう、とそれほど気にも留めずに流していたのだが。
「あの屋敷の主人が、おそらくその『下の階の奴』ってことで間違いなさそうだな」
その時は「たいそう物知りな奴がこの先にいるのだろうな」程度にしか思っていなかった一行ではあったが、しかしこうやって眼前に捕らえてみると壮観であった。
世界のありとあらゆることを知っている、と言われても容易く信じてしまいそうな。それほどの説得力を持った佇まい。
まだ見ぬ知の番人を求めて、一行は第五階層を進むこととした。




