脱走
「ルカさん、その仔を捕まえて!!」
子供の動きは緩慢だった。大人に比べて動きが遅いこともあるし、何よりも「迷わず一気に駆け抜ける」という気概が無いように見えた。
元々計画を練っていた脱走ではないのだ。偶発的な事故に過ぎない。おそらく親であろう者達も牢屋から抜け出せないでいる。自分一人で、たった一人で生き延びていくことなどできない。そんな思いもあったのだろう。
とにかく、捕まえようと思えば簡単に出来る素早さであったのは確かだ。だが彼は動けなかった。
「ルカ君!! 約束を守るんだ!!」
ヴェルニーの言葉でハッとして手を伸ばす。家畜小屋を見せてもらう前にした三つの約束のうちの一つ。何かトラブルが起これば協力してこれにあたる事。異国の地において約束を守ることは時には命よりも重い。
横を駆け抜けようとする子供の肩にルカは手をかけた。
まだ十歳くらいの男の子。その手から伝わる肉体の躍動はまさしく自分と同じ生物。
瞬間、ルカは胃の内容物がこみあげてきて夕飯のスープを吐き出してしまった。
子供はルカの手を振り払って逃げようとしたが、それよりも早くヴェルニーがうずくまってしまったルカの背を飛び越えてそれを確保した。
激しく取り乱していたルカに比べればヴェルニー達古参の冒険者たちは冷静であった。
そして、まさにナフェクが危惧していたのは彼らがルカのように情に絆されて家畜の肩を持つのではないかということであり、ルカに限って言えばまさにそれに近い状態になってしまったと言わざるを得ない。
「すいません、ヴェルニーさん。この牢はもう使えないので中の家畜を他の牢に移したいんですが、手伝ってもらえませんか? ああもう、イパーシアはいつまでゴミを捨てに行ってるんだ」
「構いませんよ。元々僕達が原因でしょうしね」
家畜の移動を姿形の似るヴェルニー達に手伝わせるのも酷かと思われたが、背に腹は代えられない。ナフェクの申し出をヴェルニーは快く受け入れた。いや、快くはないだろうが、この事態を引き起こしたのは自分達なのだ。選択肢などない。
「ルカくん、ほら、畜舎の外で休もう」
加工場の匂いが悍ましいものに感じられた。吐き気を押さえてグローリエンとスケロクに支えられながらルカは小屋の外に出た。
「す、すみません。迷惑をかけてしまって」
「ナイーブな奴だぜ」
申し訳なさそうにするルカであるが、心にしこりが残る。しかし残りはするが、どうすることもできないのだ。
「ルカくんは、あの家畜を助けてあげたいと思う?」
「それは……もちろん」
「ナフェクを殺してでも?」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの瞳孔が開いた。
しかし、極端を言えばそういうことなのだ。ヴェルニー達の実力があればそれはたやすい事だろう。だがおそらく家畜を飼っているのはここだけではあるまい。それではこの世界に残って家畜のために革命でも起こすか? 非現実的だ。そもそも家畜達がそれを求めているのかも分からないし、それを理解できるほどの知性があるのかも分からない。
ルカが彼らに知性を感じたのは、思い込みでしかないのだ。
外見を理由に家畜の味方をして、竜人を殺すのならば、それは間違いなく「差別」であろう。
「逆にもしあの家畜が俺達の言葉を知ってて『助けてくれ』と言ったらどちらに味方する?」
「もうっ、スケロク! さらに混乱させるようなこと言わないでよ」
だがルカは考え込む。その場合はどうするのが正解なのだろうか。求められれば助けたいとは思う。だがそもそもこの世界の住人でない自分達が関わっていい問題なのだろうか。関わるも関わらないも「自由」である、と言えばそれまでだが、それは本当に「正しい」事だろうか。
「もしあいつらが、俺たちの世界からここに紛れ込んだ人間の子孫だったら?」
「スケロク!」
それならば、助けるのが正しいように感じられる。だがそもそもルカ自身にはそんな力はない。ヴェルニー達に頼んで、家畜を助け、ナフェクを殺し……そこまで考えてまたルカは揺れ動く。
よくよく考えてみればナフェクには親切にしてもらった恩があるが、家畜達には無い。たまたま居合わせただけだ。偶然外見が自分達に似ているからといって、恩人に剣を向けてまで彼らを助けることが果たして「正しい事」なのか。考えれば考えるほど答えが出なくなってくる。
「でもまあ、そうやって『考え続けること』が大事なことなのかもね。いざという時のためにも」
ルカは自分の手のひらをじっと見た。
さきほどは、子供の肩を掴んだ自分の行動に対して強い忌諱感を抱いたからこそ吐いてしまったのだ。
その時は、それは正しい感情だと思った。
彼は詩人の性か、常々考えていた。「答えの出ない問題は、感覚的な答えが一番正解に近いのだ」と。
しかし考えれば考えるほど、あの時の忌諱感は間違っていたとしか思えない。思考の放棄といっても過言ではない。
答えは出ず、ルカは畜舎の壁を背に、小さな溜息をついてから座り込んだ。自分が疲労していたことを思い出す。
「ん?」
スケロクが何かに気づいた。グローリエンとルカもスケロクが何かに気づいた方向にと視線をやる。
「大変だ、まずいことになった」
ナフェクの妻であるアーラと弟のイパーシアが走って近づいてきた。何やらトラブルでもあったのだろうか、息を切らせている。
「どうかしたんですか、イパーシアさん」
「ゴミ捨て場に行く途中、偶然村の奴らに会っちまって、つい異世界人が来てることを話しちまった」
夜も遅いはず。そもそも竜人の活動時間が日中であるかどうかはさておき、偶然そんなことがあろうか。一瞬その考えがルカの頭をよぎったが、それよりもまずは聞かねばならないことがある。
「何がまずいと?」
「その……俺が詳しくルカ達のことを話したら、興味を示して……」
「イパーシアさん、言葉を濁してるときじゃないです」
何とも歯切れの悪いイパーシアの後ろからアーラが乱入してきた。彼女は何かイパーシアの物言いの理由を知っているのだろう。
「ルカさん達の格好だとか、そんなところまで詳しく話したら『野生に生きてる原種のニンゲンなんじゃないか』とか『独り占めするつもりか』とか言い出して……」
独り占めとは何のことか。混乱するルカを察してアーラは言葉を選ばずに核心を話すことにした。
「あの人達、ルカさん達を食べる気です! 早く逃げて!!」




