嘆きのボイン
「待ちなさい」
憤る衛兵達を止めたのは恰幅の良い中年男性であった。近頃はだいぶ暖かくなってきたが、上品な毛皮の上着を羽織っており、身分の高さをうかがわせる。護衛についている騎士は衛兵達よりもよほど上等な装備を携えているし、なによりもその穏やかな佇まいからくる余裕が只者ではないことを語っていた。
「デディ様」
衛兵達が一歩下がって敬礼の姿勢を取る。
「デディ……マヌンガル? この周辺一帯の領主だ」
スケロクが小さな声で呟く。このジャンカタールの国では土着の有力豪族がそれぞれの土地を治めており、ルカ達のいたトラカント王国と違って爵位による上下はないものの、それでもマヌンガル領といえば国内でも随一の貴族である。
「ヴェルニー殿」
デディは神妙な面持ちで立派な鷹の羽で飾り立てられていた帽子を脱いだ。一方のヴェルニーは泣きはらしており、とてもではないが他人と会話ができる状態ではないので、代わりにグローリエンが前に進み出た。
「我が領内での度重なる衛兵の無礼な振る舞い、陳謝致す」
領主が頭を下げたのだ。それも爵位のある地域で言えば公爵にも相当する人物が。衛兵達は顔面が蒼白になった。「自分達の起こした勝手な行動が領主に頭を下げさせるほどの事態を引き起こしたのだ」とようやく認識したのだろう。
だが、普通であればこんなことはあり得ないのである。
他国の貴族や領主、王族に迷惑をかけたというのならばともかく、グローリエン達は所詮は根無し草の無頼漢。国内では知らぬ者のいないS、Aランクとはいえ、たかが野良犬如き。殺してしまったとて大した問題にはならない。ギルドからの苦情くらいは来ようが。
つまりはそれだけの下心あっての事。そしてその「下心」についてもグローリエンだけはある程度見当をすでにつけているのだ。
「しかし無礼を承知で一つお願いしたいことがあるのです」
「これね?」
デディが言い終わるとすぐにグローリエンが例の素焼きの瓶を掲げた。ルカ達にはこれが何なのかは分からなかったが、実はシモネッタだけはそれについての見当がついていた。
「それは、私の……」
言いかけたところでグローリエンは人差し指を口に当てて彼女を黙らせる。
「もしやそれは、神々の飲料ソーマ」
「違うわ。言ったでしょう。もっといいものよ」
そう言ってグローリエンは瓶のコルクを抜く。ふわりと芳醇な香りが辺りに広がった。
「これは……アルコール?」
「そうよ、ルカくん。五本、いろいろな酵母を試したんだけど成功したのはこれだけだったのよね。万病に効き、死を遠ざけると言われる神々の霊薬、『神酒ハオマ』よ」
「おお!」
その場にいた皆がざわめく。
あれだけ探してもその実体すらつかめなかった神々の飲料ソーマ。それをさらに上回る霊薬をこのエルフの少女が作り出したというのだ。
しかしてその実態は如何なるものかといえば、シモネッタの乳から作られた母乳酒である。
グローリエンは実のところ、彼らの言う『ソーマ』がシモネッタの母乳のことを指しているのだと早い段階から気づいていた。それゆえモンテ・グラッパとの戦いの間、単独行動をとって数種類の酵母菌を集めて母乳を醸造する準備をしていたのである。
古くは神にも通ずると言い伝えられるティターン神族の処女の母乳から作られし命の源、それをエルフの乙女が醸造して作り出した神酒ハオマ。どうだろう。いかにも神性が秘められた神々の霊薬という気がしてこないだろうか。しない? 黙れ。
「グローリエン殿、どうかその神酒ハオマ、譲ってはいただけないでしょうか。実は……」
焦りのあまり脱いだ帽子をクシャクシャに握り潰しながら領主デディが懇願してくる。しかしグローリエンが彼の言葉を遮った。
「知ってるわ。病弱な息子さんにこれを与えたいんでしょう?」
この二週間の間も彼女は遊んでいたわけではない。本来ならばこういった情報収集はスケロクの仕事なのであるが、ネトラレのショックから立ち直れていなかったため、なぜあれほどに衛兵どもがソーマに固執していたのか、その理由を探りまわっていて、領主の息子の件に行き当たったのである。
「いいでしょう。私達が『竜のダンジョン』で手に入れた唯一無二の神酒『ハオマ』、二度と手に入らない貴重なレアアイテムではあるものの、息子を助けたいというあなたの真摯な心に打たれたわ。譲ってあげましょう」
よくもまあここまで吹けるものだ。確かにきっかけは竜のダンジョンではあるものの、元はただの母乳である。手に入れようと思えば毎日手に入る。かかった金は分けてもらった酵母と、素焼きの瓶くらい、せいぜいが銅貨数枚といった程度のところを、まるで世界樹で手に入れた不老不死の霊薬の如く吹きまくる。
「おお、ありがたい!! 此度の恩、末代まで忘れませぬ。おい、ニコ、例の物を」
領主デディは隣にいた従者に声をかけると、なにやら楽器のようなものと袋を持って来させた。
「心ばかりの額ではありますが、こちらをお納めください」
「おほっ♡」
すぐさま後ろを振り向いて中身を確認するグローリエン。ずっしりと重い金貨の入った中を見て思わず下品な声が漏れた。そういうところからバレるんだぞ。
「この楽器は?」
一方ルカはもう一つの贈り物の方に気を取られたようである。
「この竪琴は、我が家に伝わるサンタ・ヴァルブルガと呼ばれている楽器です。代々伝わってきた物ではありますが、武によって身を立てる家であり、我らが持っているよりも、ふさわしき力を持つ人の手に渡った方が良いかと考えまして」
思わぬ収穫である。ヴェルニーのパーティーに吟遊詩人がいるということはどうやら伝わっていたようで、ルカのためにふさわしい贈り物を用意したのだろう。
竪琴というよりは「リラ」と呼ばれる楽器に形が近い。腕に収まる大きさのそれを抱えて、試しに軽く掻き鳴らしてみた。
悲しみまで感じさせるほどに美しい音。しかしそこに異物感はなく、余韻はいつまでも残るのに、空気に溶けていくように心地よい。
「ああ、相変わらずルカ様の奏でる音は素晴らしいですね。母乳が出そう……」
「ねえルカくん、試しに今の心境を、なんか一曲弾いてみてよ」
乞われてルカは、美しく寂しい、そんな音を奏で、弾き語りを始める。
「ボインは……赤ちゃんが吸うためにあるんやで~……」
初夏の訪れを予感させる爽やかなジャンカタールの空に、音が染みていく。
「お父ちゃんのもんと 違うのんやで~……」




