ファントムペイン
「何が起こったんだ!?」
くしゃくしゃに顔を歪めて涙を流しているスケロクの体をヴェルニーが引き起こす。苦痛に歪んだその表情はまるでこの一瞬のうちに十年も年を取ったようにすら見える。
― NTR幻魔拳 ―
寸止めの拳により視床下部に特定のイメージを持った衝撃を与える技。
具体的に説明すると愛する人や親しい人を寝取られるイメージを植え付けることで精神を破壊し、エンドルフィンの禁断症状から異常な発汗、瞳孔の散大、激しい動悸、無力感、鬱勃起などの症状を引き起こす。
たとえどれだけ頑健な身体を持っていたとしても、これを回避することなどできないのだ。
「し、しかし……」
力なく膝をついたままのスケロクの表情をヴェルニーは覗き込む。
「いやそもそもスケロクに好きな人や恋人がいるなんて聞いたことないんだが?」
納得がいかない。そもそもスケロクには「寝取られる人」がいない筈である。全裸時のスケロクは自信に満ち溢れすぎて若干傲慢な印象すら受ける人間であるが、普段の彼は極度のコミュ障で親しい人どころか友人の一人もいない筈である。いったい誰が寝取られるというのか。まさか自分か。
「俺の幻魔拳に死角などない。存在するはずのない恋人を寝取られる痛みを作り出す事すらできる」
なんという恐ろしい能力か。というか本当にこれカラテか。
「うう……存在しない筈の恋人が、存在しない筈のチャラ男に寝取られ……ぐうう、心が痛い……ッ!!」
幻肢痛という現象である。現実に存在するはずのない架空の恋人(幻肢)があたかも存在するかのように感じられ、そしてそれを寝取られるという地獄の苦痛を味わう。
彼は幻魔拳による幻覚からは覚めたようであるが、現実に戻ってきたところで寝取られた恋人は実在しないのでダメージから回復できないようだ。
「なんて恐ろしい……恐ろしい? 恐ろしいんでしょうか? 何なんでしょうこの技」
「だったらてめえが喰らってみな、幻魔拳!!」
寸止めするくらいなら直接殴った方が早くないか。シモネッタは素直な疑問を口にしただけであったが口は禍の元。モンテ・グラッパは雑に幻魔拳を発動した。
――――――――――――――――
「……はっ!?」
質素なつくりの家の中で、リビングのロッキングチェアにてシモネッタは意識を取り戻した。膝の上にはやりかけの編み物が置いてある。
「あれ? 私、何をしてたんだっけ」
うららかな春の陽の光と、緩やかな風が開け放った木窓から入ってくる。シモネッタは椅子に座ったまま編み棒を膝の上に置いて伸びをした。
それでも頭はあまりはっきりとはしなかった。今は一体何年で、自分は何をしていたのか。だがまどろみから覚めたような恍惚の時の中、そんな事はどうでもよく感じられた。
大切なのは、今自分がくつろげる自宅のリビングで、愛する人と、二人の間の娘の帰りを待っていると、ただそれだけのことなのだ。
「ただいま」
どうやら帰ってきたようだ。きしむ音を響かせて扉が開き、愛する夫がリビングに入ってきた。
「おかえりなさい、ルカ。メレニーは一緒じゃなかったの?」
問いかけながらもシモネッタは少しの違和感を受ける。目の前のルカは三十代も後半といったところか。記憶の中ではもっと若かったような……しかしまどろみにふやけた思考の気の迷いだろうとそれを振り払う。
「ここにいるよ、ママ」
そう言ってルカの後ろからメレニーが出てきた。相変わらずのおてんばな格好で髪も短く、まるで男の子のような姿に彼女は思わず苦笑してしまう。しかしそれでも二人で育ててきた自慢の娘だ。ここまで育ててくるのにも、いろいろと苦労した。まあその「いろいろ」の内容ははっきりとは思いだせないが、いろいろあったのだ。
「実は、今日はシモネッタに大事な話があるんだ」
ルカが妙に畏まって姿勢を正すのでシモネッタもつられて上体を起こし、佇まいを整える。
「実はあたしね、パパと結婚することにしたの」
「はぁッ!?」
驚いた衝撃でロッキングチェアがきしみ、彼女の体重を支え切れずに粉々に破壊された。シモネッタは床に尻もちをつく。
「え、だって……親子」
「忘れたのか、シモネッタ。メレニーは僕の本当の娘じゃない」
「ホントは幼馴染だもんね!」
反論をしたいのだが歯の根がかみ合わず、口から言葉が出てこない。そう言われれば、そんなような気もしてきた。
激しく狼狽しているシモネッタをよそに、メレニーはルカの腕に抱き着いた。
「ねぇん、パパぁ♡ あんな巨人ほっといてあたし達の愛の巣に行きましょう♡ 今夜は寝かせないわ♡」
「そうだね、メレニー。じゃあな、シモネッタ。ぽっと出の巨女なんかよりロリ系幼馴染みの方がいいに決まってんだろ。あばよ!!」
「そ、そんな、待って! ルカ!!」
「呼び捨てにすんなボケ。金髪巨乳でいいとこ出の近距離パワー型お嬢様なんて負けヒロイン属性の煮凝りみたいなやつがヒロインづらしてんじゃねえよ! じゃあな!!」
――――――――――――――――
「あああああぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「ど、どうしたんだシモネッタさん、しっかり!!」
先ほどのスケロクと同じように目を開けたまま意識を失って硬直していたシモネッタが突如として涙を流しながら叫び、うずくまった。
やはり何が起きたのかを測りかねたルカは、心配して声をかけるものの、しかし彼女の恐慌状態は収まりそうにない。
「いやああぁぁぁ、娘に寝取られる~~~ッ!!」
「何言ってんの? どういうことなの?」
ルカからすれば言っていること自体が意味不明である。少し落ち着いて小康状態となったシモネッタに、ルカは優しく話しかける。いったい何があったというのか。何に恐怖しているのか。
「ああ……ルカ様……メレニーは、メレニーは私達の娘ですわよね?」
「え、ちがうけど」
「あああああぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
馬鹿正直な男である。しかし彼女の見ていた幻覚を知らないルカにはどうしようもないと言えば、どうしようもないのだ。
「くそっ、モンテ・グラッパ! シモネッタさんに何をした!? 彼女を元に戻せ!!」
「とどめを刺したのはおめえだろうが」
「なんだとッ!?」
「まあいい。お望みならお前も同じ地獄に送ってやるぜ。幻魔拳ッ!!」




