キズモノと呼ばれた伯爵令嬢は
頬の切り傷の跡自体はかなり薄れてきているが、それに付随する皮膚の爛れは色も浅黒く残り、見る人に憐憫の思いを抱かせるには十分だった。相対した人にいちいちそんな思いを持たれるのが辛くて、社交界へと出た時には、初めは扇子をぱらりと開いていたのだが、ずっと顔に翳しているのは腕が辛い。最低限の社交しかしていないとはいえ、とても気を遣う。
そんな気鬱が伝わったのか、遠い異国の踊り子たちがこういう布で顔を半分隠して踊っていたよ、と王弟殿下が教えて下さった。両耳に渡した紐に布を垂らすように縫い付けて、傷跡もついでに口元も隠してしまうと、両手は空くし随分と楽になった。それに気軽に色々な布を試せるので、ドレスに合わせてコーディネートを考えるのも楽しく思えた。いつもわたくしへの気遣いを下さる王弟殿下には感謝しかない。
王弟殿下は現王とは十ほど歳の離れた異母弟としてお生まれになり、男爵令嬢だった実母の身分が低いとはいえ、王位継承権を今でもお持ちになっている。継承権第一位は勿論、わたくしの婚約者である現王第一子の王太子殿下だ。先王は自分の娘と同じ年頃の侍女に手を付けた。王も随分お盛んだと不敬ながら様々な噂があの頃の社交界を席巻したと聞いている。
王太子殿下もその血を受け継いでいるらしく、あちこちで女性との関係を結んでいるという。わたくしが社交界へ出ると、親切心からお耳に入れておきましょう、などというご令嬢方が寄ってくる。お前は所詮キズモノなのだから王太子殿下に相応しくないと言いたいのだろう。概してその手の噂話を囁くのは、同じ年頃の貴族令嬢だった。年頃の娘たちは大抵王太子妃になりたいようで、わたくしへの嫌がらせも随分あったし、それは今でも続いている。しかし最低限の道理を持ち合わせているらしく、殿下はそんなご令嬢たちには手を出さず、後腐れの無いように気を付けているようだった。お相手は高級娼館の娼婦だったり、夫を亡くした未亡人だったり。だが王宮内で働いている侍女や女官を時折り部屋に引っ張り込んでいるという話も耳に挟んだりしている。
それは頑なに、わたくしが身体の関係を拒んでいるからだろう。でも普通はそうでしょう、王家に輿入れする娘が処女性を大事にされるのは当然のこと。初夜の純潔の印を証拠として神殿に提出する必要があるのだから。そんなもの、どうとでもなると言わんばかりだったが、あの日以来、わたくし専属の侍女と護衛騎士がいつ如何なる時も一緒に居て二人きりにならないように守ってくれているのだった。
成人の十六の誕生日を迎えた頃、お前は俺のものだから社交界デビューなどしなくても良いと王太子殿下から突き付けられた。未来の王妃様には社交界と言うものを知っておいて貰わないと、今はともかく将来殿下も困りますよ、と王弟殿下に説得されて渋々受け入れた。夜会などに出席する時には、勿論エスコートをして下さるのだが、そんな晴れやかなものではなく、首に鎖を巻かれているようなエスコートだった。
あの頃の侍女を誑し込むことで、わたくしと二人きりになるように王太子殿下は愚かにも画策した。あの侍女はまず、その頃の護衛騎士に嘘を並べて出任せで外へ遣いに出し、騎士が言われた探し物を探している間に、殿下がわたくしの居る部屋へと入り込んだのだ。しかし待っていたのはわたくしではなく侍女だった。侍女は何を勘違いしたのか、わたくしを違う部屋へと押し込んで自分が殿下と肌を合わせようと待っていたのだ。殿下が大いに騒いだ為、他の護衛騎士に気付かれてしまい、結果わたくしの純潔は保たれた。それ以降、わたくしの乳母の娘である忠実な侍女と、王弟殿下が手配して下さった護衛騎士に守られている。
わたくしとの定期的なお茶会は、徹頭徹尾王太子殿下の不機嫌さが崩れることがなく、侍女と騎士とをじろりと睨んで威嚇するのが常だった。そんなに嫌そうならば、いい加減婚約を執り止めてくれないかしら、とわたくしもうんざりしていた。だが、毎回わたくしの隣にぴたりと寄り添い、その時だけはとろりとした甘い声音で囁くのだ。お前は俺のものだ、お前のようなキズモノは誰にも望まれない、俺だけのものだと。それは呪いの言葉とも悪魔の囁きとも、わたくしには聞こえていた。わたくしの何が殿下の執着を誘うのか、全く理解出来なかった。しかし殿下との婚約を跳ね除けるには、我が家の、伯爵家の家格は低過ぎた。
物心ついた頃には、王太子殿下と婚約していた。その頃にはもう、頬に傷が出来ていた。キズモノになったのだから、誰もお前を望まない、俺が結婚してやるから婚約を結べと一方的に告げられたらしい。痛かった記憶を消してしまったようで、ついでに大事なことも記憶から消え失せてしまい、いつでも何かが欠けているような思いを抱えていた。初めは切り傷だけだったらしいが、日が経つにつれ、その周辺に皮膚の引き攣れや爛れが広がったそうだ。両親は勿論、多くの医師や薬師に頼んで診て戴いたが、何かの毒がナイフの刃に塗られていたのか、さほど綺麗になることもなく、今に至っている。
いつだったか、キズモノだというなら婚約は無かったことにして下さいと懇願したことがあった。途端に平手打ちが飛んできた。横倒しになったわたくしに馬乗りになり、首を手で掴まれて、このまま死ぬんじゃないかと本気で思ったが、護衛騎士に助けられた。騎士様はたいそう憤慨なさったが、下手なことを言うと文字通り首が飛ぶ。すらりと抜かれた剣の前に額ずき、わたくしは王太子殿下に許しを乞い取り縋ってみせた。そうすると少し口元を緩ませ、俺が婚約者だ、俺だけのものだ、とまた昏い囁きが繰り返され、ついでのように頬の傷跡に剣を当てた。ぬらりと温かい血が一筋流れ、傷が上書きされる。その様子を目を細めて満足げに微笑むと、わたくしを抱き寄せて、殿下はその血をぺろりと舐めたのだった。
その後すぐに王弟殿下が部屋に来られたので護衛騎士は命を取られずに済んだ。王太子殿下は王弟殿下に叱責され、鬱陶しそうに王宮へと帰られた。その後、申し訳ない、と王弟殿下は私と騎士様に頭を下げられた。王族に頭を下げられてはこちらが困る、頭を上げて下さいとお願いした。わたくしの新しい傷に痛ましげにそっとハンカチを当てながら、もう我慢ならんと呟いていらした。どうかこの件は有耶無耶にはしないと誓う、私に任せてくれないかと、わたくしの両親にまで頭を下げられていた。頬の新しい傷を見るなり、剣を手に王宮へと走り出さんばかりだった父が、どうにか気持ちを抑え込むのが分かった。
父は言った。わたくしとの婚約を王家側の有責扱いで解消していただくこと、新たな傷を治す為の最高の治療を提供すること、婚約解消することで本当のキズモノになったわたくしの為に新たな婚約者を約束すること。この三点を王弟殿下に迫った。わたくしとしてはもう、婚約者など懲り懲りだったが、父がわたくしのこれから先を思ってのことだと分かっていたので押し黙っていた。王太子殿下のお相手で身も心も疲れ果てていた。お可哀想に、と侍女がわたくしの世話をしてくれた。その時たまたま彼女はお茶の支度をしに、部屋から出ていたのだ。一緒にいたとしたらきっとわたくしの前に出て、王太子殿下の剣に命を散らしていたことだろう。
詳しいことはわたくしには分からない。何も知らされないまま、ほどなくして王太子殿下との婚約は解消となった。そればかりか廃嫡とされ、どこか辺境の離宮へと送られたという噂が流れてきた。国王夫妻も同時に譲位すると宣言されて、つまりは王弟殿下が新しい国王となられたのだ。虐げられていた国民は大いに湧いた。何事も決められず側近の言いなりになりっぱなしの優柔不断な国王と、王妃の果てしない浪費癖に辟易していたのだ。一部の貴族たちに搾取され続けたこの国は、実は破綻の一歩手前だということが広く周知され、それを防いだ新国王を皆で讃え奉った。
即位式は立派なものとなった。大きく見せつけるのも大事なことなんだと新国王陛下はそう言って笑った。王家の有責扱いとなった婚約解消は、引き換えに多額の慰謝料と侯爵位を用意して下さった。身に余ると両親は酷く慌てていたが、長年のわたくしへの償いにどうしても受け取ってほしいと懇願されて、父は折れた。
即位式のお祝いに駆け付けたという隣国の皇太子殿下が、わたくしの為の医師と薬師を帯同していた。医師殿が丹念にわたくしの傷を診て診断を下し、薬師殿がそれを受けて薬を調合して下さった。しばらく続けるとほぼ目立たなくなるだろうと言われて、両親は涙を流して感謝した。わたくしも信じられない思いであったが、日に日に薄くなる傷跡が嘘ではないことを物語っていた。
隣国の皇太子殿下は、この国と隣り合っている領地の辺境伯令息を護衛として連れてきていた。彼はわたくしを見るなり目の前に跪き、許しを請いたいとドレスの裾を持ち上げてそっと唇を寄せた。どうしてそんなことを、と戸惑うわたくしに彼は説明させて下さいと申し出た。
わたくしが消し去っていた記憶、初めの切り傷を負った時にその場に彼もいたという。幼いわたくしの頬にナイフを当てて傷を付けたのはなんと、王太子殿下だったというのだ。どうしてそんなに執着されたのか、それは赤子のわたくしを見た時から始まったらしい。そうして自分だけのものにしたい一心で、頬に傷を付け、キズモノとわざと蔑み、心をも擦り減らされたわたくしに、頼れるのは殿下しかいないのだと歪んだ意識を植え付けた。その頃後ろ盾となっていた、今は爵位を取り上げられ罪人となった侯爵の、悪い囁きだったという。
見習いとは言え騎士だったのに、僕は助けられなかった。貴女は罪もないのに長く苦しむことになった。その謝罪がしたいのです、と彼は跪いて首を垂れている。
その時わたくしの記憶が舞い戻ってきた。そうだ、あれは殿下が付けたのだ。その頃騎士見習いとしてわたくしの側に居た彼は、殿下を止めようとしたが間に合わず、それどころか殿下の罪を押し付けられて国外追放となったのだ。あの時のうっとりとした殿下の仄暗い瞳の色を思い出して、身体が震えた。上手く息が吸えずに口を開けて空気を求めた。目の前が薄暗く思えて、気を抜くとそのまま後ろへと倒れ込みそうになった。
触れることをお許し下さいと、辺境伯令息は立ち上がるとわたくしを優しく包み込んで幼子をあやすようにそっと背中を擦ってくれた。どれ程の時間が流れただろう、いつの間にかわたくしの頬に流れた涙を指で拭って、大きくなられましたね、と微笑んで今度は頭を撫でてくれた。
こうなることを恐れていました、私を見ると記憶が戻り辛い思いをされるのではないかと。彼はそう言ったが、欠けた記憶が戻ってきてぴたりと嵌ったことに、わたくしはようやく安堵し満たされた思いになっていた。この方は、幼い私を守って下さろうとしたのだ。何が怖いものか。辛いものか。
「貴方の名をお聞かせ下さい」
「アンベール・ジュアンと申します」
わたくしの問い掛けに彼はすぐに答えて下さった。端で新国王陛下と皇太子殿下が笑っていらっしゃる。三つ目の約束をこれで果たしたよ、と陛下は満足げに頷いた。
◆
「その部屋に居る者は全員捕らえよ、全員だ。一人も逃すな」
私は大声で指示を出した。怯えた侍従や女官たちを盾にしている王妃が、何様なの、身分卑しい母親の息子が、と自慢の髪を振り乱して叫んでいたが、あっという間に私の手の者に捕らえられた。さて残りはあのふざけた甥っ子だ。やつだけはどうあっても許さない。
思い返せば幼い頃から奇矯な行動が目立つ子だった。虫であれば足をもぎ、小鳥なら羽を毟り、犬猫の場合は尻尾を掴んで振り回した。子どもというのは大人が思うよりも残酷な生き物だ、だがいずれは身体と共に心も成長する。そういう過程を経て命の大切さを学ぶものだ。
しかし甥っ子は、遊び惚ける実母から放置され、王妃の取巻き連中が手配した適当な乳母や侍女に育てられた。散々甘やかされたせいか、大事なものが欠けていた。自分の気に入るもの有らば、傷を付けておくと手元に残るという歪んだ見識を植え付けられていた。初めは小鳥だった。羽を無理に折って大事そうに籠へと入れていた。そうこうするうちに犬や猫などに興味が移る。足の骨を折って満足げに部屋に設えた囲いに運ぶのを見たときには寒気がした。当然私は叱りつけた。だが私の言葉は届かずに、どうして駄目なの、と不思議そうな面持ちで呟いた。
このままでは増長すると考えて、いつも甘やかすだけで躾というものをしようとしない侍女を入れ替え教育係を付けた。だがいつのまにか王妃の取巻きに排除され、まともな価値観が育たないようにされていた。やつらはこの王子を傀儡にするつもりなのか。そう気付いてからは、甥の歪んだ興味が人間に向かわないように気を配っていたつもりだった。
だが、私が四六時中見張っておくことなど出来ない。ある時、王妃の茶会に招待された中に、赤子を連れた伯爵夫人が居た。まだ歩く前の、その可愛い赤子は皆に笑顔を振りまき、大きくなったら大層な美人になるでしょうと褒めそやされていた。母親は嬉しそうに微笑んでいたが、王妃の何気ない言葉に凍り付く。可愛いその子をうちの息子のお相手にどうかしらと。恐れ多いとやんわり断りの言葉を口にしたが、伯爵位の母親にはっきりと拒否など出来るわけもなかった。
そうして王子との面会と相成ったのだ。甥に付けていた騎士が注進に来てくれたお陰で、何かをやらかさないようにとその茶会の場へと急いだ。その時の王子の様子は今でも忘れられない。それはもう、うっとりと飽くことなく眠っている赤子の顔を覗き込んでいた。頭を撫で手を擦り、この子を僕に下さいとまで口にしていた。王妃が何か言う前に私が割って入って、赤子はものではないのですよ、と言い聞かせて早く連れて帰るように母親に促した。
王妃は何やら怒っていたがそれは聞き流して、人間はものではないと甥っ子に説いた。不満げな顔をしていたが、私の前では取り繕ってその場は引き下がった。後で侍女たちに八つ当たりなどしていたらしい。その頃はまだ五歳になるかどうかだったので、子どもが癇癪を起こしているといった程度で済んでいた。しかしこのまま育てば王太子になるのだから、そんな癇癪持ちでは困る。国王にそう進言して改めて教育係をつけ直させた。
それから数年のち、甥っ子はどう言い包めたのか、伯爵家へと頻繁に尋ねて行くようになる。一度気に入ったものは手に入れないと気が済まない性分は、いつかの赤子に対してもそうであったようで、大切に育てられていた彼女の頬をナイフで傷を付けた。そうして、このキズモノは僕が貰う、婚約者とすると言い放ったのだった。
王妃の意向で伯爵家の王家への抗議はなし崩しにもみ消された。その場に居た見習い騎士に自らの罪を擦り付けて彼を国外追放処分とした。私の預かりとなっていた見習い騎士は、隣国の辺境伯の息子だった。私は伯爵家と、見習い騎士の彼と辺境伯である父親に謝罪した。いつの日か、事実を明らかにすると皆に誓った。
私はずっと機を見ていた。自分を律し、勉学に励み、剣術の腕も磨いた。いつの日か役立てるために帝王学も学んだ。そうするうちに、王妃の散財振りがますます派手になり、国の財政を脅かさんとするさまを見ていた。そんな王妃に苦言を呈することも出来ず、私腹を肥やすばかりの側近たちの言葉だけを聞いている国王の情けない姿もを見ていた。そうして国民の気持ちが王家に向かうのを待って、密かに集めていた横領の証拠を突き付け、側近たちを捕らえ、王には退位を、王妃には毒を、そして王太子には廃嫡を言い渡し、この手でその場にて切って捨てた。国王になる者が自ら制裁を下すのは如何なものかと、私を慕う騎士たちが慌てていた。それは申し訳ないと思ったが、どうしても許せなかったのだ。そうして、王太子は遠く離宮へと幽閉されたという噂を流してくれたのだった。
大抵の貴族は私を次の王にと早々に承認してくれた。その取り纏めは娘を傷付けられた伯爵家が行ってくれた。ようやく国の舵を取ることが出来る。これからの立て直しは大変だが、膿は出し切ったつもりだ。王族の人間としてこれまでの王家の罪を背負い、財政難の国を立て直す。この身がどうなろうとやり遂げるだけだ。
隣国の皇太子が協力を申し出てくれた。憤慨していた辺境伯も力を貸してくれるという。いっそ隣国の属国になろうかとも考える。財政的にもその方が何かとやり良いだろう。国民の為に為すべきことを成す。私の仕事はそれだけだ。
「リアーヌ・ムーレヴリエ伯爵令嬢、私が貴女と一生を共にあることを許してくださいますか」
「はい。わたくしで良ければ、共にいさせて下さい」
辺境伯の惣領息子が彼女を希う。傷が癒え、幸せそうに笑う彼女の笑顔がそこにはあった。彼女の笑顔が私の歩く道標となるだろう。
お読みいただきありがとうございました。
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