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伸手  作者: 久志木梓
9/9

九、朝陽

 朝陽(あさひ)が、あたりを照らしておりました。

 はるか遠く西のはての亀茲(きじ)からやってきた僧の仏図澄(ぶっとちょう)は、着ている糞掃衣(ふんぞうえ)の裾をまくり上げ、膝まで洛水(らくすい)の水に浸りながら手を伸ばし、またひとつ、(しかばね)をつかみ、抱え、水から揚げました。

 ふりさけ見れば、都から今も細くたゆらに昇る黒い煙が、城壁にはためく無数の軍旗が見えましたけれども、仏図澄は気にとめることもなく、哀れな屍をひたすら水から揚げるのでした。

 仏図澄がいる洛水の水面には、無数の屍がまだ浮きひしめいておりました。昨晩の争いで亡くなるのに、老若男女、晋人(しんじん)胡人(こじん)のへだてはありませんでしたらから、仏図澄もまた、へだてなく屍を掬い、目を閉じさせ合掌させて経をあげたあと、埋葬しました。

 そうして供養した屍が、幾百幾千となるのか、仏図澄にもわかりません。まだ洛水に水漬(みづ)く屍が、幾千幾万になるかもわかりません。そして、それらはたいしたことではありませんでした。大切なのは、全ての屍を供養しなければならないということだけでした。

 男がひとり、都のほうから走ってまいります。

御坊(ごぼう)

 仏図澄をよぶ男は、さいきん仏門に入ったばかりでした。青々とした剃髪(ていはつ)の頭には、汗が光っております。

「帝は、ついに()にとらわれたそうです」

 仏図澄は、返事をしませんでした。帝も、胡も、仏の前ではみな同じです。男は、まだそういった俗世の区別が、ぬけきらないのです。

 説教をするかわりに、仏図澄は何も答えないまま、供養をつづけました。言葉で諭すよりも、どうあるべきかを行動で示すべきだと思ったからでした。

 男は仏図澄がまるで反応しないのを、不思議がっていましたけれども、仏図澄が掬い抱えた屍を見て、目をむきました。

「御坊」

 動揺して、男は仏図澄をまたよびました。仏図澄が抱えた屍に髭がなく、さらに入れ墨があるのを見て、驚いています。驚いて、嫌悪に近い表情が、その顔に浮かびました。

「そは黥面(げいめん)宦官(かんがん)ですぞ」

 やはりそれも、つまらない俗世の区別にすぎません。男は、あきらかに、屍の生前を勝手に想像しているようでした。黥面の宦官であるから、きっとこうだったのだろうと、妄想をたくましくしているようでした。

 みな同じであるという教えが広まるのは、いつになるでしょうか。人が、区別と思い込みのなく、他人をみとめ共に生きるようになるまで、幾星霜かかるでしょうか。そしてそんな世が到来するまで、どれほどの血が流れるでしょうか。いま洛水に浮いている幾千万の屍は、くり返しくり返し、現れるでしょう。屍になった誰一人として、同じ人はなく、再び生きることもできないというのに。

 仏図澄は、男に構わず屍を抱きかかえ、岸辺へ揚げ、すでに揚げた屍の隣へそっと横たえました。ほかの屍と等しく閉眼させ合掌させ、救われるよう、誠心誠意、祈りました。

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