六、逐鹿
「お、お」
ついに船を洛水のほとりに見いだし、蒙塵の一行は感嘆した。
船は、小舟である。川漁に使われし、古び頼りなき小舟である。それでも一行には、蒙塵を可能にせし唯一の手段である。
「大事なかったか」
人士の一人が、小舟の舫縄を握り座り込む人影を呼ばう。人影は、船を用意すると誓いし義人だと思われた。が、答えない。
「答えよ」
人士が近づき見れば、果たして義人であった人影の喉笛を、一条の矢が貫いていた。
ぐわりと揺れ傾ぎ地へ伏す骸に青ざめる間もなく、
「船が」
舫縄を握る義人の骸を引きずって、船が流れ行かんとす。
飛び出したるは、宦官であった。舫縄を握るも、船は痩せ細った小柄な宦官ごとなおも流れゆかんとす。宦官は止まらぬ船の船べりをつかみ、たたらを踏む足を川岸に踏み張れば、ようやく船はその場に留まった。
「よくやった、宦官」
ある人士が宦官を誉め、
「近づけよ、腰を曲げよ。検める」
矢継ぎ早に命じ、船べりを掴んだまま地面に膝をつき丸まりたる宦官の背を踏み台代わりにし、人士は船へ渡る。
人士は狭い船中を検め、誰も何もないと分かると、
「陛下、どうぞこちらへ」
「許せ」
帝は宦官へ一言賜ってから、人士と同じく宦官の背を踏み船へ渡られた。宦官は喘鳴をあげながら瘦身へ満身の力こめ、玉体を捧げ申し上げた。
「耐えよ、宦官」
また一人船へ渡らんとす人士の足を背に感じ、宦官は再び体に力をこめるも、人士の足の重みは、矢音とともに消ゆ。
宦官は息を呑み、人士の亡骸がどうと地へ倒れてから、恐る恐る頭を挙げた。
「久方ぶりですな、豫章王」
場にそぐわぬ涼やかな、宦官の知らぬ声が、帝を不敬に呼ばう。
宦官が見れば、一騎の騎馬があった。
騎馬の者は、帝を帝と呼ばぬ。豫章王と、日嗣であったときの位で呼ばう。唯一絶対の皇帝であると、認めぬ。そのような者が居るとすれば、それ即ち胡人であると、宦官は理解した。
騎馬の胡人は、冠弁をかぶり衣を右衽に着て、端正な中華の言語を弄した。胡は衽を左前に着るが常であるに、中華の如く右前に着て、形ばかり真似たものよと、宦官は唾棄の念を起こす。中華の人であらば、誰ぞ至尊たる帝を同輩であるがごとく呼ぼうか! また誰ぞ馬上のまま矢を放ちたるばかりの弓を下げ、田猟で会したが如く、
「この劉玄明をお忘れか」
などと名乗ろうものか! 中華の人が如き氏と字の何と不似合いなことよと、宦官は虫唾の走りたるを覚ゆ。
「王武子殿の屋敷で詩吟し、皇堂で射術を競い合いし日を、お忘れですか」
なおも不遜不敬に言い募りたる胡人を、帝は船上にお立ちになり睥睨あそばされる。蒼白たる竜顔に眼光は耿耿とし、怒髪逆巻くご容体である。
「よくも、よくも!」
と帝は胡人を指弾さるるも、指弾されし胡人は
「世の習い、戦の習いではありませぬか」
厚顔無恥に返答す。
「我ら匈奴は貴殿らから受けし所行を、返し仕ったのみ。そも我らともに中原の鹿を逐い、いま貴殿の天命は尽き申した。しかれば帝王の慣例にならい、貴殿を冊封し宗廟を継がせ、臣として迎え入れんがために来たのです」
「痴れ言を!」
帝は忿怒のために震えられながら、胡人を大喝したまい、
「下賤な胡どもの酋長が、どうして我らと比肩す逐鹿の英雄であろうか! またどうして帝王と為らん!」
――誠にその通り。
宦官は溜飲の下がる思いがした。
胡は、胡である。野蛮である。中華より劣っていること、明白である。いま仮に兵事によりて中華を圧迫せしも、その劣りたる本質は、変わりようがない。
玉音を賜いし胡人は瞬息の沈黙ののち、
「やれ」
いかにも胡人らしく、粗暴に命ず。
胡人は、一人ではなかった。後背に侍したる胡軍から、火矢が射られる。燃え上がりし船から、帝は躊躇なく宦官の背を踏み遊ばされ、火中を逃る。宦官は堪らず崩れ、よろめき、水中へ落つ。それを見た人士は悪態をつき、次いで火に燃え移られ悲鳴を挙ぐるや、水へ飛び込む。
宦官は水中にありて、洛水の岸辺へ手を伸ばす。手は空を掻く。衣服は宦官のもがきし四肢へ重くまとわり、水底へ沈めんとす。岸辺では、鹿の群れの逃げ散じたるが如く遁走を試みる帝と残りの人士らを、胡軍どもが逐うている。
宦官は助けを求めて手を伸ばす。手を取る者はなかった。