「カフェ・シュレーディンガーの猫」へようこそ ~帰り道~
帰り道が怖い。
そんな風に感じるようになったのは、いつからだろうか。
私は、証券会社で事務をしている、いわゆるOLだ。
仕事は順調だけど、楽しいというわけでもない。ただ、お金のために仕事をしているだけといった感じだ。
だから、いつも仕事をしている時は早く終わってほしいと思っているし、仕事が終われば上司や同僚の誘いを無視して早く帰りたいと思っている。
それなのに、帰り道が怖いと思うなんて、私自身不思議だ。
会社を出てすぐは、とにかく会社から離れたいという気持ちが強いから、別に怖くない。
電車に乗っている時は、人が多くて嫌だという気持ちが強いから、別に怖くない。
家の最寄り駅で降りた時は、ここからニ十分も歩きたくないという気持ちが強いから、別に怖くない。
怖くなるのは、私が一人暮らしをしているアパートが見えてからの、本当に短い帰り道。もうすぐ家に着くと喜ぶのが普通なのに、そんな所で、何故か私は怖くなってしまうのだ。
今夜も同じだろうか。そう思うと、このまま家に帰りたくなくなってきた。
でも、実家から送られてきた野菜などが余っているから、それを使わないといけないし、どこかで夕飯を食べるという選択はない。
私は酒が苦手だから、居酒屋に寄って軽く酒を飲むという選択もない。
だったら、どうしようかと悩んでいると、一軒の喫茶店を見つけた。
よく寄っているコンビニの隣。こんな所に喫茶店があるなんて、今まで気付かなかった。まあ、あまり喫茶店には行かないし、興味がなかったってことだろう。
だからこそ、この機会に入ってみるのはいいかもしれない。そう思って、私は喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ。『カフェ・シュレーディンガーの猫』へようこそ」
店の中に入ると同時に、カウンターの中から、店員が笑顔で挨拶してきた。
「どうぞ、こちらのカウンター席にお座りください」
中を見ると、客は誰もいなかった。時間帯のせいか、この店が繁盛していないせいか、その理由はわからないけど、客が私だけというのは、むしろ嬉しかった。
店員も一人しかいないようで、パッと顔を見た時、美形だと感じた。ただ、中性的な顔立ちで、女なのか男なのか、判断が難しかった。
声は、女だとしたら低く、男だとしたら高く感じた。服装も、Yシャツにズボンというカジュアルな恰好に、エプロンを着けるという、男女どちらでも着られるようなものだった。
ふと、胸元に名札が付いていることに気付いて、私はカウンター席に座りつつ、何て名前なのか確認した。名前さえわかれば、この店員が女か男かわかるだろう。そう期待したけど、「純」という男女どちらでもありそうな名前で、謎は明らかにならなかった。
歳は若いようで、大学生ぐらいに見えた。そうなると、異性に間違われることにコンプレックスを感じていてもおかしくない。そう思って、女か男か確認するのは、やめておくことにした。
「こちらがメニューです」
「ありがとう」
メニューを見ると、多くの飲み物と、ちょっとした軽食があった。飲み物だけ頼むつもりだったけど、自炊だと案外手間で作らない軽食を見ていると、そちらも頼みたくなってきて、悩んでしまった。
そうして、少し時間を掛けた後、何を頼むか決めた。
「ホットココアと、マフィンをください」
「かしこまりました。ホットココアと、マフィンですね。少々お待ちください」
作り置きされていたマフィンにちょっとした飾り付けがされていく様子と、慣れた手つきでホットココアが注がれる様子を眺めているのは楽しかった。普段、カウンター席に座ることはないし、そもそもこうした喫茶店でないと見られないものだろう。
そうして、待っているというより、それこそパフォーマンスを見ているような気分で過ごしていると、あっという間に、その時間は終わった。
「お待たせしました。ホットココアと、マフィンです」
目の前に置かれたホットココアからは、いい香りがした。
マフィンの方は、チョコソースやホイップクリームで飾り付けされていて、食べるのがもったいないほどキレイだった。
「それじゃあ……いただきます」
普段、外食する時はそんなこと言わずに食べてしまうけど、作ってくれた人が目の前にいるから、自然とそんなことを言っていた。
そして、まずはホットココアを一口飲んだ。同時に、何だか心が落ち着いた。
「美味しいです」
「ありがとうございます」
それから、マフィンを一口食べた。これも美味しくて、思わず笑顔になった。
「マフィンも美味しいです」
「お好みで、チョコソースやホイップクリームを付けて食べてみてください」
言われるまま、今度はチョコソースとホイップクリームを絡めてから食べてみた。正直なところ、甘ったるくなるんじゃないかと思ったけど、甘さを控えめにしているようで、味の変化が楽しかった。
「これも美味しいです」
「ありがとうございます」
この店に寄ってみて、良かった。そう思うと同時に、この後の帰り道が改めて怖くなってきた。
何で怖いのか。
何が怖いのか。
そうした疑問すら、私は怖い。
「何か悩み事でもあるんですか?」
「え?」
唐突な質問を受け、私は戸惑った。
「すいません。何となくわかるというか、ここに来る方は、皆さんそうなんです。人に相談できないような、不思議な悩みを持っている方が、よくここに来るんです」
何を言われているのか、上手く受け入れられない部分はあったけど、そのとおりだった。帰り道が怖いなんて、今まで誰にも相談できなかったし、私自身、不思議な悩みだと感じている。
「良かったら、話してくれませんか?」
だからこそ、そんな風に言われると、話す以外の選択はなかった。
「いつからかわからないんですけど、帰り道が怖いんです。家は、この近くのアパートなんですけど、それが見えた所で、何だか怖くなってしまうんです。その理由がわからないまま、いつも早足で家に帰るんですけど、今日も怖くなってしまうのかなって……」
言いながら、私は何を言っているのだろうかと思った。
「ごめんなさい。こんなこと言われても困りますよね?」
「その家は、袋小路みたいな所にありますか?」
そんな質問をしてきたということは、私の話に興味を持ってくれたということだ。それが、何より嬉しかった。
「袋小路って、行き止まりって意味でしたっけ?」
「自分が聞きたいのは、別の方向から家に帰れるかどうかです。袋小路の所にあったり、道の先が行き止まりだったりしたら、同じ方向からしか帰れませんが、そういう所に家はありますか?」
「家のアパートは、道の途中にあるから、一応どちらからも帰れます。でも、駅や店へ行くのに近い方をいつも選んでいるので、いつも同じ方向から家を出ますし、同じ方向から家に帰ります」
「家を出る時は、怖いと感じないんですか?」
「はい、怖いと感じることはないです」
「そうですか。それなら、解決方法は二つあります。一つは消極的なもので、もう一つは積極的なものです」
そんな前置きのようなことを言われたけど、私は意味がわからなくて、上手く反応できなかった。
「消極的な解決策は、帰り道を変えて、別の方向から帰るようにすることです。ただ、家を出る際は、これまでどおり同じ方向へ出かける方がいいと思います」
「そんなことでいいんですか?」
「恐らく、これだけで帰り道を怖いと感じることは、なくなります」
自信に満ちた様子で言われると、本当にそうなのだろうと思えてきた。
「ただ、これは先ほども言ったとおり、消極的な解決策です。あなたが何に対して怖いと感じているのか、確認しないので、シュレーディンガーの猫と同じですね」
「……それって、この店の名前ですよね? どういう意味なんですか?」
どこかで聞いた気はするけど、「シュレーディンガーの猫」というのがどういうものか、私にはわからなかった。
「簡単に言うと、箱の中に猫を入れて、そこに二分の一の確率で毒ガスが流れる装置を起動するんです。こうすると、箱の中を確認しない限り、箱の中には毒ガスが流れなくて生きている猫と、毒ガスが流れて死んでしまった猫、どちらも存在するということです」
簡単に言ってくれたそうだけど、私は意味がわからなかった。
「知らぬが仏ということわざがありますが、世の中には知らない方がいいこともたくさんあります。なので、消極的な解決策は、何が原因なのか確認しないまま、帰り道を変えることで、怖いと感じることがないようにするものです」
「帰り道を変えるだけで、何が変わるんですか?」
「これは、積極的な解決策とも関係することですが、あなたが怖いと感じているものは、いつも使っている帰り道から見える『何か』だと思います。それは、あなたが住んでいるアパートの壁……だと、さすがに違いますかね。向かいの建物の壁か、アパートの先にあるものが視界に入ることで、あなたは怖いと感じているんだと思います」
そう言われたものの、私は心当たりがなかった。
「別に、いつもの帰り道で、怖いものなんてなかったと思いますけど……?」
「人は視界に入ったものでも、見たくないと強く思うと、それを認識しないそうです。あなたは、いつも怖いと感じる『何か』を目にしながら、それを認識していないんじゃないですか?」
「いえ、そんなこと……」
「それじゃあ、この喫茶店は、いつからここにありましたか?」
不意にそう聞かれたけど、この喫茶店に気付いたのは今日だから、答えに困った。
「人は、案外見ているようで見ていないんです。昨日、ここにこの喫茶店があったかどうかすら、わからないんじゃないですか?」
まさにそのとおりで、私は何も言えなかった。
「だから、帰り道を変えて、怖いと感じている『何か』を見ないようにすれば、怖いと感じることはなくなるというわけです」
「確かに、そうかもしれないですね」
多少遠回りをするだけだし、これなら今日からでもできる。それで解決するなら、願ったり叶ったりだ。だから、早速帰り道を変えようと私は決めた。
「ただ、これは先ほども言ったとおり、消極的な解決策です。一方、積極的な解決策は、何を怖いと思っているか確認することです。今は視界に入った『何か』を認識しないようにしているんだと思います。なので、その『何か』を認識することが、本当の解決になるかと思います」
「そうですよね」
「よくある話ですが、視界の端に黒い何かが映って、ゴキブリかと思いつつ確認したら、単なる壁の染みだったということがあります。そういった形で、何でもないものを怖いと感じている可能性もあります」
そんな経験を私もしたことがあるから、妙に納得できた。
「ただ、本当にゴキブリがいることもあり、店にいる時などは、気付かなければ良かったと思うこともあります。だから、確認しないという選択肢もあることを忘れないでください」
それは、確認することでさらに怖いと感じてしまう「何か」がある可能性を示唆するものだ。それを理解したうえで、私はどうするかを決めた。
それから少しして、ホットココアは飲み終えたし、マフィンも食べ終えた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「ありがとうございます」
そして、会計を済ませると、私は帰ることにした。
とりあえず、帰り道を変えればいい。そんな解決策があるから、帰り道が怖いなんて思いはすっかりなくなっていた。
「話を聞いてくれて、ありがとうございました。また来ます」
「こちらこそ、ありがとうございました。可能でしたら、またお越しください」
最後の言葉と、結局のところ女か男かわからなかったことが気になりつつ、私は店を出た。
そして、言われたとおり、少し遠回りをするように帰り道を変えた。
そうして、普段と反対の方向から、家が見える所まで来た時、特に怖いと感じることはなかった。
それ以降、家を出る時はいつもどおり家を出てから同じ方向に出かけるようにして、帰る時は完全に帰り道を変えた。というのも、家の近くまで真っ直ぐ向かうと、そこからの迂回が面倒なだけでなく、街灯の少ない道を歩く必要があったから、大通りを歩いて帰れる道に変えた。
また、これまで寄っていたコンビニに寄れなくなったから、駅の近くのスーパーで買い物するようになったり、これまで知らなかったお洒落な店を見つけたり、ちょっとした変化がたくさんあった。
でも、一番の変化は、帰り道が怖いと感じなくなったことだ。それだけで、私の毎日は、自然と充実していった。
気持ちに余裕ができたからか、多少遅くなるぐらいならいいかと、他の人を手伝うため、残業する機会が増えた。酒は苦手だと伝えたうえで、上司や同僚の誘いを受けることも増えていった。
そうして、これが消極的な解決策だということを、私はすっかり忘れてしまった。
それは、同僚と飲みに行った次の日のことだ。
慣れない酒を飲んだせいか、普通に寝坊してしまい、慌てて家を出た。その直後、忘れ物に気付いて、私は家に戻った。
そういえば、ここは前に使っていた帰り道であり、怖いと感じていた所だ。そう気付いた瞬間、視界に入った「何か」に私は気付いてしまった。
そうだ。家のアパートの向かいにある建物の壁に「何か」があって、それが怖いと感じていた。だから、その「何か」が何なのか、私は確認しないようにしていた。
でも、ついに私は「何か」を凝視してしまった。
家のアパートの向かいにある建物。その壁には、たくさんの何かがうごめいていた。一瞬、虫がたくさんいるのかと思ったけど、そうじゃなかった。
その壁にあったのは、数え切れないほどの「目」だった。とにかく、人の目と思われるものが、たくさん壁にあって、それがギョロギョロと動いていた。その様子がとにかく気持ち悪くて、私は思わず嘔吐してしまった。
そして、呼吸を整えた後、何かを見間違えたのだろうと、私は改めて問題の壁に目をやった。
そこには、私のことをじっと見つめる、たくさんの目があった。
それを確認して、とにかく私はその場から離れた。
それから、仕事の方はしばらく休みをもらった。
あのアパートには、二度と帰ることなく、すぐに引っ越した。その際、私の荷物を運んでくれた友人には、本当に感謝している。
私の見た「あれ」が何だったのか。何故、あそこに「あれ」があったのか。それはわからないし、わかりたくもない。
このまま、「シュレーディンガーの猫」のように、わからないままでいいと私は思っている。
そういえば、もう一つ不思議なことが残っていた。
何があったかといった経緯を話したかったのと、そのうえで解決策はあるのかと質問したくて、私は「カフェ・シュレーディンガーの猫」を再び訪れることにした。
しかし、その喫茶店があるべき場所には、何もなかった。
これは、空き地になっていたとか、そういう意味じゃない。よく寄っていたコンビニの隣には、古くからあるマンションが存在している。だから、喫茶店があるはずの場所には、元々何の空間もなかったのだ。
はたして、「カフェ・シュレーディンガーの猫」は、本当に存在したのかどうか。
それすら、私にはわからない。