スランプ脱却には小さなきっかけがあれば良い
ところで。エッセイを書くにしても、なにを書けばいいのだろう。
エッセイとか、随筆とか、散文とか。
言い方は色々あれど、自分の体験や考えを自由な形式で文章にしたものだ。ただし、日記とは違い他人様に読まれることを前提に考えなければいけない。
な~んでも描けばいいってものじゃないのよ! ということだ。目に留めていただき、読んでいただくには、読者の好奇心をくすぐるような文章でなければいけない。
あの、わたし、ただ今絶不調のド真ん中にいるのですけど。
そんな人間に、他人様の心を揺さぶるような文章を書ける訳がない。ああ、連載2回目にして「終わった」感が満載だ。なににしても加純さんは下手な絵を描くこと以外は出来ない人間だから、大層な話のネタがあるわけではないのである。
しかし書くとなった以上、話のネタ探しはしなければならない。そうなったら、変わり映えのない生活の中ですっかり鈍ってしまった感覚というアンテナも、動かさざるを得ないのだ。
イヤでもなにかみつけようと、努力だけはするだろう。一応。
文章をひねり出そうと、動かない思考回路を回そうとするだろう。たぶん。
そこだ! その小さな積み重ねの中で小さなきっかけを拾い上げることが出来たなら、それがスランプ脱却の糸口になるかもしれない。
甘い希望? いえいえ。経験からスランプだの憂鬱だのは、ほんの小さなことから憑き物が落ちるように気分が晴れて、抜け出せることは知っている。
例えば、この季節なら梅の木がつぼみを付けた――でもいい。
梅といえば、お隣の庭に梅の木があった。毎年花が咲くのを楽しみにしていたのだが、先日伐採されてしまった。
おじいちゃんが在りし日には、毎日丹精込めて世話をしていたから、春先になるといち早くかわいい花を咲かせていた。しかし住人がいなくなった途端、庭は荒れ始める。雑草の勢いに、金柑の木も椿の木もそして梅の木も呑まれていった。
時折、離れた場所に住む老人のご家族が掃除にやって来るのだが、手入れが行き届かないのは仕方ない。それで遂に先日バッサリ切られてしまったのだが、わたしの中の季節の風物詩がひとつなくなったのだと思うと残念で仕方ない。
根っこは残っているのだから、そこから新しい枝を伸ばしてくれないだろうか。老木にそれだけの生命力が残っていれば、復活もあるかもしれないけれど。
それでもプランターのばらは新芽を付け始めたのだから、春はやって来るのだろう。
まだ脱却できそうにありません。
なので続きます。




