表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/18

プロローグ 「誰にもぶつからない道」

 おぼれるように階段を駆け上がる。ぜえぜえあえぎながらステップを踏みつける。鈍く響いている足音と汚い呼吸が踊り場で混ざり合う。それ以外は聞こえなかった。

 ――消えたい。

 家でも、学校でも、ずっとそう思っていた。母親の前から、同級生の前から、いなくなりたかった。こんなに痛くて苦しい思いをするのなら生まれてきたくなかった。

 二階。三階。四階。残すは屋上へ向かう階段、というところで足を踏み外す。

 とっさに、階段に右手をついて体を支える。傷口に重さが集中し、激しい痛みを感じた。

 ――ぶつからないように生きてきたのに……

 誰かと衝突しそうになったら、黙って下を向き、じっとしてやり過ごす。幼いころに学んだ生き方だ。だから、他人に迷惑をかけていることなんて何ひとつないはず。それなのに相手の方からぶつかってくる。

 ――もう、考えたって仕方ない。

 階段を上りきった場所は、暗く狭い踊り場だった。奥の重そうな金属製の扉から光が筋となって漏れている。引き寄せられるように近づいて、開く。きぃっ、と冷たい音がした。

 そこには、深紅に染められた世界が広がっていた。

 屋上の床を紅く照らす、血のように鮮やかな夕焼け。雲ひとつない空も紅く焦がしている。

 冷たく乾いた風が吹きつける。ここまで駆け上がってきて熱がこもった体に心地よかった。荒かった呼吸もだんだん整い、爽やかな気持ちになる。しかし、痛みに邪魔をされた。

 右手を見ると、血まみれだった。手のひらには、ざっくりと割れた真横に長い傷口がある。それだけじゃない。腕は紫色のあざだらけ。頬には擦り傷があって、ひりひりと痛む。おまけに、髪や服は水びたしで泥だらけだった。

 左手に持ったままだったペティナイフを床に投げ捨てた。もう何も持っていない。カバンも、その中の文房具や教科書とノートも、髪をしばっていたヘアゴムも、校舎裏のあの泥の中だ。

 紅い空と冷たい風に誘われる。落下防止柵に突き当たると、全身の力を使ってよじ登り、向こう側へ降り立つ。

 視界を遮るものは何ひとつない。夕焼け空に溶けてしまいそうだった。

「クレアっ!」

 突然の声に体がすくむ。この声は、メイだ。校舎裏から追いかけてきたのだろうか。最後のさいごまでいじめられたくない。振り向くと、彼女は扉の近くで息を切らしていた。

「なにを、するつもりなの?」メイが問いかける。「答えてよ! クレア」

 知ってどうするつもりなのだろう。いぶかしく思いつつ答えた。

「わたしにここは合わなくて……抜け出したくって、ずっと探していたの。誰にもぶつからない道を……。それで、ようやく見つけたんだ」

「……そんな道、どこにあるの?」

「あるよ。ほら」背後の夕陽を見つめる。「この先に」

 息を呑むほど不気味で美しい空だった。いつまでも見ていられる。

「道なんて、ないよっ!」

「あるんだよっ! こんなに暗くて、痛くて、汚い……ここから抜け出す道が」

 影が、メイのそばまで届いている。その影さえも、傷だらけで泥だらけに見えた。

「危ないよ! 早くこっちに来て!」

 今さら友達のふりをされても困る。彼女のことはもう信じていない。

「いや……」

「落ちちゃうよ!」メイがこちらに近づこうとして一歩踏み出す。

「やめて、来ないで! もう、これ以上いじめないで……」

 メイは一瞬だけ悲しい顔をした。しかし、すぐに何かを決意したかのように、クレアの目をまっすぐ見すえる。さらに一歩、メイが近づいてくる。

 ぞくりとする。一歩後ずさる。

「動いちゃダメっ!」

 もう一歩後ろへ。その足が、踏みしめるものは何もなかった。

「あ……」

「だめっ! クレアっ! やめてぇっ――――」

 下に向かって引っ張られる。夕陽をより近くに感じた。血のように紅い光に包まれている。空を泳ぐような心地よさで一気に加速する。ついに、誰にもぶつからない道にたどり着いた。

 メイの叫びが聞こえる。彼女の声は、間延びするようにいつまでも耳に届いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ