プロローグ 「誰にもぶつからない道」
おぼれるように階段を駆け上がる。ぜえぜえあえぎながらステップを踏みつける。鈍く響いている足音と汚い呼吸が踊り場で混ざり合う。それ以外は聞こえなかった。
――消えたい。
家でも、学校でも、ずっとそう思っていた。母親の前から、同級生の前から、いなくなりたかった。こんなに痛くて苦しい思いをするのなら生まれてきたくなかった。
二階。三階。四階。残すは屋上へ向かう階段、というところで足を踏み外す。
とっさに、階段に右手をついて体を支える。傷口に重さが集中し、激しい痛みを感じた。
――ぶつからないように生きてきたのに……
誰かと衝突しそうになったら、黙って下を向き、じっとしてやり過ごす。幼いころに学んだ生き方だ。だから、他人に迷惑をかけていることなんて何ひとつないはず。それなのに相手の方からぶつかってくる。
――もう、考えたって仕方ない。
階段を上りきった場所は、暗く狭い踊り場だった。奥の重そうな金属製の扉から光が筋となって漏れている。引き寄せられるように近づいて、開く。きぃっ、と冷たい音がした。
そこには、深紅に染められた世界が広がっていた。
屋上の床を紅く照らす、血のように鮮やかな夕焼け。雲ひとつない空も紅く焦がしている。
冷たく乾いた風が吹きつける。ここまで駆け上がってきて熱がこもった体に心地よかった。荒かった呼吸もだんだん整い、爽やかな気持ちになる。しかし、痛みに邪魔をされた。
右手を見ると、血まみれだった。手のひらには、ざっくりと割れた真横に長い傷口がある。それだけじゃない。腕は紫色のあざだらけ。頬には擦り傷があって、ひりひりと痛む。おまけに、髪や服は水びたしで泥だらけだった。
左手に持ったままだったペティナイフを床に投げ捨てた。もう何も持っていない。カバンも、その中の文房具や教科書とノートも、髪をしばっていたヘアゴムも、校舎裏のあの泥の中だ。
紅い空と冷たい風に誘われる。落下防止柵に突き当たると、全身の力を使ってよじ登り、向こう側へ降り立つ。
視界を遮るものは何ひとつない。夕焼け空に溶けてしまいそうだった。
「クレアっ!」
突然の声に体がすくむ。この声は、メイだ。校舎裏から追いかけてきたのだろうか。最後のさいごまでいじめられたくない。振り向くと、彼女は扉の近くで息を切らしていた。
「なにを、するつもりなの?」メイが問いかける。「答えてよ! クレア」
知ってどうするつもりなのだろう。いぶかしく思いつつ答えた。
「わたしにここは合わなくて……抜け出したくって、ずっと探していたの。誰にもぶつからない道を……。それで、ようやく見つけたんだ」
「……そんな道、どこにあるの?」
「あるよ。ほら」背後の夕陽を見つめる。「この先に」
息を呑むほど不気味で美しい空だった。いつまでも見ていられる。
「道なんて、ないよっ!」
「あるんだよっ! こんなに暗くて、痛くて、汚い……ここから抜け出す道が」
影が、メイのそばまで届いている。その影さえも、傷だらけで泥だらけに見えた。
「危ないよ! 早くこっちに来て!」
今さら友達のふりをされても困る。彼女のことはもう信じていない。
「いや……」
「落ちちゃうよ!」メイがこちらに近づこうとして一歩踏み出す。
「やめて、来ないで! もう、これ以上いじめないで……」
メイは一瞬だけ悲しい顔をした。しかし、すぐに何かを決意したかのように、クレアの目をまっすぐ見すえる。さらに一歩、メイが近づいてくる。
ぞくりとする。一歩後ずさる。
「動いちゃダメっ!」
もう一歩後ろへ。その足が、踏みしめるものは何もなかった。
「あ……」
「だめっ! クレアっ! やめてぇっ――――」
下に向かって引っ張られる。夕陽をより近くに感じた。血のように紅い光に包まれている。空を泳ぐような心地よさで一気に加速する。ついに、誰にもぶつからない道にたどり着いた。
メイの叫びが聞こえる。彼女の声は、間延びするようにいつまでも耳に届いていた。