終章 わたしとあなたの物語
さらさらとペンを走らせる。今日はどの辺りまでだろうか、城下の薄暗い酒場、『孤高の牡鹿』亭のくだりぐらいか。窓の外から差し込む光が、デスクの上を明るく照らしている。そろそろ時間だ。できることなら、もうちょっと進めておきたかったのだが。
執務室の扉がノックされた。「どうぞー」なんて言わなくてもすぐに入ってくる。まあ、判ってはいるけどさ。
「失礼します」
高らかに靴音を鳴らして、黒髪の警備兵がデスクの前に立った。凛々しい顔つきに、指先までぴしっと揃えて。北方の守護者を自称する白銀騎士団の騎士にも劣っていない。警備兵は無駄のない動きで敬礼すると、「警護の任務に入ります」と宣言した。
「はい、お願いします」
くるり、と踵を返して、警備兵は室内の所定の位置で気を付けした。気を利かせて椅子を用意しておいたが、一向に座ってくれる気配がない。困ったものだ。侍女の淹れたお茶は飲むくせに。どうにかして、このクソ真面目な仮面を引っぺがしてしまえないものだろうか。
やはり、これを書き進めるしかない。
この警備兵――英雄様は、最近すっかり英雄が板についてしまっている。王国を救った英雄が、王女の警護役を担っているという世間体に押しつぶされないためだ。この英雄様は、王女の警護役に就いた後は、非公式ながら隣国の王族の暗殺計画まで阻止している。普通に考えて、すごい英雄ではないだろうか?
で、そのすごい英雄様っていうのは、やっぱり普通に考えればその王女様と結ばれるものじゃないだろうか?
王女が英雄を自分の傍に置くのは、いい男コレクション。世間から見れば、まあ、そういうことだ。金と権力にものを言わせて、自分にふさわしい男を漁る。もうさ、それでいいじゃん。
英雄様は、残念ながら納得してくれなかった。王女の名誉のためとか言って。別に無理強いはしていない。立場を離れれば、二人が愛し合っていることは判っている。王女が、王女から離れて一人の女性になると、彼の虜。英雄様の方も同じ。お互いに、ただ相手のことを求めるだけの男女になってしまう。
でも、王女は王女であることをやめることはできないし、英雄様も英雄の肩書は消えてなくなるわけじゃない。なんとまあ面倒臭い。こうやって同じ部屋の中で二人っきりでいるというのに、仕事しかできない。こういうのなんて言うんだっけ、オフィスラブ?
だから、これを書いている。王女がいかにして英雄を愛するようになったのか。英雄本人から聞いた話や、王女の体験そのもの。それをまとめて、一つの物語にする。
書き終わったら、本にでもしてもらう。この国だけじゃなくて、広く世界の人たちに読んでもらう。
そして知ってもらう。王女と英雄は、こうして出会い、お互いの気持ちを育んで。今でも愛し合っていますよって。
澄ました顔をして、英雄様は今日も執務室の隅っこで突っ立っている。そうしていられるのも今の内だ。せっかく好きな相手同士で、毎日二人で顔を合わせているっていうのに。こんな生殺しみたいな関係は、真っ平ゴメンだ。
英雄には、もっとふさわしい立ち位置がある。王女の横で、しっかりと並び立ってもらわなければ・・・
ふと目があった。そうしたら、今日に限ってにっこりと笑ってくれた。う、やめてよ、こんな時だけ。
視線を逸らしたら、英雄の左手首に巻かれた、鎖のブレスレットが視界に入った。二人を結びつけた、大事な絆。
そうだ、王女と英雄じゃなくっても、二人は愛し合っている。結ばれたいと思っている。
その気持ちを、物語にする。そして、誰にも後ろ指をさされることなく。
二人は、結婚するんだ。何回も書いているけど、そもそも姫様なんてむいてないんだから。
心地良い風が、窓の外から入り込んでくる。ルイザの赤毛が、ふわり、と揺れた。リゼリアに来てからは、結ばずに伸ばすようにしていた。以前、パメラにすいてもらった時ほどではないが、きらきらとしていて、自分では気に入っている。
手にした本にしおりを挟んで、そっと閉じた。メリアには本当に困ったものだ。ルイザの気持ちを、好き勝手に解釈して。これ以上は恥ずかしくて読んでいられない。カリムが手にも取ろうとしないのがよく判る。
外を見ると、目がくらむばかりの緑が広がっている。リゼリアの自然は美しい。レビンの言う通り、良いところだと思う。ここに住んでしばらく経つが、ルイザはリゼリアという国を愛せそうだった。
帝国からの侵攻は、もう何年も起きていなかった。帝国内では度重なる反乱が発生し、帝国から分裂して幾つかの小国ができた。アークライト王国はそれらの国を支援し、国交を持っている。義勇兵団の働きもあり、帝国は反攻勢力に包囲され、国土を防衛する側になりつつあった。
軍事力のバランスの変化によって、騎士団はその役目を変えつつあった。新しい秩序の中で、騎士たちが担うべきことは何なのか。今はまだ、試行錯誤の段階だ。
そんな、勢力が弱まってきた騎士団を庇護しているのは、なんとアークライト王国だ。騎士団領に援助を申し出て、アークライト王国は騎士団に多大な恩を売っている。恐らくはメリアのアイデアだろう。大した王女様だ。
「ルイザ」
カリムの声がして、ルイザは慌てて立ち上がった。もうそんな時間なのか。本を読んで、遠い記憶に思いふけっていたら、あっという間だった。この本は危ない。しばらく触れないようにしておこう。
外に出ると、カリムが馬を繋いでいるところだった。湖の近くにあるこの家は、リゼリアの城下町からは少し離れている。その分静かで、とても落ち着く。この場所をあてがってくれたレビンに、ルイザはとても感謝していた。
今日は、街まで買い出しに行く日だった。カリムがルイザの方を向く。風が渡っていって、世界がざわざわと揺らめいた。カリムの金色の髪が、太陽の光を受けてきらめく。あまりの眩しさに、ルイザは目を細めた。
「おかえりなさい、カリム」
「ただいま、調子はどうだい」
カリムに言われて、ルイザはそっと下腹に触れた。まだそんなに目立たないが、少しずつ膨らんできているのは判る。先ほどまで読んでいた本の内容を思い出して、ルイザは暖かい笑みが込み上げてきた。カリムと二人で劇を観に行って、お姫様みたいだってはしゃいでいた自分がいたなんて、想像もつかない。
「特に困ったことはないわ」
ルイザの返事を聞いて、カリムは明るくうなずいた。ルイザの大切な人。お互いに支え合って、共に歩いていく、人生の伴侶。
「今度、メリア様がこちらの城にいらっしゃるらしい」
「メリア様が?」
ルイザは頬を赤くした。メリアとはたまに手紙のやり取りをしていたが、カリムとのこと、特にお腹の子供のことは、まだメリアには報告していなかった。メリアが知ったら何と言うだろうか。散々冷やかされるに違いない。
なにしろ、あんな本を書いて、自分の結婚の正当性を世の中に訴え出るような人だ。増版されたら終章のオチに使われるのが目に見えている。
ルイザの様子を見て、カリムは微笑んだ。少し風が冷たい。ルイザの横に立つと、カリムはその肩を優しく抱いた。
「この子の名付け親になってもらおう」
懐かしい、アークライト城での日々。メリアがいて、パメラがいて、ウィルがいて。とても美しくて、輝いていて。
長い間忘れていた涙が、またこぼれ落ちそうになるのを、ルイザは必死にこらえた。
こんなに嬉しいのに、泣きそうになってしまうなんて。
ルイザはとてもおかしくて、可笑しかった。
これは、わたしとあなたの物語。継ぎ足された鎖のように、あなたと紡いだ、運命と絆の物語。
わたしとあなたが、結ばれるための物語。
愛するあなたへ、更なる愛を込めて。