第十三章 この手の中に
暗闇に包まれた回廊を、騎士長デイルは足早に進んでいた。このぐらいの事態になることは、想定の範囲内だ。ルイザは腕は立つだろうが、それでも所詮は半人前の従士。うまくいくと思う方がどうかしている。
問題はその後の展開だった。ルイザを帝国の間者であると、カリムが宣言するかどうか。あれにはこれまで、騎士団の一員としてしっかりと教育を施してきた。それは今回のような汚れ仕事があることもまた、見越してのことだ。
カリムはメリアにすっかり心を奪われている様子だし、ウィルとかいう邪魔者の存在で焦りもしているだろう。自らの従士を手に掛けるのは辛いことかもしれないが、それが騎士団の反映や自身の明るい未来に繋がるということが、解らないような大馬鹿でもあるまい。
額面だけの正義で、北方の平和を守ることなどできないのだ。
今でこそ帝国は大人しく巣穴の奥に引っ込んでくれているが、これが再び動き出すようなことがあればどうなると思っているのか。帝国と戦争になれば、アークライトはその最前線になる。ここで騎士団が強い権勢を誇ることには、重要な意味があるのだ。
「そこを履き違えるなよ、カリムよ」
メリアの警護の任に当たるのであれば、それだけの広い視野を持って動かねばならない。メリアと愛を語らうのも結構だが、そのためには切り捨てなければならないものが無数に出てくる。それは己に付き従う従順な部下、従士であるかもしれないし。
あるいはどこからともなく現れた、無名の義勇兵団の男かもしれないのだ。
見張り役から聞いた話では、ルイザの暗殺を止めたのはカリムとウィルの両名であったらしかった。カリムには騎士団領に赴くように指示していたはずなのだが、どうやら何かを感じ取って引き返してきてしまったのか。その勘の良さは、時として致命的に働くこともあるだろう。ルイザは、毒による自死も阻止されたということだ。こうなれば、後はカリムの騎士団への忠誠が試されることになる。
この城の中で、レビンの暗殺計画を知る者は少ない。騎士団でも、限られた数名だけが関わっている。見張り役の男には、即刻城から出るように命じておいた。後はデイル自身がいなくなれば良い。後は誰が話を振られようが、知らぬ存ぜぬで押し通せる。デイル自身に関しては、ほとぼりが冷めた頃にのうのうと城に戻るだけだった。
デイルが今早足に歩いているのは、厩に通じる隠し通路だ。城の中には、こういった人目につかない移動経路が無数に存在している。何年も城暮らしを続けていれば、こういった知識は自然と蓄えられていくことになる。やはり、アークライトには騎士団が必要だ。騎士団でなければ、この城についてここまで知り尽くしていることはできない・・・
「よお、こんな時間にどちらまでいかれますかね?」
声が耳に入るのとほぼ同時に、デイルは抜剣していた。驚きがなかったわけではない。こういうものは、もはや反射として形成されている。虫が止まれば、叩く。前髪が垂れ下がれば、払う。それに近い、一連の動作が完成されている。
自身の行く手を遮る者がいれば、それは敵だ。敵は討ち果たさなければならない。特に本件に関しては、判断の遅れは計画全体の失敗に直結する。
リゼリアごとき小国の王子がどうなろうが、知ったことではなかった。全ては騎士団、北方全土の未来がかかっている。それに比べれば、人の命の一つ二つなど軽い。デイルの計画を遂行するためには、名もなき有象無象程度には黙って死んでいってもらいたかった。
金属のぶつかる、硬質な音が鳴り響いた。遅れて、衝撃が腕を伝って肩にまで届く。弾かれた。手加減なしの、神速の一撃であったはずなのに。
何もかもが上手くいかない。それもこれも、全てこの男が現れたせいだ。
「いきなりとはまた、あまりにもごあいさつではないですかね」
「君ごときと交わす言葉は持ち合わせていないのだよ、声が大きいだけの英雄君」
ウィル・クラウド。義勇兵団の、救国の英雄。
アークライトを救ってくれたことには礼を言うが、騎士団の事情には正直口を挟まないでいただきたかった。
ルイザの口の中から毒袋を取り出した時、ウィルは視界の隅に何者かの影を捉えていた。暗殺者が独りではない。その可能性については、すでに考えを巡らせていた。問題は、もう一人の役回りだ。
ルイザに気を取られている間に、暗殺対象であるレビンの命を狙うか。あるいは、証拠隠滅のためにルイザの口を封じようとするか。
ウィルが気配を探っていると、どうやらそいつは監視することだけが任務であるらしかった。ルイザを運ぶ際にも、距離を開けて尾いてくる。メリアの執務室が近づいてきた段階で、そいつはようやくその場を離れる動きを見せた。
――誰かに報告するのか。
犯人は城の中にいる。しかも、能動的にルイザを動かせる立場にあるとすれば、騎士団の関係者が濃厚だ。ウィルは素早く行動した。証拠を掴むなら、今しかない。そいつがどこに向かうのかが判れば、この謀の全容を知れる可能性があった。
果たして、そいつは妙に周囲を気にしている素振りを見せながらも、後をつけるウィルには気が付きもしなかった。素振りからするに、素人であるとは思えない。城の中を、まるで勝手知ったるが如くに迷わず進んでいく。最終的に、そいつは騎士長デイルの部屋に駆け込んだ。想像していたとはいえ、やはり騎士団の関係者だったということだ。ウィルは緊張して唾を飲み込んだ。
そのまま部屋が見える位置で張っていると、数分後に扉が開いてデイルが姿を表した。部屋の中の灯りは全て消えている。これから外出する様子だ。見張りらしき男とは別の方向に歩き出したので、ウィルはここで追跡の対象を切り替えた。ここは、天辺から抑えておく必要がある。下っ端なんて何人とっ捕まえたところで、トカゲの尻尾のように切り捨てられてしまうのがオチだろう。
早足のデイルが進む先に、ウィルは心当たりがあった。大変残念なことに、この道はメリアが城からの脱出経路として頻繁に利用していると、パメラからがっつりと叩き込まれていた隠し通路だった。
「とんだお粗末だな」
出口が判っているのなら、先回りすることは容易い。人目につかないのであれば、冥土の土産とばかりにぺらぺらと口を割ってくれることも期待できる。
デイルの前に立ってひと声かけて。それに応えるようにして、必殺の剣戟が飛んできたところで。ウィルの疑念は確信へと昇華した。
騎士長殿は、クロだ。
猛烈な速度で、デイルの剣先がウィルのすぐ目の前を掠めた。デイルはもうそろそろ齢五十に近いはずだ。体力的に、衰えが見え始めてもおかしくはない。
だが、そこは白銀騎士団の騎士長を務めているだけのことはある。先程受けた一撃を思い返しても、カリムに全く劣らない実力の持ち主であることが推し量れた。
デイルの持つ戦闘能力がカリムに匹敵するとなると、状況はウィルにとってはあまり芳しいとは言えなかった。まず、増援が望めないままに、一対一の対決を継続しなければならないということ。デイルには大事にしたくないという思いがあるだろうから、援護を得られないという点では互角ではあるだろう。ただ、純粋に技量のぶつかり合いとなった場合には、現状はいささか不利であると認めざるを得なかった。
地の利の方も、正直あまり良くはない。狭い隠し通路の中では、大振りの攻撃は繰り出せない。老獪なデイルの剣は、最小限の動きで、最大限の破壊力を乗せてくる。対するウィルの方は、せめて両手を広げて振り回せるくらいの空間がなければ、全力を出して戦えるとは言い難かった。
「ウィル・クラウド、貴様が騎士団に入っていれば、このような結果にはならなかったかも知れぬのだがな」
デイルの口から、忌々しげな言葉が滲み出た。アークライト城に、最初からカリムではなくウィルがメリアの警護兵として採用されていたのであれば。メリアと感動の再開を果たした後に、そのまま二人は結ばれていただろうか。
そうなればカリムの苦しみも、ルイザの悲しみも生じなかったのか。
いや、そうではない。
「ふざけたことを言ってるんじゃないぞ」
騎士団にいては、アークライトを守ることはできなかった。アークライト城を守ったのは、義勇兵団のウィル・クラウドだ。城に残された騎士団は、籠城戦の準備を進めていた。メリアの話では、最後の一人になるまで戦う覚悟でいたのだという。
それで、メリアは守れたのか?
メリアの愛するアークライト王国は、守ることができたのか?
「騎士団こそが、帝国からの侵略を守る唯一の力なのだ。義勇兵団などという間に合せの軍隊など、すぐに瓦解する」
石壁にデイルの剣が当たり、火花が飛び散った。ウィルも必死に応戦するが、デイルの動きを捉えきれない。少しずつだが、押されてきている。デイルの口元が醜く歪んだのを見て。
「違う、そうじゃない」
ウィルは剣を逆手に持ち替えた。
「騎士団の時代は終わるんだ。俺はそれを、あの日、帝国との戦いの中で見たんだ」
帝国の軍勢を前に、ウィルが「護れ」と叫びを上げた時。それに応える、数多の雄叫びをウィルは聞いた。それは自軍の中からにとどまらず、相対する帝国の軍勢の中からも、ウィルの知らない国の言葉でさえも聞こえてきた。
帝国によって潰され、圧政を敷かれた被征服民の男たちが、武器を高く掲げて吠えていた。護るべきものは、自らの手で護る。それは、帝国という力を打ち破って生まれた、新たな秩序であるとウィルは感じた。
強い力に頼る時代は終わった。それは帝国であっても、騎士団であっても同じことだ。アークライトという国を護るのは、騎士団だけではない。他ならない、アークライトの国の民、アークライトという国を愛する人々の努めなのだ。
メリアが大切にしているアークライトを、騎士団なら護れるのか。答えは、否、だ。騎士団がいて、あの孤児院の子供たちの笑顔を護れたか? カリムとルイザを護れたか?
騎士団の体裁と繁栄だけを考えるような者たちに、メリアのアークライト王国を護れたのか?
「戯言を!」
デイルの剣が閃いた。右からウィルの剣をはたき落とそうと打ち込んでくる。それを受けようと構えたところで、軌道が鋭角的に切り替わった。
刃が下から、ウィルの左手首を切り上げる。受けることも、避けることも間に合わない。これが決まれば致命傷となる。デイルが勝利を確認した次の瞬間。
デイルの剣は、強い力で弾かれた。
「なっ・・・!」
「これが新しい時代の、象徴だ」
ウィルの左手には、金と鉄が組み合わされた奇妙な鎖が巻かれていた。デイルの剣はその隙間に挟まり、予期せぬ抵抗にあって幾つかの破片に砕け散った。
一瞬の隙を突いて、ウィルはデイルの腹部に蹴りを入れた。ぐぅ、と短い呻き声を上げて、デイルは後ろに吹き飛んだ。流石にそこは年相応か。防御のために筋肉を鍛えておくことには、限界があったということだ。ウィルは油断せずにデイルの傍らに駆け寄ると、その眼前に剣の切っ先を突き付けた。
「デイル・ファーガソン、リゼリア王族の暗殺計画を企てた罪で、貴方を逮捕します」
デイルは、ぴくりとも動かなかった。
数日が経ち、アークライト城の中はいつものような平和な空気に包まれていた。
騎士長デイルの逮捕は城内をどよめかす一大事となったが、それを的確な指示と統率で収めたのが、デイルの息子でもあるカリムだった。カリムはルイザの証言からデイルの企みを全て知りえたとし、今は調査と今後のアークライト王国との関係修復ため騎士団領に戻っている。従士であるルイザも、当然その補佐を務めることとなった。騎士団領に旅立つ前、メリアに謁見したカリムとルイザの顔は実に晴れやかった。
警護担当が当分の間は一人となって、ウィルは一日中メリアと一緒にいることになった。メリアは嬉しそうだったが、パメラも睨んでくるし、警備兵としての建前もある。あんまり自由にサボらせるのもどうかと思って、ウィルはメリアに対して今までよりも少し厳しめに対処することにした。そうでなくても、一人だけの警護担当なのだ。なんやかやと言われるのは目に見えている。
「別に、そんなの今更だよ」
メリアはそう言って抗議してきた。確かに、メリア直々のご指名に近い感じで城に入って、いきなり抱擁までされているのだ。目障りな騎士団のいない間に、やりたい放題と見て取れないこともない。メリアによると、国王の耳にまで入っているという話だった。ウィルは真っ青になったが、メリアは楽しそうだった。
「お父様には『義勇兵団の』ではなくて『英雄』ウィル・クラウドとして評価している、とお伝えしているよ」
やはり肩書は必要か。それなら英雄として恥じない態度であるべきだろう。ウィルはメリアの抗議を却下して、きちんと公務をおこなわせるようにした。メリアを甘やかすような英雄が傍にいるなど、騎士団領にいるカリムの耳に入ったら後々激怒されてしまうことになる。
その代わり、メリアへの気持ちは隠さないことにした。立場とは別に、感情がある。ウィルは、メリアのことを愛している。そのことはきちんと伝えておくべきだ。
たまっていた決裁が一段落したうららかな午後、ウィルはメリアと共に中庭の花園を訪れた。きちんと仕事をすれば、そのご褒美として少しばかりの自由時間を設けることにしている。パメラもそのぐらいの息抜きは許可してくれた。メリアは性格上、締め付けすぎると反動でとんでもないことをしでかす傾向にある。定期的なガス抜きは必要不可欠だ。
以前レビンと歓談した花の海を、今度はウィルとメリアが並んで歩いている。ほとんど訪れる者がいない花園は、二人の貸切状態だった。色とりどりの花びらの中に立つメリアは、きらきらとしていて、まるで妖精の女王のようだ。白金ブロンドが柔らかく揺れる。いつも近くにいるのに、少し立場から離れるだけで、こんなに眩しく感じられるものなのか。メリアの美しさに、ウィルはすっかり心を奪われた。
「そういえば、レビン様とはここで何を話してたんだ?」
ウィルに訊かれて、メリアは記憶を手繰る素振りをして。
「ああ、えーっとね」
軽く言葉を濁してから、そっとウィルの左手を取った。
「私に、好きな人がいるって、話」
へへ、とメリアは笑った。公務では決して見せない、メリアの笑顔。ウィルの左手首で、鎖が、ちゃり、と音を立てた。金と鉄が一つに絡まり合った、二人の絆。一つになった、メリアとウィル。
森で出会った女の子を、ウィルはずっと追いかけてきた。あの時護りきれなかったことを、ずっと後悔していた。ウィルは、どうしても彼女を自分の力で護りたかった。何故なら。
「メリア様」
「ウィル、今は自由時間。立場を離れるんでしょう?」
アイスブルーの瞳。最初にこの眼に見つめられた時から、ウィルは想い焦がれてきた。メリアの近くにいたい。この瞳を、いつまでも見ていたい。ウィルの姿を映していてほしい。
「じゃあ、メリア」
久しぶりに呼び捨てにして、ウィルは逆に違和感を覚えた。メリアも同じだったのか、くすくすと笑っている。そんな顔も、第二王女の時には見せないものだ。無防備で、全てをさらけ出して。
まるで、あの森の中で出会った時みたいに。
「ウィル・クラウド」
メリアはウィルの名を呼んだ。その名前を忘れたことはなかった。メリアにとってその名前は特別で。他の誰とも等価ではない。
「覚えていますか? 子供の頃のこと」
光り輝く木漏れ日の下で、少年は少女に出会った。
シルクの白いワンピースに、金の鎖のブレスレット。太陽の光を受けて、きらきらと輝く白金ブロンドの髪。少年は、森の妖精に出会ったのかと思った。
にっこりと微笑んで、「この辺りの子?」と質問されて、ようやく人間だと判った。ただ、少女は少年が今までに見たこともないくらいに綺麗で、まるで身体が光でできているようだった。
「魚を捕る罠を見に行くところだったんだ」
ウィルの言葉に、メリアはうなずいた。
「そうそう。私、とっても興味があってね」
川の中に仕掛けられた、細長い筒を少年は拾い上げた。片方は網で塞がれていて、もう片方はちょっとしたバネ仕掛けで、通り抜けると蓋が閉じるようになっている。川岸に運んで蓋を開けると、中から銀色に光る魚がこぼれ落ちた。
ぱたぱたと撥ねるその姿に、少女は目を輝かせた。
「あの後、さばいて焼いて食べたんだったか」
「私、手伝うって言ったらウィルに驚かれた」
「そんなことをするようには見えなかったからな」
帰る場所がないという少女に、少年は困りあぐねた。村に連れて行こうとしたが、少女はそれを拒んだ。あまり人には見つかりたくないらしい。仕方なく、少年は森の奥にある山小屋に少女を案内することにした。
「よく俺についてこようとか思ったな」
「食べ物をくれる人に、悪い人はいないわ」
「それでよく今まで誘拐されなかったもんだ」
「ふふ、これでも、人を見る目はあるのよ」
木の上になっている実を、少年が登って採ってきた。少女は自分もやると言って、白いワンピースが汚れるのも構わずに木に登った。並んで枝に腰かけて、木の実をかじって。二人は笑った。
「少なくとも、ポスラの村にはそんなことをする女の子はいなかったよ」
「美味しいのにね」
メリアの返事に、ウィルは呆れ返った。
陽が落ち始めて、少年と少女は山小屋に辿り着いた。誰もいない、埃臭い小屋の中で、二人は身を寄せ合った。少年は少女が心配で、置いていく気にはなれなかったし。少女は、真っ暗な森を見て怯えていた。
「流石に夜の森は怖かったか」
「まあ、それはそうでしょう。今だって焚き火なしでの野営は無理だよ」
震える少女の肩を抱いて、少年は窓の外を指差した。夜空には、無数の星が瞬いていた。少女は星の光を見て、恐れが和らいだようだった。二人はそのまま、抱き合うようにして眠りについた。
「王女様と夜を共にして、どうでしたか?」
「すごく、良い匂いがしたよ」
メリアは絶句して顔を赤くした。その様子を見て、ウィルは子供みたいに笑った。
「ウィルと別れた後も、私、何度か城を抜け出してね」
人知れず城から脱走したメリアは、一人で近隣の森の中を散策した。ウィルがしていたことを思い出して、木の実を採ったり、魚を捕まえて焼いて食べたりした。
「でも、あんまり楽しくなかったんだ」
冒険のわくわくは、確かに感じた。ウィルに出会う前から、メリアは城から飛び出して山野を駆け巡る子供だった。城の外の世界に、いつも心を躍らせていた。
・・・はずだった。
メリアの世界には、何かが足りなくなっていた。決定的な何かが欠けていた。
あの時に感じた胸の高鳴り。すぐ横に黒髪の少年がいて、その体温を感じながら見上げた夜空。メリアの中で、その思い出がどんどんと大きくなっていく。木々の間をどんなに走っても、川の中に飛び込んでも、上書きして消し去ることができない。
何をやっても、心が満たされない。
別れ際に見た、ぼろぼろに傷ついた少年の顔が、まぶたの裏から離れない。
「パメラに、私は恋をしているって言われて、その時初めて知った。これが、恋なんだって」
メリアの胸には、ぽっかりと穴が開いている。何をしても満たされない、空虚な穴。本当に欲しいものでなければ、この穴を満たすことはできない。その存在に気が付いてしまった以上、もう、メリアには他に欲しいものなんて何もない。
欲しいのは、欲しかったのは。
たった一人の、男の子。
「ウィル、私はずっと、あなたに会いたかった」
少年は、少女を護れなかったと嘆いた。
少女は、少年に二人の絆を託した。
いつかまた、きっと会える。
少年は、少女がくれた絆を頼りに、自らを少女を護る剣とすることを誓った。
「メリア、俺はずっと、君を追いかけてきた」
護りたい。どんな悲しみからも、彼女を遠ざけたい。ウィルの中には、その想いだけがあった。
自警団に入り、義勇兵団に入り。ウィルはただ走り続けた。苦しくても、つらくても、左手首に巻かれた鎖を見れば耐えられた。
あの時護れなかった悔しさ。悲しさ。
ウィルの元に舞い降りた、光そのもののような少女。ウィルだけの妖精。
彼女がこの国の王女だというのなら、ウィルはこの国を護ってみせる。彼女のためなら、英雄にだってなってみせる。
そして、少年は、英雄になった。
英雄ウィル・クラウド。
少女を、この国の王女メリア・アークライトを護る剣。
「ずっと待っていました。あなたのことを。あなたがこうして、私を護ってくれることを」
誓いは、果たされた。
謁見の間でウィルの姿を見た時、メリアは自分を抑えることができなかった。ずっと残っていた、心の穴。あの時、置いてきてしまった想いと、傷だらけの少年。
アークライト王国の第二王女。メリアはずっとその名前を背負ってきた。メリアはこの国の王族、王女だ。王女としての立場があり、王女としての振る舞いがある。
それが全て、吹き飛んでしまった。目の前には、メリアを護るために、英雄にまでなってしまった男がいる。恋をしていると知ってから、ずっとその穴を埋められないでいた、メリアの一番欲しい人。愛しい人は、英雄だった。メリアのために、国まで救ってくれるような、馬鹿馬鹿しいくらいに素敵な英雄。
ウィルの身体を抱き締めて、メリアはその時しっかりと悟った。そうだ、ずっと欲しかったのは、この人だ。メリアは、ウィル・クラウドのことを、ずっと求めていたんだ。
メリアはウィルに顔を寄せた。ウィルが少し驚いて。
戸惑いながらも、メリアの背中に腕を回した。そう、それで良い。メリアが微笑んだ。
言葉なんかなくても、望んでいることなんて判る。これは当たり前のことなのだから。
ウィルの鼻孔を、懐かしい匂いがくすぐった。メリアの匂い。少年の頃に嗅いで、ずっと覚えている。身体が震える。そうだ、ずっとこうしたかった。この腕の中に、きらめきそのもののようなメリアを抱いて。自分のものにしたかった。
メリアの瞳。アイスブルーの瞳。ウィルの顔を映しているその眼が、とても恋しかった。すぐ近くで見たかった。そこに、自分の姿が映るのを、もう一度で良いから確認したかった。メリアは、ここにいる。幻でも、妖精でもない。
生きている一人の女性。ウィルが愛する人。ずっと恋焦がれて。この手に抱いて、全てを奪ってしまいたいと思わせる人。メリア・アークライト。森の中でウィルが出会った、美しい少女。
ここにいるのは。
ウィル・クラウド。
メリア・アークライト。
その名前を持つ以外の、何者でもない。
愛し合うだけの男女。お互いに恋をして、お互いを求めて。
触れ合うことで、心の穴を埋めるために。ただひたすらに、近付こうとする。肌を、身体を、ぬくもりを。
確かめ合って、幸せだと、感じる。
「愛しています、ウィル」
「愛しているよ、メリア」
二人は、そっと唇を重ねた。柔らかくて、溶け合うようで。
とても甘美で。気持ち良い。ずっとそうしていたくなる。心も身体も、何もかもが満たされる。
それどころか、次から次へと湧き出してくる。愛して、愛されたい。繋がった鎖のように、このまま一つになってしまいたい。
風が吹き抜けて、数多の花びらが宙を舞い。
「う、うぎゃああああああ!」
物凄い悲鳴が、花園全体に轟いた。驚いて二人が振り向くと、そこには鬼の形相を浮かべたパメラが、仁王立ちで二人を睨み付けていた。
「メ、メリア様、王族の口づけが何を意味するか」
ウィルとメリアは、きょとんとして顔を見合わせた。ああそうだ、すっかり忘れていたが。
メリアはアークライト王国第二王女で。
ウィルはその警護担当だったのだ。
「あ、ああ。ごめん、なんか盛り上がっちゃって」
わなわなと震えるパメラを尻目に、メリアはちろっと舌を出しておどけて見せた。
どかどかと足音を立てながら、パメラが二人に詰め寄ってくる。あまりの凄まじい剣幕に、ウィルは慌ててメリアの背中に回した腕を離した。
「しかもこんな場所で。なんという破廉恥な!」
メリアはあっけらかんとパメラの視線を受け流した。
「えー、花園って十分雰囲気あるよ。だよねぇ、ウィル?」
パメラの眼が、ぎょろんと動く。殺気を感じる。ウィルは背筋が、ぞくり、とした。やはりこの侍女は、何かの武術の達人なのではなかろうか。
「いやその、俺はメリアを護る剣だって話を・・・」
「呼び捨て! まったく調子に乗って。良いですか、明日にはカリム様もルイザ様も騎士団領からお戻りになるのですよ? 護る護るって、護るなら一緒にメリア様の貞操も護ってください!」
二人のやり取りを聞いて、メリアはけらけらと笑い出した。目に涙を浮かべて、心の底から愉快そうに。
「だから言ってるじゃないか、私は――」
姫様なんてむいてない。