銀の月から降る歌
明るい夜空を見上げてはいけない。
銀の月から降る歌が、人が忘れた古い記憶を連れてくるから。
◇◇◇◇◇
目覚ましのアラーム音を手を伸ばして止める。いつもの朝、いつもの今日。
左手首の銀色のサイリングに触れる。目前に現れる空間投影ウィンドウに僕の体調が表示される。
脈拍、体温、血圧、血糖値、脳波、全て正常。病原菌チェック、ウィルスチェック、寄生虫チェック、いつもの如く全て異常無し。
僕は正常だ。
朝食の栄養ゼリーを口に入れる。飲み込む。簡単便利な栄養補給。なのに明日は週に一度の食事の日だ。気が重い。
栄養は全て計算されて簡単に栄養ゼリーで取れる。なのに学習センターでは週に一度は食事の日がある。
人としての生活習慣を忘れ無いようにとか、食事のときのマナーを学ぶためとか、いろいろ理由はあるけど。食事なんていうただの古臭い習慣の名残を、惰性で続けているようにしか思えない。
食事の後はお腹が重くなって気持ち悪くなる。胸がムカムカする。どうして古臭い人が手で作った料理なんてものを、わざわざ食べなければならないのか。時間の無駄だ。これが憂鬱か。
そんなことを考えていたら、空間投影ウィンドウに新しい文章が現れる。
『β2S脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピンを投与します』
左手首の内側、サイリングの裏側からチクリと肌を刺す痛み。投与された薬のおかげで僕の憂鬱は晴れていく。穏やかな気分。今日も僕のメンタルステータスは正常値だ。
さて、今日もいつもようにいつもの如く、寮を出て学習センターに向かおう。
「昔、学習センターが学校って呼ばれた頃には、国語の授業で読書感想文なんてものがあったらしいよ」
隣の席のルインが話しかけてくる。ルインはお喋りだ。僕もルインも学習センターの成績はあまり良くない。それで似た者同士と言えばそうかもしれない。ルインは喋る。
「自分の手で文章を作るなんて、芸術家みたいだ」
「芸術家なんて反社会的技能者は、今じゃ更正施設にしかいないんだろ?」
「そうだね。でも芸術が昔の人には娯楽だったんだってさ」
「芸術も娯楽も、人に心があった時代に必要だった麻薬だろうに」
昔の人には心というものがあったという。その心が原因で様々な犯罪やテロが起きた。恨みも妬みも、全ての悪意は人の心から生まれる。
人が人の住む社会を進歩させたとき、人の社会の完成を阻むものこそが人の感情や意思、思想といったもの、いわゆる人の心というものだった。
人の社会から犯罪を無くし、戦争を無くし、テロを無くし、平和で安全な社会を作る。その為には社会の安定を阻む最大の要因をどうにかしなければならない。人の心の排除が必要だった。
昔の生活に慣れた人ほどこの理論は受け入れられなかったようだ。人が人らしく生きる為にと各地で反社会団体がテロを起こした。その様を見てきた新しい世代は、欲望と感情で全体最適解を選べ無い、ワガママな老害をますます厭うようになった。
「人の社会の完成に人の心は必要無い。心の在る人が社会に混乱をもたらす、と解ったから皆がサイリングを着けているんだろ」
人の身体の健康状態と人の精神の健康状態を常にチェックし、人が喜怒哀楽の感情の閾値を越えれば薬物で沈める。誰もが冷静に、安心して社会の一員として参加できる装置。それがサイリング。
この国にいる人は皆が手首にこの銀色のリングを着けている。サイリングでも抑えられ無い感情の暴走があれば、サイリングは赤く光り速やかに社会維持機構の手で更正施設へと送られる。
サイリングのシステムが普及したことで、ついに犯罪は過去のものとなった。この国の治安は人類の歴史上、最良のものとなった。
「だけどさ、これでいいのかな?」
「なにが?」
「なんだか不自然な気がするんだよ」
「ルイン、人はもともと自然を人に都合良く改造して発展してきたんだ。人の文明そのものが不自然なものだろう」
「うん、だから不安になるんだ。人が不自然に突き進んで自滅するんじゃないかって。死んだじいちゃんが持ってた昔のSF小説読んでたらさ……」
そこまで言うとルインは話すのを止め、口を半開きにして天井を見上げた。ぼんやりと呆けた顔で。
不安が閾値を越えたのでサイリングから精神安定薬が投与されたのだろう。投薬回数が増え過ぎればルインは更正施設送りになるかもしれない。
虚ろな目をするルイン。もしも僕に心があったら、ルインに同情というものを感じていたかもしれない。悲しいとか、哀しいとか、感じたのかもしれない。
そういった概念があるのは理解している。知識として学んでいる。学んではいるがその知識は過去の歴史でしかない。僕はそういったものを実感したことは無い。閾値を越える感情はサイリングによって脳の活動を抑制される。
感情的な人間は今の時代に必要無い。
もしかしたら僕がルインに感じているものが、古典文学にある、友情、というものかもしれない。
◇◇◇◇◇
『β2S脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピンを投与します』
最近、投薬回数が増えた。僕が頻繁に不安を感じている、ということだろうか。
学習センターでの成績、性能は僕はクラスの中では低い方だ。才能は遺伝子で粗方決まる。人の品種改良技術はまだ途上で、組み合わせのパターンを予測しながら試している段階だ。
どうやら僕の遺伝子の配列はあまり良くない結果だったらしい。くじ引きでハズレを引いたようなものか。
これで社会にとって役に立たず不要とされる性能となれば、いずれは僕は排除になるのだろうか。
いつもの学習センター、隣の席を見れば空席。今日はルインは休みか? 僕と同じくらいの成績、性能のルイン。社会排除になるのは僕が先かルインが先か。
でも、それも人の社会の維持に必要なことだ。
資源もエネルギーも限られている。無駄に使うわけにはいかない。
今の時代、僕たちが困窮しているのも、前の世代の人達が資源の無駄使いをしたからだ。感情的に楽をしたいと、儲けたいと。
今では地球の地表近くの鉱物資源もエネルギー資源も、ほとんど無くなった。相当深く掘るか海底から掘削するしか無い。掘り出す為に資源とエネルギーがより必要になってしまう。
まったく、過去の感情的な老害達のせいで僕たちが苦労する嵌めになった。僕のこの感じを恨みとか、怨みとか言うのだろうか?
『β2S、β2T脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピン、エスシタロプラムを投与します』
◇◇◇◇◇
寮へと帰る。代わり映えしない通学ルートを歩く。消費カロリーが計算され夕方に食べる栄養ゼリーのタイプが決まる。自分で何を食べるかも選ぶ必要は無い。
決められた通りに進み、決められた通りに食べ、決められた通りに生きる。そこに悩むことは無い。悩みというのも前時代的なもので、悩む時間とは古代の人類のロスタイムになるのか。
完成された人の社会に、人が何かを選ぶ必要は無い。何かを選ぶことも無い。
寮の扉に手をかけると、
「やあ、お帰り」
横から声をかけられた。声の方を向く。
「……ルインか?」
思わず訊ねてしまう。ルイン、だろうか? と、一瞬悩んでしまったのは顔が少し違ったからだ。いや顔は同じか。同じだけれど、顔のパーツの位置がいつもと少し違う。
ルインの顔は唇の両端がやや上方に持ち上がり、目を細めていた。
「ルインなのか? なんだその顔は?」
「これか? これはね」
ルインは両手で自分の頬をぐにぐにと揉む。その左手のサイリングはひび割れて左手首からは血が滴り落ちている。左手を肘まで赤く染めてルインは、明るく、朗らかに、言う。
「これは『嬉しくて』『笑って』いるんだよ」
「うれしくて? わらって? そのサイリングはどうした?」
「壊した。もういいやって思ったら、ぶっ壊したくなった」
「なんでそんなことを? 反社会的だ」
「そういうのも、もうどうでもいいんだ」
「何があった?」
「切っ掛けはたいしたことでも無いんだ。じいちゃんが持ってた旧世代の文芸作品が、反社会的だってさ。社会維持機構に全部、処分されちゃった」
「取り締まりが厳しくなったのか?」
「じいちゃんが持ってたものは、社会的にいいものでも無くてさ。じいちゃんも死ぬまで隠れてこっそり楽しんでたものだし。昔のマンガとかもあってさ、コーヒーを飲む描写とか、恋愛もので口付けする描写なんてのもあったから」
「コーヒーを飲むって。カフェインは麻薬として所持は違法だし、随分と前に禁止になったものじゃないか。口付けなんてのも、粘膜感染の危険性がある野蛮な原始人の風習だろう。そんなものが描かれる過去の遺物は処分されて当然じゃないか」
「今の時代ではそうだけどさ。自分もじいちゃんもそういうのが好きだったんだ」
ルインは血の滴る左手を掲げる。
「サイリングをぶっ壊して見ればわかるよ。世界はこんなに鮮やかで、いろんな音がして、様々な匂いがするところだってわかるから」
「できるわけ無い。サイリングを壊したら、」
「そう。自分はもう社会の一員じゃ無い。福祉サービスも受けられない。病院にも見て貰えなくなるし、交通機関も使えなくなる。だけどもう、サイリングに自分の感じることすら鈍くさせられるような、社会の一員としての義務も、する必要が無くなった」
ルインは手を振って、ひび割れた銀の腕輪を見せつける。またルインの左手から血が地面にポツリと落ちる。
「頭がスッキリした。とても気分がいいよ」
「捕まって更正施設送りになるぞ。更正不可となれば処分される」
「だから逃げる。その前に君に会いたくてさ」
「僕にか?」
「そう」
ルインは、なんだか重い荷物を捨てて身軽になったように、肩から力の抜けた柔らかい姿で、唇の両端を上げたまま、楽しそうに。
「サイリングを壊して空を見上げてみれば、分かると思う。自分と似ている君なら」
じゃあね、と言って立ち去るルインの顔は、ずっと『嬉しい』『笑顔』で弾むように喋っていた。抑揚も無く淡々と喋る学習センターの頃とは、まるで違う話し方だった。
勢いよく駆け出していくルイン。小さくなっていく背中。遠くから社会維持機構の車両のサイレン音が響いてきた。
◇◇◇◇◇
ルインは学習センターからいなくなった。その事で僕も社会維持機構から取り調べを受けた。
ルインとよく話していたのが僕ひとりなので、僕も反社会的傾向有りと評価されているようだ。この僕が。
その上、僕の性能の低さも問題だ。このままでは成人後、社会の一員となるには性能が足りないと、学習センターの成績で判定されるかもしれない。
僕を育てるのに必要なコストが、僕が成人後に働くことで社会に還元できるかどうか。シミュレートの結果次第でどうなるのか。僕は成人して大人になるのか、更正施設送りになるか、処分されるのか。
寮と学習センターを往復し勉強する毎日。だけどルインがいなくなってから、僕の頭は余計なことばかり考えるようになってしまった。自然と不自然の違い。山と都市の違い。人と猿の違い。
この他人を見たときに感じる理由の分からない気持ち悪さはなんだろう? 何が社会の正しさと間違いなのか。何が良いのか、何が悪いのか。誰にとって良いのか、誰にとって悪いのか。
そんなことが頭の中をグルグルと回り、学習センターの勉強が頭に入ってこない。
『β2S、β2T脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピン、エスシタロプラムを投与します』
うるさい。サイリングから空間投影ディスプレイに表示される白い文字の警告文が、音も無いのにうるさい。学習センターの授業に集中できない。
落ち着かない。イライラする。気持ち悪い。そんな気分もすぐに精神安定薬の投与で押さえつけられる。それでも『気持ち悪い』と感じることが、いつまでも消えて無くならない。
◇◇◇◇◇
ある日のこと、いつものように学習センターに向かう朝。道端に死体を見つけた。
年老いた男が一人、道の端で冷たくなっていた。腕に着けているサイリングが赤く点滅しているところだけが、生きているようだった。
道を歩く人はチラリと一瞬目にするだけで、誰もがスタスタと通り過ぎる。いずれはこの老人の死体は保健所が回収する。誰もがそれを知っている。
僕だけがその老人の死体を見て立ち止まっていた。目を瞑りまるで眠っているような、皺深い男の顔。
どうしてこの老人は道で死んでいるのだろう? 普通の人は自分の部屋で死ぬ。わざわざ外で死んでるのはどうしてだろうか?
僕たちの時代、エネルギー資源も食料資源も限られている。社会維持の為に分配は厳しく計算される。老化などで労働力が低下した人には、社会貢献度が足りないからと分配量が少なくなる。
だから歳を取れば栄養不足から自分の部屋で餓死するのが普通のこと。それが今の時代の当たり前。その際もサイリングが薬物投与をする。
摂食中枢の活動を抑止し、空腹感を感じないようにして静かに餓死できるように。人として穏やかで安らかな最期を迎えられるように。飢えが社会治安を乱さないように。
人の尊厳と人の社会を守る為に。その為のサイリング。
だから、こんな人目につく道で老人の死体があるのは珍しい。この都市に産まれて生きて、学習資料以外に人の死体を見るのは、僕は初めてだ。
かつては葬式という死者を弔う儀式があったという。だが、葬式は宗教儀式だ。宗教が思想麻薬であることから禁じられ、今では葬式が無い。死者を神格化する宗教的情熱が無くなれば、墓地の為に土地を使うという無駄も過去のものだ。
普段は見かけない死体がそこにある。それを奇妙に思い足を止めたのは僕だけ。誰もがいつもの日常をいつものペースで消化する。
どうして誰も気にしない? どうして僕は気になった? どうして目が離せない?
道に横たわる年老いた男。
これが僕の未来の姿かもしれない、そう思ってしまうのはなんでだろうか?
この日から僕の症状はますます悪化していった。酷いものだ。生きている人を見ると気持ち悪くなる。吐き気まで感じる。
『β2S、β2T、β3N脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピン、エスシタロプラム、セルトラリンを投与します』
薬の投与回数が増え、感覚も思考も鈍くなり、呆とする時間が増えていった。
それでもこの気持ち悪さは消えてくれない。
僕は壊れてしまったのだろうか。
◇◇◇◇◇
なんとか僕は成人した。学習センターでの必須科目を終了した。同年代よりかなり遅れて。補習を何度も何度も繰り返して。
僕の性能が低いのは遺伝子組み合わせくじのハズレを引いたから、なのだろう。僕は努力したつもりだが、それでも僕の性能評価は低い。
昔は卒業とか成人式とかいうものがあったらしい。成人式もまた古代の宗教儀式で、宗教という思想麻薬は現代では違法だ。だから今の時代に成人式は無い。
もっとも成人したからといって、これで何かがどうなるものでも無い。
自分が成人する迄にかかったコスト、生活コストに教育コストが借金として背負わされる。借金と呼ぶのは人の労働単位を金に換算していた頃の名残らしい。僕は残りの人生を借金返済の為に働くことになる。補習を何度も行ったのでこの補習代が高くついた。
かといって僕の性能ではいい職業に就くのも難しい。どうすればいいのか、どうにもならないか。
憂鬱だ。
『β2S脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピンを投与します』
人はどうして生まれて、何のために生きるのだろう? 社会の一員となることに何の意味があるのだろう?
思い出すのはルインの笑顔。駆け出して行く背中。
そして道端で冷たくなっていた、見知らぬ老人の皺深い顔。
この二人だけが、思い出しても気持ち悪くはならないのはどうしてだろう? どうして生きている人のことを見ると、気持ち悪くなって吐き気を感じるのだろう?
『β2S脳波、β3N脳波が検出されました。精神安定法に基づきベンゾジアゼピン、セルトラリンを投与します』
空間投影ウィンドウの警告文が煩い。
◇◇◇◇◇
山に向かう。山の麓の森に向かう。
大気汚染対策の為の自然保護区。人類の科学は進歩したというが、地球の大気を制御できるほどの物にはならなかった。結局は自然に生える木に任せた方が、人が手を出すより結果も良くコストもかからない。なんだ、科学の進歩というのもたいしたこと無いじゃないか。
ハンドルを握り自動車を走らせる。手動操縦というのもなかなかおもしろい。時代遅れのドライブ。
今の僕は落ち着いている。いろいろと諦めたら不思議と気分は落ち着いた。諦めた方が安定して投薬回数が減るというのも皮肉な話だ。
結局のところ、僕では人の社会の一員として生きるには、要求される性能が足りない。だからこのまま生きて行き着くのは、更正施設に入るか餓死するか。この二つだけだ。
だから諦めた。諦めてしまえば、もう僕を縛るものは無い。
自動車を盗み、手動操縦に切り替え運転する。都市を出る。電波遮断クロスの灰色の布で左手首のサイリングを包んでおく。これで僕の位置情報は分かりにくくなるだろう。
都市を逃げ出すことにした。かつてのルインのように。
ルイン、夕日の中を走って行ったルインは何処まで行けたのだろう? 捕まって更正施設に送られたか、捕まらずに逃げられたのか。今も何処かでルインは生きているような気がする。
自動車を走らせる。都市を出て遠ざかる程に道路はひび割れてでこぼこになる。少し離れると無人のゴーストタウンばかりになる。人がいなくなり廃墟になった、かつては町だったもの。
人の社会は進歩し完成し、資源の再分配に問題は無く、犯罪も争いも無い。それなのに人口は昔より少なくなっている。地方の機能を停止させ資源を節約し、都市に人を集めて管理しやすくした結果だ。
もっとも、今では得られる資源の量から計算し人口をコントロールしているのだから、これが本来の地球における人の数の適性値になるのか。
発展する程に数が減る、というのはどこか肝心なところを間違えた計算かもしれない。
『うん、だから不安になるんだ。人が不自然に突き進んで自滅するんじゃないかって』
ルインの不安がようやく僕にも分かった。分かったときには手遅れというのも分かってきた。
◇◇◇◇◇
自動車の燃料が尽き、そこから歩いて森に着く頃には、日が暮れて夜になっていた。
映像でしか見たことの無い木々の集まり。鬱蒼と繁る大樹の枝葉が夜の中、影絵のように見える森。
ようやくたどり着いた。
生きた人を見れば気持ち悪くなる。だから生きている人のいないところへと行きたくなった。
辺りには僕以外に人は誰もいない。
左手に巻き着けた電波遮断クロスを外す。左手を持ち上げ、銀色のサイリングを左手ごと木の幹に叩きつける。
『警告、サイリングを故意に破損するのは反社会的行為です。速やかに医療施設でメンタルチェックを受けて下さい』
煩い、痛い、
「もう、お前の出す文字を見たくも無いんだよ!」
何度も木に左手を叩きつける。何度も、何度も。痛い。樹皮がめくれてささくれが腕の皮を切る。サイリングが赤く点滅する。医療施設でしか取り外しのできないサイリングは、無理矢理外すには壊すしか無い。
『精神安定法に基づきパロキセチン、セルトラリンを投与します。近隣の医療施設にコールします』
僕に見せつけるように広がる空間投影ディスプレイ。そこに現れる文章を無視してサイリングを木にぶつける。投与された薬物で目眩がする。足下がふらつく。薬で強引に高揚を静めようとされる。必死で抵抗する。
もうお前に薬漬けにされるのはイヤなんだ。
僕の頭を鈍くするのをやめろ。
歯を食い縛り力が抜けそうな腕を振り上げ、再び木にぶつける。腕の皮が剥け血が垂れる。赤く点滅するサイリング。銀色の表面に罅が入る。壊れろ。壊れろ。
何度も繰り返すうちに赤い点滅は間延びして、やがて消える。空間投影ディスプレイが消え、サイリングの赤い光も途絶えた。
サイリングの銀色の表面は僕の血で赤く染まる。罅の入ったところから僕の血が入ったのか。中でショートしたか。
勝った。よくわからないが何かに勝利した、という感じがする。気分がいい。腕の痛みさえ心地いい。
僕の勝ちだ。何に勝ったのかも分からないけれど。
はあ、はあ、と息を荒げ空を見上げる。
「……あ、」
息が止まる。
月に星。
見上げる夜空には闇に浮かぶ大きな銀色の満月が、深く暗い夜空には満天の星が瞬いて。月とはこんなに大きなものだったのか? 星とはこんなに綺麗なものだったのか?
ずっと俯いていた。空を見上げるのは何年ぶりのことになるのか。
煌めく星々を従えた銀の満月は、まるで夜の瞳のように僕を見下ろしている。
不意に歌が聞こえた。見知らぬ国の言葉のように意味の分からない歌。
壊れる前のサイリングが注入した薬物の影響で聞こえた幻聴かもしれない。
だけど僕は直感した。これは月の歌だと。遥かに長い時、地上を見続けていたあの銀の月の歌だと。
夜の瞳と見つめあいながら耳を澄ませて歌を聴く。
森の奥から吹く風が木々の枝葉をザウザウと鳴らし、闇の中から虫の声が鳴る。瞬く星は囁くようにハミングし、それらの音楽を背景に銀の満月は静かに歌っている。
どれだけ呆然と歌を聞いていただろうか。ふとあの道端で死んでいた老人が外で死んでいた理由が分かった。
彼は外に出たかったのだ、と。
視線を地に下ろし来た方を振り返れば、僕の暮らしていた都市が遠くに見える。煌々と人工の明かりを灯している。
理解出来ない自然を恐れ、人が理解できる人工物だけで作られた人の都市。不自然を維持する為に常に大量の資源と燃料を消費し続ける人の社会。今も闇を祓う為に光を灯しエネルギーを使い続けている。
そうして使える資源が少なくなれば、人の数を減らしていって。人工の人の社会に適応できるように人を品種改良し続けながら。
社会という名の檻に適応した人。人工物という不自然に囲まれた都市で暮らすには、人工的な不自然な人で無ければならない。そうで無ければ生きてはいけない。
広い世界の中を小さく区切った人の社会、人工の檻。人が作り理解できるものしか存在を認め無い狭量な世界。
あの老人はそこから外に出たかったのだ。死ぬ前に。
視線を森に向け足を踏み出す。銀の月に誘われて。影になった草木が手招くように揺れる。
これまで都市で暮らしてきた僕には、原始人のように森で生きることはできないだろう。
だけどあの都市に残ったところで未来は無いだろう。ただ前だけを見て現実から目を逸らした人々が暮らす都市。耳を塞いで月の歌も聞こえなくなった人達。
僕はあの都市に適応できなかった失敗作だ。だけどあの人達も地上に生きる種として成功しているとは思えない。
どちらも行く先は途切れている。
生きていくことができないならば、都市の中で死ぬよりは森の中で死ぬ方がマシに思える。この森の中で死ぬならば、僕の死体は虫や獣が食べ、僕もまた自然の中へと帰ることができそうだ。
暗い森の中へとゆっくりと足を進める。胸の奥がざわざわとする。
これが楽しいという実感だろうか。
「……ル、ルル……ルゥ……」
月の歌に声を重ねて、悠久の歌に誘われて、原始の森の中へと。小さな檻を抜け出して、広い世界を求めて。
これが人の心というものだろうか。
夜空に浮かぶ銀の瞳は優しく見下ろしながら、いつまでも原始の歌を静かに歌い続けている。
読了感謝
仙道アリマサ様作曲のBGMはこちらから
仙道企画その2音源
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