17 今日は宿舎に泊まるようです
「あ〜、美味しかった〜」
「久々に並みの食事にあり付けたな……」
満足の行く夕食を堪能した二人は、酒場『パラトロゴ』を後にしました。
太陽はすっかり稜線の向こうへと落ち、山々の影が茜色の幕の上に色濃く浮かんでおります。薄墨のような空には星がちらちらと輝き、湖畔にぼんやりと浮くような半月が徐々に青白い光を帯び、清く澄んだ明かりをあまねく大地へと注ぎ始めておりました。
「報酬はまだまだ残ってるからな。今日はちゃんとした風呂に入れるし、まともな宿にだって泊まれるぜ」
貨幣の入った革袋の重みを片手で確かめつつ、リオは言いました。
「良かったね。……でも普通にご飯食べて宿屋に泊まっていたら、今回の報酬なんてすぐに使い切っちゃうんじゃない?」
「そうだぞ。保ってせいぜい、二〜三日程度だな」
「それに、お金って他にも色々使うんでしょ? 装備の手入れだとか、アイテムの準備だとか。ギルドにだって納入金払わなきゃいけないんだし。……そう考える
と今回みたいに簡単なクエストばっかり受けてても、全然お金増えないって事になる訳だよね。しかも今回は、報酬の上乗せが発生した上での話だし」
「そうだ。開拓者としてやって行くには、その内もっと報酬金額の高いクエストを受けなきゃならないんだぞ」
「なるほど……。お金貯めるのも大変だよね……」
ティエラは考えをまとめるように、二度頷きました。
「……良し、決めた!」
「何をだ?」
「今夜からしばらく、宿舎に泊まる事にする!」
「そうか。……って、はぁ!?」
「だって、宿舎って確かタダなんだよね? 今後の事も考えて節約しとかないと」
「いやお前、普通に宿に泊まってたじゃねえか。それくらいの金は持ってるんじゃ……」
「確かに、村を出る時に持ってたお金はまだちょっと残ってるけど、その内なくなっちゃうよ。そもそもが王都までの旅を想定してたから、こっちに渡って開拓者になるのは予定外だった訳だし。不測の事態に備えて温存しておいた方が良いよ。報酬を安定して稼げるようになるまで、我慢出来る内に我慢しとかないと」
「いやだけど。宿舎なんて、本当に設備しょっぱいぞ?」
「野宿よりマシでしょ? 大丈夫だって」
「それに、個室なんてもんもないぞ? 知らない男と一緒の部屋で寝なきゃなんないんだぞ?」
「それも我慢出来るよ。船に乗せられた時だって、男の人達と一緒の部屋……って言うか船倉の隅に寝かせられてた訳だし」
「しかしだな……。それだと、俺まで宿舎に泊まんなきゃいけないじゃねえ
か……」
「何で? ボクに構わず、リオ一人で宿屋に泊まれば良いじゃん」
「出来るか。お前は色々危なっかしい。一人で宿舎に泊める訳には行かない。しばらくは俺が付き添った方が良い」
「心配性だなあ。そもそも、リオだってお金に余裕ないんでしょ? 貯金のためにも、今夜くらいは宿屋我慢したら?」
「いやだって、宿に泊まれるだけの金があるんだぞ? だったら普通泊まるだろ」
「…………ねえリオ」
「何だ?」
「リオは開拓者やってて、結構お金に困ってたりする?」
「まあ、しょっちゅうだな。でも、開拓者なんてそんなもんだぞ? 金を稼ぐためには、出費を上回るだけの報酬を稼ぐ以外にないからな。低等級者に適したクエストだけじゃ、すぐに使い切って終わりだ」
「もしもそんな時に、予定にはない臨時収入が入ったら?」
「もちろん、大喜びでメシ食いに行く」
「……うん、良く分かった。リオ、取りあえず今度からボクが君に"節約する"って事を教えるからね?」
「おいおい。それじゃまるで、俺が節約出来ない奴みたいな言い方じゃないか」
「ご飯食べに行った後、余った分は?」
「ついでだから、デザートも追加で」
「全く出来ない人だね。今までそんな調子で良く納入金払えてたね……」
「し、失礼な! 納入金は他に分けた上で使ってるから、問題ないんだよ!」
「そう言う話じゃないからね……。ほら、諦めて宿舎行こう?」
そう言ってティエラは抵抗するリオの袖を引っ張りつつ、宿舎の方角へと歩いて行きました。
その結果迷ったので、仕方なくリオはティエラを先導して宿舎へと向かいまし
た。
「うわー、埃っぽい……」
宿舎の空き部屋内部を入り口から覗いたティエラは、開口一番に率直な不満を漏らしました。昨日まで普通の宿屋のきちんと掃除された部屋の、真っ当なシーツの掛かったベッドで寝泊まりしていた分、本日目の前にある埃だらけ砂まみれ、ベッドなしボロ布ありの部屋は、もはや"部屋"とさえ呼べないほどの落差を感じておりました。
「言っただろ、設備しょっぱいって」
「う〜ん……まあでも、野宿よりはマシだしね。一応は魔力灯もあるし、布で部屋区切れるみたいだし。……この釘に縄を巻き付ければ良いんだね」
そう言ってティエラは部屋の隅に丸まっていた縄を拾い上げ、壁から壁へと渡し始めました。
「そうそう。それに、運が良けりゃ俺達だけでこの部屋使えるかもな。他の開拓者に気兼ねしなくて良いって分、少しは気楽でいられる」
「だと良いね。お風呂……はないけど、水浴びは無料で出来るんだよね。場所は確か、一昨日リオと出会っ……た……」
言葉の途中から段々とティエラの声が小さくなって行き、反比例するように顔が真っ赤に染まって行きます。
彼女の脳内には一昨日のリオの水浴び姿が、まるで昨日の事のようにありありと細部に至るまで蘇っておりました。
「……おい。思い出すな。思い返すな。思いを馳せるな。さっさと忘れろ」
「……で、出来るならそうしてるよぉ……。でも何か余計に意識しちゃうって言うか……。男の人の裸なんてお父さんの以外見た事ないし……形も違うし、何か小さかったし……」
殺意もなく突き出されたナイフが、達人の剛剣以上に心臓を深く刺し貫く事があります。恣意もなく零れ落ちた言葉が、悪意の罵倒以上に胸を深く刺し貫く事があります。
狼狽するティエラの口から何気なく出て来た言葉に、リオはただ静かに床へと崩れ落ちるばかりでした。
「……って、どうしたのリオ? ……あれ? 泣いてる?」
「………………何でもない。何でもないから。ちょっと、心が大量出血を起こしただけだから。放っておけば、
いつかきっと治るから……」
溢れ出す哀しみをただただ噛み殺し、リオは呟きました。
その後二人は水浴びを済ませ、荷物の整理を終え、本日の互いの働きを労いつつ粗末な布を身体に包めて眠りに付き――
(……何か、中途半端な時間に起きちまったな……)
真夜中に、リオは目覚めました。
当然、室内は真っ暗闇に包まれております。普段であれば窓から差し込む月光
が、些少ながらもすり減った木床に落ちるものですが、今宵は窓側のスペースをティエラの寝所として区切っております。継ぎ接ぎだらけの布の隙間から、這い出るような儚い光が覗く程度でした。
(折角だし、トイレ行っとこうか)
布団代わりの布をそっと剥ぎ取り、リオは立ち上がります。広いとは言えない室内には、リオとティエラの二人だけです。カーテンの向こうから聞こえる、ティエラの静かな寝息も良く聞き取れます。
足音を立てないよう、リオがゆっくり出口へ向かおうとすると、
「……んで……」
カーテンの向こうから、ティエラの声がかすかに聞こえて来ました。
「……? ティエラ、起きてるのか?」
リオがそっと声を掛けましたが、反応はありません。
(ああ、寝言か……)
そう納得し、外へと出ようとすると、
「……お父さん」
すがるような、か細く震える声でした。
「……ティエラ……?」
「……やだよ……ボクを置いて行かないで……」
ああ、とリオは呻き声を漏らしました。己の迂闊さを、今さらのように悔やむばかりでした。
彼女は最近、父親を亡くしたばかりなのです。
屈託のない立ち振る舞いに惑わされていました。うっかり心の整理が付いているのだと、早合点してしまいました。
そうではありません。
たった一人の家族を失って、一人ぼっちでティルノア島へと流れ着いて、平気なはずがありませんでした。吐き出す当てのない感情をずっと抱えたまま、ここまでやって来たのです。
無理をしていないはずがありませんでした。
「行かないで……」
「行かないよ」
半ば詫びるような心持ちでそう言ってから、リオは部屋を後にしました。