2.銀星と黒翼
次の日の朝、少し落ち込みながらも、ウルはきちんと世界樹のうろを訪れた。
そして彼はすぐに、手にしていた水瓶を落とした。
がしゃんっ、と音を立てて小さな水瓶が割れ、澄んだ水を撒き散らすのも気にならないようで、ウルは固まったまま目を大きく見開いている。
やがて、彼の震える唇から言葉にならない声が漏れた。
「っ、あ、あぁ……!」
「ああ、お前か」
悪戯っぽい光を宿した濃紫の瞳がウルを見て細められる。長い黒の髪を耳にかけ、その手元で縹色の本を開いていた彼は、何一つ変わらない表情で微笑んだ。
「シ、シヴァ……」
「ここはユグラカノーネか? それにしちゃあ身体が軽――――「シヴァァッ!!」っおわっ?!」
十二年の間、願ってやまなかった光景にしばらく言葉を失い、固まっていたウルであったが、状況を正しく認識した直後、途轍もない勢いでシヴァに飛び付いていた。
ウルのその動作を視認してから一瞬の判断で開いていた本を閉じたシヴァの判断力は流石と言えよう。
「お、おい、ウル……」
「うわぁぁっ、ばか、き、きみがこんなにねぼすけなんて、しらなかったよ!!」
「寝坊助? は……? ちょっと待て、何がなんだか……」
「ぼくが、どれだけ、しんぱいしたとおもってるの?! よかったぁぁっ!!」
以前と比べて明らかに痩せた彼の身に縋り付いて大泣きするウル。
状況を全く把握できておらず目を白黒させていたシヴァは、何か言おうかと口を開いたり閉じたりしていたが、やがて溜め息を吐いてウルの頭をぽんぽんと優しく撫で始めた。
それを受けて、ウルの大泣きは少しずつ小さな嗚咽に変わり、最後には微かに鼻をすするだけになる。
「……落ち着いたか」
「……うん、ごめん、取り乱した。君が状況を分からないのも、仕方が、ないのに」
ウルはそう言って顔を上げた。目元は赤く、頬はしっとりと濡れていたがもう泣いていない。
「あのね、君はイスグルアスを撃ち落とした後、気を失ったんだ」
そこから始めて、彼が眠っていた十二年間について話す。ウルが時々鼻をすすりながら告げる内容に、シヴァはじっと黙して静かに耳を傾けていた。
「それで、やっと本の形に纏められたから昨日、ここへ運んだんだけど……」
「そうか」
すべて聞いて、シヴァはそう呟く。ぼんやりと、木のうろから望む青い空に目を向けながら、彼の手が長い黒髪を分けて背中に回った。
「どうりで背中がすーすーするわけだ」
溜め息と共に苦笑するシヴァ。ウルはそれを見て目を伏せる。
「何でお前がそんな顔するんだ?」
「だって、僕が、もっと君の力になれていたら、君は翼を失わずに済んだかもしれない」
思わず見とれてしまう様な美しい漆黒の翼。陽光や月光に艶めき、風を捉えていたあの黒翼。そして、ウルにとっての自由の象徴……
それがもう無いということがウルは悲しかったのである。そんな彼の内心を察したのか、シヴァの拳が俯いたウルの頭をコツンと打った。
「っ、シヴァ……」
「あのな、確かに翼は生まれた時から俺の一部だった。助けられてきたし、気に入ってたさ。でも、あれは俺自身じゃないんだぜ、ウル」
「そんなこと、分かってるよ……君が生きていることが、一番、大事だもの……」
だろう、とシヴァは頷く。
「俺は、代償無しにあいつを倒せるとは思っていなかった。命だろうが他の何だろうが……例えばそれがお前だったとしても、俺は成し遂げなければならないと思っていた」
ウルも頷いた。きっと大丈夫、と不安におののく己に言い聞かせていても、彼もまた、シヴァを失う可能性を考えていたのだから。
「それが翼で済んだ。ならいいんじゃないか」
「……そう、そうだね」
「ま、これからは翼無しでの戦い方を覚えなきゃならないってことで、それなりに忙しくなるな……」
寝起きでいきなり沢山喋ったので、そこでシヴァは盛大に咳き込んだ。その背を擦り、水をと思って自分が水瓶を落としたことを今認識したウルは、慌てて火枝宮にとって返したのであった。
―――――………
「そうか、目を覚ましたか……」
水を届けた後、まだいきなりは動けないシヴァをうろに残し、ウルは兄であり火の枝守であるイルジラータにシヴァの目覚めを報告した。
それを受け、勿論シヴァのことを気にかけてはいたがそれ以上に彼を心配して悲しそうにしていた実の弟の方を気にしていたイルジラータは、ウルの顔色が格段に良くなったことに安堵して頷き微笑む。
「あの、僕、シヴァについていてもいいですか?」
「勿論だ。そうしてやると良い」
嬉しそうに部屋を辞する彼の背中を眺めながらイルジラータは小さく息を吐いた。
イスグルアスが滅された日、その瞬間に世界樹ユグドラシルはぐらりと揺れた。
それが、かつて心を持つものであったユグドラシルの動揺だったのかどうかは分からない。しかし世界樹は確かに揺れた。
それからすぐ、ユグラカノーネには一時明るい空からしとしとと雨が降り注いだ。天泣である。その一時の後はずっと晴れが続いていた。
「どうされましたか?」
「……いや」
イルジラータの吐息を溜め息ととったラビの問い掛けにゆるゆると首を振る。
(最後の停滞も、ついに動き出す。そろそろ気持ちを切り替えねばな)
世界は変わった。そしてこれからも絶え間なく変動していく。しかし人々の営みは変わらない。
それを守る者の一人として、いつまでも祝福気分でいてはいけないだろう。
イルジラータは気を引き締めて立ち上がった。今後のことについて、父王と枝守たちとで話し合いを更に重ねなければ。
背筋を伸ばしたラビをつれて、彼は自室を出ていった。
―――――………
ウルがうろに戻るとシヴァは縹色の本を開いて静かに文字を追っていたが、ウルの気配に顔を上げ「ああ」と短い言葉を漏らした。
「これ、意外と面白いな。お前が書いたんだろ?」
「そうだけど……意外と、なんて失礼だな君」
わざとらしく顔を顰めて見せたウルにシヴァはくつくつと喉を鳴らして笑う。それにつられてウルも思わず微笑んだ。
「身体は平気?」
「ああ問題ない。ただ少し、魔力の巡る感覚が慣れないな……」
「それは慣れていくしかないかな。今の君なら魔法も使えるかもね」
そう言いながら、ウルは定位置の椅子に腰かける。本に視線を落としたシヴァはぽつりと呟いた。
「これを読むに、俺はかなりエルフに近い存在なんだろうな」
かつてエルフから生まれた精霊と魔物の血を身に宿したシヴァ。頷きながら、それに続く言葉を思い浮かべてウルは視線を宙に泳がせた。
「シヴァ……」
「俺はここを出ていく。ユグラカノーネは俺には暖かすぎるし眩しすぎる。シリエールかどこかで鍛え直して、旅にでも出るさ」
「…………」
言葉に悩むウル。シヴァは顔を上げ、壁際の蔦籠の中に鎮座するテンペスタに深い青色の目を向ける。それを見たウルは思わず「形が変わる霊具は初めてなんだ」と呟いた。
「あの時は必死だったから気にしてなかったけど、確かに驚いたな……」
「だから、その……」
「研究、か?」
素直にウルは頷いた。知的好奇心には勝てない。シヴァは笑って「いいぜ」と言った。
「っ、じゃあ」
「テンペスタに愛着はあるけど、まあ、あいつも役割は終えたしな……」
その内容にウルは眉を八の字にしてシヴァを見つめる。銀の瞳が揺れて、行き場の無い手がさ迷って掛布を握った。
「……やっぱり、行ってしまうんだね」
「ああ。じっと一つの場所にとどまるのも性に合わないしな」
長く伸びた黒髪を手で纏め、蔦に絡まったものを適当に解いている彼を見る。切らなきゃな、と呟く彼にウルは口を開いた。
「……いくら僕が言葉を尽くしても、君がいずれ去っていくのは、何となく、分かっていた」
その言葉にシヴァは顔を上げ、ウルを黙って見つめ返す。やがてその顔に浮かぶ悪戯っぽい微笑。
「なんだお前、寂しいのか?」
「っ……だって、君、なんだか今、一人にしたら死にそうじゃないか!!」
堪らず叫んだウルは椅子からずるずると落ちて寝台に縋る様に俯く。彼の言葉にシヴァは目を丸くして瞬きを繰り返した。
「お願いだよ。君が、君が死んじゃったら嫌だ。きっと、どれだけ離れていてもそうなったら僕には分かる。だから、だから……」
涙が滲むのを自覚して、ウルは固く両手を握りしめる。
シヴァの穏やかさが怖い。凪いだ海の様に、どこまでも静かなのだ。吹き抜けて二度と帰ってこない風に似た彼を、今放したらどうなってしまうだろう。
「理由は何でもいい。頼むから生きていてよ、シヴァ……」
沈黙。やがて、シヴァの手が伸びてくる気配が微かな衣擦れの音でウルに伝わる。
「っ!」
「……馬鹿だな、俺が簡単に死ぬかよ」
ごつん、と強めに拳が頭を打った。今日は泣いてばかりだ、とウルは思いながら首を横に振る。
「だって心配だ。今、君、空っぽなんだろう」
「…………」
復讐に人生を縛られていた彼に「僕のために生きてくれ」とは言えなかった。そして「自分のために生きて」と言ったところで、きっと彼は笑ってはぐらかす。
シヴァは静かに黙っている。どんな静寂よりも不安を煽るそれに、ウルは耐えきれなくなって顔を上げた。
そして見上げたシヴァの顔は、悲しみとも喜びとも取れない、複雑で切なげな表情をしている。
「……確かに、な。全部終わった。復讐は果たしたし、何かしたいことも無い」
青の目をうろの入口から見える大きな空へ向けてシヴァはそう呟いた。焼けつく様な激情も、拭えなかった悲しみも、全てが今は沈黙している。
ならばもういいのでは、と彼は思ったのであった。疲れたわけではないが、ぽっかりと水の中に投げ出された様な気持ちになったのである。
それなのに、と彼は自分を見上げるウルに視線を向けた。
十二年経ったと言う。確かに、頼りなく弱っちかった彼はもういない。泣き虫は変わらずだが、少しばかり髪も伸びて背も伸びたらしい彼は青年と称するに相応しい様子になっていた。
しかし彼は変わらない。馬鹿正直に、泣きながら引き留めるなんて。どう対応したものか悩んでしまうではないか。
ウルが必死になって引き留めるのは、シヴァ自身が曖昧に認識していた空虚さを、本人以上に察知しているからだろう。
それが嬉しいような。全て失くしたような気持ちの中に染み渡るものがあった。
「……まあ、お前がそんなに言うなら、生きていてもいい、と思うよ」
そう言うと、ウルは銀の双眸でシヴァをじっと探る様に見る。
「……約束する?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ、本当に」
「絶対だね?」
「はぁ、分かってるよ。いい加減しつこいぞ」
言いながら徐々に詰め寄ってくるウルから逃げるように身を引くシヴァ。ふんっと鼻を鳴らしたウルは突然立ち上がった。
「少し待ってて!!」
そう言って身を翻した彼の胸元でひらりと揺れた黒の一枚。濡れた頬もそのままに駆けていく彼を、シヴァは眩しそうに目を細めて見た。
(……これが安心、か)
絶対に、何があっても迎え入れてくれる場所を得た不思議な心地。こそばゆさにシヴァは溜め息を吐いた。
「まあ、悪くない」
地上に降りても、一年に一度くらいは顔を見せてやるかと微笑む。
やがて戻ってきたウルは不思議な魔導具を持っていた。持ち主の危機を察して、一度だけだが必ず命を守るものだそうだ。
何でも、シヴァが目を覚まして出ていくと宣言したら持たせようと思って作っていたらしい。
用意周到なことだ、と受け取った銀の腕輪はほんのりと暖かさを宿していた。
そして一年後。
驚きを通り越して怖いほどの回復力で体力を取り戻したシヴァは、少しばかり魔法の訓練を受けて旅立ちの日を迎えた。
「魔法で飛ぶのはやっぱり変な感じだ」
「頑張って」
火の都セシュレスの端、かつて地上へ向かうときに二人が旅立った場所。今日は、ウルが送り、シヴァが去っていく。
二人きりの別れだ。霊王や枝守たちは事前にシヴァに挨拶をしており、今日はウルに気を使って姿を見せない。
旅支度を整えたシヴァは、雲が川の如く流れるのを崖から見下ろしてウルを振り返った。
「じゃあな」
「待って、これを」
さっさと飛び降りようとしたシヴァに慌てたウルが布包みを差し出す。訝しげに布を捲って、シヴァは目を見開いた。
「無くなったかと、思ってた……」
「うん。でも、昨日ハルザリィーンが竜に託して届けてくれた」
感極まったような吐息を漏らし鞘に納められた剣を取るシヴァ。育ての親の形見である黒剣であった。
「……ありがとう」
「ハルザリィーンにも伝えておくよ」
「ああ、頼む」
シヴァは愛しげに黒の刃を眺め、満足すると鞘に納めたそれを腰のベルトに吊るした。
「お前も頑張れよ」
「うん。きっと、全てが上手くいくさ」
そう言ってウルは微笑んだ。頷いてシヴァも微笑み返す。
「じゃあ、今度こそ。またな、ウル」
「うん、またね、シヴァ」
次を約束する言葉で。風を纏い、ふわりと大空へ身を投げるシヴァを見送る。
銀星の瞳が見つめる先で、結い上げた彼の黒髪がひらりと風に翻っていた。その背にあの黒翼がなくとも、彼はきっとどこまでも飛んでいけるだろう。
途中で振り返った彼が手を振る。手を振り返して、ウルは「またね」と繰り返した。
ウルはシヴァの姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
再び会う、いつかを思って。
決して消えることのない自由の翼を、彼の背に見つめて。
これにて完結!
ここまで読んでくださり応援してくださった皆様、本当にありがとうございました!
番外編の短編のリクエスト募集についてお知らせ。
誰々の話が読みたい、とかリクエスト等ありましたら、作者の力の及ぶ限り頑張ってお応えいたします!(力及ばぬ場合もございます、申し訳ありません)完結後いくら経っていても構いませんのでメッセージ、感想の端っこ等にてお送りください!
リクエストで完成したものは本作含む『銀星黒翼譚シリーズ』に入れてありますので本作の世界観をもっと楽しみたいという方はどうぞご覧ください。
ありがとうございました!!




